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異世界労務物語 ―女神のオーダー  作者: 月守行


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幕間 予定にない声(二)

 午後の市場に、人垂りが一つできた。


 できる場所は、いつも掲示の柱の前である。そこは珍しくない。珍しかったのは、人垂りの向きだった。柱を囲むのではなく、一人の男を囲んでいた。行商人である。北から来た塩と革の行商人で、月に二度、この市場に立つ。立つ場所も、口上も、決まっている。


 今日は、口上を言っていなかった。


 かわりに、紙を一枚、両手で持っていた。


 「――だから、読むだけだぞ。おれが言ったんじゃない。読むだけだ」


 行商人は、そう断ってから、読みはじめた。断り方に慣れがなかった。この男が商いの外のことでこれだけの人を集めるのは、はじめてである。


 男は、氷屋の日陰から、それを聞いた。


 「――先の満月の晩のことだ。白い髪の神官さまが、祭壇で空へ向かって言った。言った言葉が、光の文字になって、夜空に浮かんだ。おれはあの晩、街道の上にいて、見てない。見た者から、写しをもらった。写しの写しだ。……いいか、読むぞ」


 人垂りが、静かになった。


 「――働く時間は、一週間で四十時間、一日で八時間までとせよ」


 男は、パンを持ったまま、動かなくなった。


 「――働きが六時間を超えたなら四十五分、八時間を超えたなら一時間、途中で必ず、休みを与えよ。そして、少なくとも七日に一度は、まるごと休ませよ。どうしても叶わぬ折にも、四週のうちに四日は、必ず」


 人垂りの中で、誰かが、もう一度、と言った。行商人は、同じところを、同じ順で読み直した。二度めのほうが、ゆっくりだった。聞いている者が、一語一語を持って帰ろうとしているのが、背中で分かる読み方だった。


 左官の女房が、隣の亭主の袖を引いて、うちの人は十日帰っていない、と小さく言った。革屋の主が、腕を組んで、七日に一度は、のところだけを口の中でなぞった。人垂りの後ろのほうで、若い者が、指を折って自分の働いた刻を数えはじめた。


 男は、その全部を見ていた。


 見ながら、頭の中で、いつもの答え合わせをしていた。


 合っていた。


 妙な言い方になるが、合っていたのである。言葉が北から紙で来ることも、読む者のまわりに人垂りができることも、聞いた者が写して持ち帰ることも、男は、驚かずに見ていた。驚かない自分に、途中で気がついた。はじめて見るものを、人は、こんなふうには見ない。見たことのある者の見方だった。いつ見たのかと自分に訊くと、何も出てこなかった。出てこないところを、男は深追いしない。深追いしないと、決めてあるからである。


 合わないものが、一つだけあった。


 声である。


 男の頭の中で、あの言葉は、声を持っていなかった。言葉が来ることは、知っていた気がする。声で来ることを、知らなかった。いま読んでいるのは行商人の声だが、行商人は写しを読んでいるだけである。写しの元をたどれば、満月の晩に、祭壇でそれを口に出した者がいる。白い髪の神官だと、行商人は言った。声のある者だ、ということである。道を訊き、礼を言う声のある者だ、ということである。


 男は、ひと月ばかり前の朝の訛りを、数の外から取り出した。取り出して、いま聞いた話の隣に置いた。置いたものは、動かなかった。動かないものは、合っているものである。


 行商人が紙を畳もうとすると、塩屋が前へ出た。昼に籠屋と言い合っていた、あの塩屋である。


 「写させてくれ」


 「写しの写しの、写しになるぞ」


 「かまわん」


 塩屋は、その場で帳場の板を借りて、立ったまま写しはじめた。写す手つきが、値札を書く手つきと同じだった。書き終わると、革屋の主が板を受け取って、続きに自分のぶんを写した。板は、それから三人の手を回った。回るあいだ、行商人は所在なげに立っていて、最後に自分の紙を返してもらうと、なぜだか一度、紙に向かって頭を下げた。


 左官の女房が、人垂りを抜けて、男のところへ来た。


 「殿下。あれは、ほんとうでございましょうか」


 「どれ」


 「七日にいちどは、まるごと休めというの」


 「本当かどうかは、七日めに分かるよ」


 「分かったら」


 「教えて。おれは雇われてないから」


 女房は、笑って、笑いを途中でやめて、亭主のところへ戻っていった。戻る背中が、来たときより速かった。速くなった背中を、男は目で送った。あの現場が十日づめのままなら、七日めに、あの女房は写しを持って現場の帳場へ行く。行くところまでは、見える。その先は、見えない。帳場が写しの前でどうするかを、男は知らない。


 知らない先が増えていく午後だった。


 男は、パンの残りを口へ入れて、ゆっくり噛んだ。噛みながら、行商人の手の中の紙を見た。写しの写しだと、行商人は言った。写しの写しということは、あの晩そこにいた誰かが写し、写したものをまた誰かが写したということである。頼んだ者はいない。銭になるわけでもない。それなのに、紙は、幾日かで、丘の上の祭壇からこの市場まで下りてきて、今日、商いの声を一つ止めた。


 言葉が、自分で歩いている。


 男は、それを、知っている。知っているという手応えだけがあって、どこで知ったのかが無い。棚から取り出せるのに、仕舞った覚えのない知り方である。男の頭には、そういう知り方のものが、いくつかある。いくつあるかは、数えないことにしている。


 布告なら、知っている。布告は、上から下りてくる。下りてきて、柱に貼られ、貼られたまま古くなる。歩かない。歩かないから、貼られた場所より先へは行かない。


 この紙は、貼られていない。


 手から手へ、写されながら、歩いてきた。

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