第三話 約束は、形にして(一)
石と木の匂いのする町だった。
春野灯は、旅人の茶色いフードの下から、その通りを見渡していた。表通りには石工の作業場がずらりと並び、鑿と槌の音が朝の空気を打っている。切り出したばかりの白い石。削りかけの柱頭。積まれた木材。どこを見ても、腕のいい職人の町だ、というのはひと目でわかった。
なのに、人の顔が、暗い。
灯が広場のはずれで足を止めたのは、古い石壁に、消えかけた紋章が刻まれているのを見つけたからだった。槌と、天秤と、それを囲む輪。かつては金で彩られていたのだろう。今は輪郭だけが、うっすらと残っている。
(職人組合の……紋章)
指でなぞろうとして、灯は手を止めた。誰かが削り取ったように、輪の一部が、不自然に平らになっていた。
◇
その日、灯が数えただけでも、荷をまとめて町を出ていく職人が三人いた。
「もうやってられねえ」
石粉にまみれた若い男が、道具袋を担いで通りを行く。灯がそっと声をかけると、男は吐き捨てるように言った。
「入るときは、賃金も休みも良い話だったさ。ふたを開けりゃ全部違う。言った言わないで、こっちが嘘つき扱いだ。……こんな町、いられるかよ」
男は振り返りもせずに、街道の向こうへ消えていった。
(腕のいい職人が、すぐ辞めていく。……この町にも、病がある)
◇
「約束と、違うんです」
その声を聞いたのは、昼過ぎのことだった。
いちばん奥の作業場で、若い見習いがひとり、削りかけの石の前で肩を落としていた。まだ少年の面影を残した、十六、七の顔。トビー、と名乗った。
「雇われた日、親方は言ったんです。腕を上げれば賃金も上げる、十日にいっぺんは休みをやる、って。俺、ちゃんと覚えてます。あの日、雨が上がって、西の窓から陽が差してて。親方はこの石に手を置いて――」
トビーは、目の前の石を、そっと撫でた。
「なのに、今月になって言われました。そんな約束はしていない、休みなんぞ聞いていない、賃金は据え置きだ、って。俺の覚え違いだって。……でも、俺、覚え違いなんかしてない」
灯の胸が、ちくりと痛んだ。前世で、何度も見た顔だ。「聞いていた話と違う」と、うつむいて相談に来る人の顔。
「トビーさん。あなた、雇われたときに、何か……紙のようなものは、もらいませんでしたか」
「紙?」トビーは、きょとんとした。「紙なんて、この町じゃ誰ももらいませんよ。約束は口でするもんです。それが職人ってもんだって、みんな言います」
――紙がない。だから、あとから、いくらでも書き換えられる。
灯は、静かに奥歯を噛んだ。
「故郷を、出てこられたんですか」
「はい」トビーの目に、ふっと光が差した。「田舎じゃ食えなくて。俺、この町の石工になるのが夢だったんです。ここの石橋とか、神殿の柱とか……いつか、俺の削った石が、百年残るような仕事をしたくて。……なのに、いまはもう、明日の賃金がいくらかも、わからない」
夢を語るときの声と、今日を語るときの声の落差が、灯の喉を詰まらせた。
◇
トビーの話が特別なのかと思ったが、そうではなかった。
灯が通りの工房を回るほどに、同じ声が聞こえてきた。口約束で雇われ、あとで反故にされる。休みの日数が、月ごとに縮む。賃金の締め日が、勝手にずれる。
「決まりは、ございませんか」と灯が尋ねると、どの職人も、力なく首を振った。
「決まり? そんなもん、あるわけねえ。あるのは、親方の気分だけさ」
何を守ればいいのか、誰も知らない。守られているのかも、わからない。約束が、どこにも形として残っていない町だった。
◇
「昔は、あったんです」
夕暮れ、トビーが灯を、あの消えかけた紋章の壁へ連れ戻した。彼は壁の下のほうを指さした。石の表面に、細かな彫り跡がびっしりと並んでいる。文字を削り取った、跡だった。
「じいさんたちに聞いたことがあります。ここには昔、職人組合の取り決めが彫ってあったって。賃金はいくら、休みは何日、見習いは何年で一人前……そういうのを、みんなで決めて、この壁に刻んでたんです。誰でも読める場所に」
「それが……消えたんですね」
「いつのまにか」トビーは、削られた石をなぞった。「気づいたら、ぜんぶ平らになってた。誰が削ったのかは、誰も言いません。……ただ、削られてから、口約束だけになったって」
灯は、その平らな石肌を、長いあいだ見つめた。誰かが、都合の悪い取り決めを、そっと葬ったのだ。皆で決めた約束が消えれば、あとに残るのは――強い側の、記憶だけ。
