幕間 予定にない声(三)
夕方、市場が畳まれていくあいだ、男は水路の縁に残っていた。
いつもなら、畳まれる順を数える。今日は、数えなかった。数えるかわりに、昼の言葉を、頭の中でもう一度並べた。一週間で四十時間。一日で八時間。途中で必ず、休みを。七日に一度は、まるごと。
並べてみると、不思議な言葉だった。
新しいことは、一つも言っていない。働きづめの体が長持ちしないことは、働いた者なら誰でも知っている。休んだ者の手のほうが確かなことも、誰でも知っている。誰でも知っていることを、誰も言葉にしていなかった。していなかったから、左官の亭主は十日帰らず、女房は人前で袖を引くしかなかった。
誰でも知っていることに、形を与えると、人垂りができる。
男は、それを、今日、目で見た。目で見たのは、はじめてのはずである。はずである、というところで止めておく。止めておかないと、いつ見たのかを探しはじめる。探しても、出てこないことは、もう分かっている。
形には、もう一つ、妙なところがあった。誰に向かって言ったのかが、書いていないのである。布告なら、宛て先がある。この町の者へ、とか、諸職の頭衆へ、とかである。あの言葉には、それが無かった。給金を払う者と、払われる者と、そのどちらでもない者が、同じ言葉を同じ順で聞いて、それぞれ別のところで黙った。宛て先の無い言葉は、聞いた者が自分で宛て先になる。だから、写す。写して、次の者へ回す。
回った先のことを、男は少し考えた。この市場から先は、東の街道と、南の川筋である。行商人は月に二度来る。次に来るとき、あの紙はもう要らないだろう。今日写した三枚が、それより先に歩いている。
市場が薄くなったころ、男は掲示の柱の前を通った。
柱には、古い布告が三枚貼ってある。いちばん上が市の開き刻の定め、その下が水路の使い方、いちばん下は何かの禁令で、端が破れて読めない。三枚とも日に灼けて、字より紙のほうが目立つ。誰も、柱の前では足を止めない。止めなくても困らないことしか、書いていないからである。
その柱の根元に、板が一枚、立てかけてあった。
塩屋の写した板である。釘は打っていない。持ち主が明日も使う板だから、打てないのだろう。立てかけてあるだけの板の前に、人が二人、立っていた。日雇いの男と、その連れである。二人は、声を出して読んでいた。布告を読むとき、人の目は字の上を滑る。この二人の口は、動いていた。一語ずつ、口に入れて、確かめて、次へ行く読み方だった。
読み終わると、日雇いの男は、板を柱に立てかけ直した。もとの角度より、少しだけ通りに向けて。
男は、その少しの角度を見た。
貼られた紙と、立てかけられた板の違いが、そこにあった。貼られた紙は、剥がれるまでそこにいる。立てかけられた板は、誰かが向きを直す。直すのは、次に通る誰かに読ませたいからである。読ませたい者がいるかぎり、板は倒れない。
残るのは、声である。
言葉の来ることは、知っていた。歩くことも、知っていた。声のことだけを、男は知らなかった。知らないものを一つ持った日に、それをどうすればよいのか、男は知らない。知らないままでいるのは、ずいぶん久しぶりだった。久しぶりすぎて、この落ち着かなさに名前があったことを、思い出すのに少しかかった。
書き留めないのか、と自分に訊いてみた。
書かない。それは決めてある。
かわりに、男は、昼の言葉を、順を変えずにもう一度言った。それから、訛りのことを思った。ひと月ばかり前の朝の、どの土地のものでもない訛り。白い髪の神官。数の外に置いたものが、ひとりでに歩いてきて、隣に並んだ。
声のある者には、こちらからも、声が届くということである。
届かせるかどうかは、決めていない。決めていないことが一つある、というのは、悪くなかった。
男は、坂の下から、城を見た。
城の窓には、もう灯が入りはじめている。あの中に、男の今日の仕事は一つもない。市場の十の仕事は、頼まれる前に体が動いた。城の仕事は、頼まれても動かない。動いたところで何がどうなるかを、男は知りすぎている。知りすぎているものの前で、人の体は動かなくなる。
夕日が、水路の水を短く光らせた。
明日の市場は、今日と同じに開く。閂が鳴り、荷車が継ぎ目をはね、窯の戸が二度鳴る。そこまでは、いつもどおりである。男はそれを、そらで言える。
その先が、言えなくなっていた。
丘の上に、神殿の屋根が黒く残っていた。あの声は、いま、あの屋根の下にある。それだけのことが、今日はまだ、数の外に出たままになっている。
言えないものを一つ抱えて、男は、坂を上らずに、丘を見た。
――予定に、ない。
覚えたものは、いつか減っていく。減っていくにまかせる、といつもなら決めている。今日のこれは、減らない気がした。減らないものを最後に覚えたのが、いつのどの朝だったかを、男は、もう思い出さないことにしている。
男は、その五文字と、声とを、書かずに、覚えた。
◇
それから幾日かたった朝である。
市場は、いつもの順で開いた。閂が鳴り、荷車が七つめの継ぎ目ではね、窯の戸が二度鳴った。男は八百屋の荷を下ろし、氷を日陰へ移し、いつもの朝を、いつもの順でなぞっていた。
声は、丘のほうから入ってきた。
道を訊く声ではなかった。旅の糧を買う声だった。パンを二つ。干した果を少し。値は、切らない。礼が、丁寧すぎる。市場で買い物をする者の礼ではなく、帳場で世話になった者の礼である。ひと月ばかり前と、同じ礼だった。
旅装だった。北へ発つ者の買い方だった。
