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異世界労務物語 ―女神のオーダー  作者: 月守行


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第三話 約束は、形にして(二)

 その日の夜。灯は宿の窓辺で、星空に向かって正座し、いつもの日報を捧げた。


(女神さま。本日の報告を申し上げます。――一、当町の労務実態。口約束の横行を確認。二、爪痕。旧職人組合の取り決めの消失を確認。三、明日の方針。親方オルソとの再交渉。以上、三点。ご報告いたします)


 項目立てが、我ながら板についてきた、と灯は思う。はじめてお告げを授けたころは、ただ長々と述べていた気がする。神官の務めとして、報告は簡潔かつ体系的であるべきだ――と、ひとりで深くうなずいてから、灯は、ふと動きを止めた。


(……そういえば、私、女神さまと、雇用の契約書、交わしていない)


 背筋が、すうっと冷えた。


(労働条件の明示……賃金、時間、仕事の内容。何ひとつ、書面で受け取っていない。というより、私、いま無給では? 神官の報酬体系って、どこに……)


 トビーには「約束は紙に」と説くつもりでいた自分が、いちばん大きな口約束で異世界に雇われていた。灯は、青ざめた顔で、そっと女神像のほうを見た。像は、いつもの静かな面差しで、何も答えなかった。


(……い、いえ。女神さまとの間には、揺るぎない信頼が。信頼が、あります。……紙がなくても)


 言ってから、灯は自分で自分に突っ込んだ。それは、まさに親方オルソの台詞だった。


 ◇


 もう一度、灯は親方オルソの前に立った。今度は、少しだけ、切り口を変えて。


「親方さん。ひとつ、伺わせてください。……あなたは、若いころ、約束を反故にされたことは、ございませんか」


 オルソの手が、止まった。


「……なぜ、それを」


「顔に、書いてございます。信頼を、いちばん強く口になさる方ほど、たいてい、一度、信じて裏切られておられます。だから、もう紙になど頼らないとお決めになった。――違いますでしょうか」


 長い沈黙のあと、オルソは、低い声で言った。


「……若いころ、腕を見込まれて、遠くの町で、建物を建てる仕事を請けた。三年働けば、親方の座を譲る。そう言われた。紙は、なかった。信頼だ、とその男は言った」


 オルソの太い指が、作業台の縁を、ぐっと握った。


「三年働いて、譲られたのは、借金だけよ。そんな約束はしていない、と、その男は言うた。証がなかった。わしの三年は、どこにも、残っておらんかった」


「――だから、あなたは、この町で、同じことをなさっているのでございます」


 オルソが、はっと顔を上げた。


「あなたを裏切ったのは、口約束でございます。紙ではございません。もし、あの日、二人の名を書いた紙が一枚ございましたら。あなたの三年は、消えずに済みました」


 灯は、静かに、けれどまっすぐに言った。


「紙は、相手を疑うためのものではございません。二人とも間違えないための、二人ともが守られるための、盾でございます。強い側の気分で書き換えられない、対等な約束の、証でございます。……あなたご自身が、いちばん、それを欲しておられたはずでございます」


 オルソは、何も言わなかった。ただ、握りしめた指の力が、少しずつ、ほどけていった。


「賃金と、働く時間と、仕事の内容を、雇うときに、はっきり示す。大事なことは、紙に書いて、渡す。……たった、それだけでございます。トビーさんの雨上がりの西日を、二度と、消えない形にしてさしあげてくださいませ」


 ◇


 満月の夜。


 町の広場に、職人たちが集まっていた。トビーもいる。腕を組んだオルソも、うしろのほうにいる。灯は、白い衣で祭壇に立ち、ひとつ、大きく息を吸った。


 自分の一言が、一年間、この町を縛る。誤れば、誰も逆らえない。その重さに、指先が、かすかに震える。けれど、削られた壁を、トビーの震える声を、思い出すと、迷いは消えた。


「――女神のお告げを、授けます」


 広場が、しんと静まった。


「人を雇うなら、賃金と、働く時間と、仕事の中身を、書いて、示しなさい。大事なことは、言葉ではなく、形にして、その人の手に渡しなさい。もし、示された約束と実際が違うなら、働く者は、いつでも、そこを去ってよい」


 光の文字が、祭壇の上に、浮かび上がる。


「常に十人以上が働く仕事場には、皆で守る決まりを作り、書き記し、届け出なさい。決まりを作るときは、働く人の声を、必ず聴きなさい。そして、誰もが読める場所に、貼り出しなさい。しまい込んだ決まりは、無いのと、同じだからです」


 二つめの文字が、灯る。


「約束は、雇う側と働く側が、対等に交わすもの。決まりを下回る約束は、その部分が、無効となり、決まりの高さまで、引き上げられる。そして――どちらか一方が、相手に不利な変えごとを、押しつけてはならない」


 灯は、集まった職人たちの、一人ひとりを見渡した。


「形にすることは、冷たさでは、ございません。同じ言葉を、誰もが読めるということ。それは、弱い人を守る、盾なのでございます」


 うしろで、オルソが、深くうつむくのが見えた。


 ◇


 数日後。灯が旅装で町を訪れると、あの消えかけた紋章の壁の隣に、新しい掲示板が立っていた。


 真新しい板に、大きな字で、就業規則が貼り出されている。賃金の締め日。休みの日数。見習いが一人前になるまでの年月。皆で寄り合って決めたのだと、通りがかりの職人が、誇らしげに教えてくれた。字の読めない者のために、朝いちばんに、誰かが声に出して読み上げるのだという。