胸の奥が、しんと冷えた。犯人を探しに来たのではない。けれど、この平らな石が語っていることは、はっきりしていた。
◇
親方の作業場は、いちばん大きな石窯を備えた、立派な建物だった。
灯がフードを取り、神官の衣に着替えて訪ねると、恰幅のいい親方オルソは、鑿を持つ手を止めて、鼻を鳴らした。
「神官さまが、うちの若造の泣き言を真に受けなすったか」
「約束が、守られていないと、聞いております」
「約束?」オルソは、太い声で笑った。「わしは、そんな約束はしとらん。あいつの思い違いだ。だいたい、いちいち紙になんぞ書いてどうする。この町は、信頼で回っとるんだ。何十年もな」
「では、その信頼を、紙に書いてはなりませんでしょうか」
「はっ」オルソは、あきれたように首を振った。「紙が要るというのは、相手を疑っとるということだろう。職人が職人を疑ってどうする。信頼があれば、紙などいらん」
――信頼があれば、紙などいらない。
美しい言葉だ、と灯は思った。前世でも、何度も聞いた。そしてその言葉のあとで、いつも同じ側が、泣いてきた。
「親方さん」灯は、そっと前に出た。「信頼は、いつも、同じ側だけが損をするのでございます」
「なんだと」
「言った、言わない。そうなったとき、どちらの言い分が通りましょうか。……賃金を払う側と、もらう側。仕事を与える側と、待つ側。声の大きいほうが、いつも勝つのでございます。信頼という言葉は、たいてい、強い人のためにございます」
オルソの顔から、笑いが消えた。
「トビーさんは、雨上がりの西日まで覚えておりました。それでも、負けるのでございます。紙がございませんから」
◇
その夜、灯は町はずれの古い工房の軒先で、ひとりの老職人と向かい合っていた。
名を、ゴルドといった。もう鑿は握れないという、しわだらけの手を炉の火にかざしながら、老人はぽつり、ぽつりと語りはじめた。
「あの壁の取り決めをな……わしは、若い時分に刻む手伝いをしましたんじゃ」
灯は、息を詰めた。
「あのころは、良かった。賃金も休みも、皆で寄り合って決めて、壁に彫った。誰でも読める。親方が気分で変えようとしても、壁がこう言うんじゃ。『いや、こう決めたはずだ』とな。……あの彫り字が、わしら弱い者を、守ってくれとった」
炉の火が、老人の目に、ちらちらと映っていた。
「じゃが、ある代の力の強い親方衆が、あれを疎ましく思うた。決まりがなけりゃ、いくらでも安く使える。……いつのまにか、彫り字は削られ、寄り合いは消えた。残ったのは、口約束じゃ」
ゴルドは、乾いた笑いを漏らした。
「口約束というのはな、神官さま。時が経つと、強い側の言い分だけが残るように、できとるんじゃ。弱い者の記憶は、削られた壁と同じ。……誰も、読めんようになる」
灯は、膝の上で、そっと手を握った。前世で自分がしてきた仕事の、いちばん芯にあるものを、この老人は、たったひと言で言い当てていた。
◇
翌朝、灯は屋台で、この町の名物だという石窯の堅焼きパンを買った。
こんがりと焼けた、黄金色のパン。炭の匂いが香ばしい。灯は両手でそれを捧げ持ち、いつものように目を閉じた。
(この一片に宿りし、石窯の熱と、粉挽きの労と、焼き手の技に――感謝を。いただきます)
うやうやしく、ひとくち。
――かちん、と、歯が鳴った。
石だ。石を焼いたのかと思うほど、堅い。灯は目を見開いた。もう一度、覚悟を決めて噛みしめる。奥歯が、悲鳴を上げた。
(か……硬い。祈りを、捧げてしまった手前、途中でやめるわけには……! でも、これは、噛めば噛むほど、味が……いえ、味の前に、歯が……!)
結局、灯は湯にひたして、ふやかしてから、ありがたく平らげた。焼き手の親父が、堅焼きパンに拝礼し、なぜか湯につけて必死の顔で格闘する旅装の女を、けげんそうに眺めていた。
■前の話の一問一答・答え合わせ
【問】就業規則を磁気ディスク等に記録し、各作業場に労働者がその記録の内容を常時確認できる機器を設置する方法は、労働基準法上の周知の方法として認められている。(◯か✕か)
【答】◯ 周知の方法は、①常時各作業場の見やすい場所への掲示又は備付け、②書面の交付、③磁気ディスク等に記録し各作業場に常時確認できる機器を設置すること、の三つである(労基法106条1項、則52条の2)。
※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。