男の数が、そこで止まった。
体は、動かなかった。頼まれる前に動く体である。荷車が傾げば肩が入り、迷子が声を上げれば腕が伸びる。その体が、動かない。頼まれていないからではない。動いた先で何をするのかを、体が知らないからである。
男は、自分の持っている形を、順に数えた。
布告の形。上から下りる言葉である。持ってはいるが、この市場で使ったことはない。使えば、明日から、魚屋の軽口が敬語になる。裁きの形。あいだに入る言葉である。あの声は、誰とも言い合っていない。頼まれる形。いちばん慣れた形である。あの声は、何も頼んでこない。
数えているあいだに、声は、北の門を出ていった。
男は、長い息を一つ吐いた。惜しんだのか、助かったのか、自分でも決めかねる息だった。決めかねたまま、男は氷を日陰へ移し、いつもの朝の続きへ戻った。戻れることが、今日は、少しだけ癪だった。
◇
それから、しばらくたった昼である。
男は、城下の外れで、崩れた井戸の埋め戻しを手伝っていた。白い上着の袖をまくり、借り物のシャベルは泥まみれで、それはいつもどおりの昼だった。
坂の道を、声が上ってきた。
北から帰ってきた声である。城門をくぐったときには、連れがいた。小さいのが一人、道々の看板の数字を端から諳んじながら歩いていて、声は、その半分も追えずに白旗を上げていた。連れは城のほうへ預けられて、いまは、一人で神殿への坂を上ってくる。
男の体が、シャベルを持ったまま、坂のほうへ向いた。
頼まれる前に動く体である。今度は、頼まれる前に、動いた。
形は、決めてある。残ったのは、あの朝と同じで、軽口だけである。挨拶の一部で、誰も本気にせず、外れても何も残らない、市場の軽口である。男の持ち物のうちで、いちばん軽い。重い言葉は、理由を訊かれる。理由を、男は持っていない。持っているものには、まだ名前が無い。名前の無いものは、渡せない。
軽いものは、外れても、消える。消えるものなら、出せる。
いちばん大事かもしれないものの前で、いちばん軽いものしか出せない。われながら、どうかと思った。思ったが、ほかに持ち合わせが無かった。無いものは、出せない。有るものから、出すしかない。
シャベルは、置いていかなかった。置いていくと、まじめな話になる。
歩きながら、これは予定に無い、と思った。無いことを、今度は、確かめなかった。
――その声に、声をかけてみた。
■今回の学び(社労士試験対策)
今回のテーマ: 貼ってあることと、届いていること
この幕間で、男は二種類の言葉を見ました。柱に貼られたまま古くなる布告と、頼まれもしないのに写されて、手から手へ歩いていく写し。貼ってあることと、届いていることは、別のことです。今回はそこを見ていきます。
現実の労働法にも、この違いを正面から扱う条文があります。労働基準法百六条です。使用者は、この法律及びこれに基づく命令の要旨、就業規則、労使協定等を、常時各作業場の見やすい場所へ掲示し、又は備え付けること、書面を交付することその他の厚生労働省令で定める方法によって、労働者に周知させなければなりません。省令の定める方法は三つ。見やすい場所への掲示又は備付け、書面の交付、そして磁気ディスク等に記録したうえで、各作業場に労働者がいつでも記録の内容を確認できる機器を設置することです。この周知義務に違反すると、百二十条により三十万円以下の罰金の対象になります。
大事なのは、周知が単なる義務にとどまらないことです。労働契約法七条は、労働者及び使用者が労働契約を締結する場合において、使用者が合理的な労働条件が定められている就業規則を労働者に周知させていた場合には、労働契約の内容はその就業規則で定める労働条件による、と定めています。十条の不利益変更でも、周知は要件の側に置かれています。そして最高裁は、就業規則が拘束力を生ずるためには、その内容を適用を受ける事業場の労働者に周知させる手続が採られていることを要する、と判示しました。フジ興産事件と呼ばれる判例です。周知されていない就業規則は、あっても、無いのと同じ扱いになるということです。
ここでいう周知は、実質的周知と呼ばれます。全員が実際に読んだことまでは要りません。知ろうと思えば、いつでも知ることができる状態に置いてあること。逆に言えば、金庫の中の就業規則、誰も開けない棚の綴りは、この状態を満たしません。
作中の掲示の柱を思い出してください。三枚の布告は、貼ってあります。形の上では、周知の体裁が整っています。けれど、誰も足を止めない。字より紙のほうが目立つ。いっぽう、柱の根元に立てかけられた一枚の板は、釘も打たれていないのに、通りかかった者が声に出して読み、読み終えた者が、次に通る誰かのために、少しだけ向きを直しました。
制度の言葉は、貼られただけでは働きません。読まれて、写されて、向きを直す者が現れて、はじめて働きはじめます。男が市場で見たのは、その最初の一歩でした。
◇
■一問一答(社労士試験の頻出論点から)
【問】就業規則を磁気ディスク等に記録し、各作業場に労働者がその記録の内容を常時確認できる機器を設置する方法は、労働基準法上の周知の方法として認められている。(◯か✕か)
(答えは、次の話の一回めの後書きで)
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次回予告:第三話「約束は、形にして」――言った、言わないになる前に、紙を一枚。