 親方オルソの作業場では、雇い入れの支度が進んでいた。机の上に、一枚の紙。賃金、働く時間、仕事の内容が、丁寧な字で書かれている。その前に、トビーが座っていた。


「トビーさん」


 灯が声をかけると、トビーは、はにかんで筆を握った。けれど、その手が、震えていた。


「俺……字は、あんまり、書けなくて。名前くらいしか」


「大丈夫」オルソが、ぶっきらぼうに言った。「読み上げる。よく聞け」


 親方は、太い声で、紙の一行一行を、ゆっくりと読み上げた。賃金は、腕が上がればこれだけ上げる。休みは、十日にいっぺん。仕事は、石を刻むこと。あの日、雨上がりの西日の下で交わした約束が、そのまま、そこにあった。


 読み終えて、オルソは言った。


「これで、間違いないか」


「……はい」


 トビーは、震える手で、紙の隅に、自分の名前を書いた。たどたどしい、けれど、確かな三文字。そのとなりに、オルソが、自分の名を添える。


 二人の名が、一枚の紙の上で、並んだ。


 トビーの目から、ぽたり、と涙が落ちて、書いたばかりの字の、すぐ横に、小さなしみを作った。


「俺の……約束が、これで、消えないんですね」


 灯の目にも、熱いものがこみ上げた。喉の奥が詰まる。前世で、何百枚と作ってきた契約書。判で押したような書類の一枚一枚が、ほんとうは、こういう涙を、守るためにあったのだ。


 ◇


 夕日が、職人の町を、赤く染めていた。


 石橋の欄干にもたれて、灯は、槌の音の戻ってきた通りを見下ろしていた。削られた紋章の壁には、まだ字は戻っていない。けれど、その隣で、新しい掲示板が、夕日を受けて光っている。


(口約束は、強い側に有利にできている。……でも、形にすれば、雨上がりの西日は、消えない)


 胸の奥に、ふと、あの温かさが差した。顔の見えない、声のかすれた、けれど確かなあの人が、すぐそばにいる気がした。手のひらに、大きな手が重なる。


――民を思え。


 その言葉だけが、夕日の向こうから、まっすぐに届いた。


(……はい、先生。今日も、少しだけ、守れました)


 その夜、宿に一通の手紙が届いていた。王都の徴税官、ミラからだ。几帳面な字で、こう書いてあった。


『アカリ様。ご報告です。王都の帳簿を、全部、覚えました。全部です。夜、目を閉じると数字が流れて眠れません。数字は、人の暮らしですから、仕方ないのです。近々そちらへ伺います。堅焼きパンは湯にひたすとよいそうですよ』


 なぜ堅焼きパンのことを知っているのか。灯は、少し笑って、手紙を胸に抱いた。


 ◇


 王都へ戻った昼下がり。城門の内側で、灯は、また、あの人を見た。


 ルシアン王子殿下である。今日は、石運びらしい。上着を脱いで袖をまくり、職人たちに混ざって、崩れた井戸の石を積み直している。職人たちと、対等な軽口を叩き合いながら。


「あ、神官さまだ」王子は、灯を見つけると、石を抱えたまま器用に手を振った。「おかえり。今日は、どこの町を救ってきたの?」


「……殿下。お城のお務めは、よろしいのでございますか」


「これが、おれの務め」


 悪びれもせず、にっこり笑う。灯はそれ以上は何も言わず、会釈だけして通り過ぎた。


(王命に背いて、力仕事。……理解、できません)


 ただ――積み直された井戸の石組みが、素人目にも見事だったことと、職人たちが心から楽しそうだったことだけは、認めざるを得なかった。それから、民に愛されている、あの屈託のない笑い方も。


(……いえ。理解できませんったら)


 エルデン王国の周りに、また一つ、灯がともった。


 形にすることは、冷たさではなく――やさしさなのだ、と灯は思う。誰もが同じ言葉を見て、安心して働ける。それだけのことが、こんなにも、人を守る。


 神官としての旅は、まだ、始まったばかりだ。

【後書き】

■今回のオーダー


人を雇うときは、賃金と、働く時間と、仕事の中身を、はっきり示すこと。特に大事なことは、口約束ではなく、書いて手渡すの。示された約束と実際が違ったら、そこを去っていい。約束は、言葉ではなく、形に残すものだから。


いつも十人以上が働く職場には、就業規則を。作るときは働く人の声を聴いて、誰もが読める場所に貼り出すこと。しまい込んだ決まりは、無いのと同じ。周知して、はじめて効き目を持つのです。


約束は、雇う側と働く側が、対等に交わすもの。決まりを下回る約束は、その部分だけ無効になって、決まりの高さまで引き上げられる。一方的に不利な変更は、押しつけられない。形は、いつだって、弱い人を守る盾になるから。


◇


■今回の学び(社労士試験対策)


・労働基準法15条(労働条件の明示): 賃金・労働時間・仕事の内容などを雇用時に明示。重要事項は書面(電子含む)で交付。明示と実際が違えば即時に契約解除できる。

・労働基準法89・90条(就業規則): 常時10人以上の職場は作成・届出、作成時は労働者の意見聴取。106条: 周知して初めて効力を持つ。

・労働契約の基本: 対等な合意で締結/就業規則を下回る契約はその部分が無効(規則の基準まで引上げ)/一方的な不利益変更は原則不可。


関連判例: フジ興産事件(就業規則は周知して初めて拘束力)/三菱樹脂事件(採用の自由・試用)


◇


■一問一答(社労士試験の頻出論点から)


【問】労働契約の締結に際して明示された労働条件が事実と相違する場合には、労働者は即時に労働契約を解除することができる。(◯か✕か)


(答えは、次の話の一回めの後書きで)


◇


次回予告:第四話「休む勇気」——誰も休まない、美しい花の町。休むことが“罪”になった人々へ。

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