↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界労務物語 ―女神のオーダー  作者: 月守行


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/34

幕間 予定にない声(一)

 まだ暗いうちに、男は城の一室で目を覚ました。


 身支度は短い。顔を洗い、飾りのない上着を羽織って、城の門へ下りる。門の番の兵が、男に気づいて背を伸ばした。


 「殿下、今日はどこへ」


 「昼は民の元へ」


 それだけ答えて、男は門を出ていった。番の兵は、その背中を黙って見送った。


          ◇


 朝市の音は、決まった順で始まる。


 最初に、南の門の閂が鳴る。次に、荷車の輪が石畳の継ぎ目を拾う。継ぎ目は門から数えて七つめがいちばん深いので、そこで音が一度はねる。はねた音に、パン屋の窯の戸が続く。窯の戸は建て付けが悪く、開けるときに二度鳴る。二度めのほうが高い。それから、水売りの桶が井戸の縁に当たり、鳥が屋根から下り、市場のまんなかで、誰かが今日はじめての値を呼ぶ。


 男は、その順を、そらで言える。


 言えるからといって、何かの役に立つわけではない。役に立てたことも、ない。ただ、朝の市場の端に立って、音が来る前にその音の名を頭の中で言い、言ったとおりに音が来るのを、毎朝、確かめている。確かめて、どうするのでもない。今日も市場は、男の知っているとおりに開いた。


 男は、荷を運んでいた。


 運べと言われたのではない。八百屋の荷車が七つめの継ぎ目で輪を取られて傾いだので、下から肩を入れた。入れる場所は決まっている。荷台の左の後ろである。そこへ入れると、傾ぎが戻る。戻してから箱を三つ運び、並べる向きを訊かずに並べた。八百屋は、礼を言う前に値札を書きはじめた。この男の礼は、いつも値札のあとである。


 「すまんな」


 「うん」


 男は、次の荷へ行った。


 市場には、男のする仕事が、朝のあいだだけで十ばかりある。荷を下ろす。天幕の綱を張り直す。氷屋の氷を、溶ける前に日陰へ移す。迷子を一人、人混みの上から抱え上げて、探している家の者のところへ届ける。どれも、頼まれる前に体が動く。動いてから、頼まれる。順が逆なのだが、市場の者はもう慣れていて、誰も不思議がらない。


 「殿下、こっちも」


 魚屋が、桶を顎で指した。男は桶を持ち上げ、言われる前に台の右へ置いた。右に置くのは、この魚屋が左利きだからである。


 「殿下は、よう見とるな」


 「暇だからね」


 「暇な御方が、朝から十も働くか」


 「働くのは暇つぶしで、見てるのが本業なんだ」


 魚屋は笑って、鱗を落としはじめた。この応酬も、いつもどおりである。男の軽口は、市場では挨拶の一部になっていて、誰も本気にしない。本気にしないのがちょうどよい。本気にされると、次から頼まれなくなる。頼まれなくなると、見ている理由を別に作らなければならなくなる。


 井戸のところで、綱が鳴った。


 鳴り方が、いつもと半音違った。男は手を止めずに、頭の中でだけ、井戸へ行った。綱の撚りが戻ってきている。切れるのは、まだ先である。先だが、切れる日の朝は水汲みが混む。混んだ列のいちばん後ろに、足の悪い婆さまが並ぶことになる。男は、昼までに綱屋へ寄って、新しい綱を一本、井戸の小屋へ置いておくことにした。頼まれてはいない。頼まれたときには、たいてい、もう遅いのである。


 パン屋の窯の戸は、今朝も二度鳴った。


 男は、荷の合間にパン屋の裏へ回って、戸の蝶番を見た。上の蝶番の木ねじが、半分抜けかけている。締め直せば、二度鳴りは一度になる。男は、締め直さなかった。二度めの高い音で、市場の半分は朝の刻を計っている。パン屋の女房も、二度めの音で振り向く癖がついている。音を直すというのは、音を頼りにしている者たちの朝を、まとめて少しずつずらすということである。ずらすほどの用は、ない。男は、木ねじが完全に抜ける日だけを頭に入れて、裏から戻った。


 直せるものを直さずに置く、という手入れの仕方が、男にはある。市場の者は誰も気づいていない。気づかれないのが、うまくいっている証しである。


 氷屋の氷を日陰へ移すころには、日が高くなっていた。氷屋は毎朝、氷の置き場を選び違える。選び違えることまで含めて、男の知っている朝である。


 昼が近づくと、市場のまんなかで、声が高くなった。


 塩屋と、籠屋である。


 男は、振り向く前から、中身を知っていた。籠屋の手押し車の輪が、今朝、塩屋の店先で割れた。輪が割れて、車が傾ぎ、塩の袋が一つ、水路の縁で破れた。籠屋は、輪が割れたのは石畳のせいだと言う。塩屋は、塩が破れたのは車のせいだと言う。どちらも、自分の損の話だけをしていて、相手の損の話をしていない。だから、声だけが高くなる。


 男は、二人のあいだへ入った。入って、先に塩屋のほうを向いた。


 「袋は、いくつ破れた」


 「一つだ」


 「中身は、どこまで濡れた」


 「……半分は、掬えば使える」


 「じゃあ、損は袋一つと、塩が半分」


 男は、次に籠屋のほうを向いた。


 「輪は、直るのか」


 「木口が裂けとる。輪ごと替えだ」


 「替えの輪は、いくらする」


 籠屋が値を言い、塩屋がそれを聞いて、少しだけ黙った。相手の損に値がつくと、人は少し黙る。自分の損より大きいか小さいかを、頭の中で並べるからである。並べ終わるまで、男は待った。


 「こうしよう。輪の替えは籠屋が持つ。自分の車だからだ。塩の半分と袋は、二人で分けて持つ。車がそこを通ることを、塩屋は毎朝知っていて、店先の石が浮いているのも知っていた。知っていて、直していない。籠屋は、輪の木口が先月から鳴いていたのを知っていた。知っていて、替えていない。……知っていたのが二人なら、破れた塩も二人のものだ」


 塩屋と籠屋は、顔を見合わせた。見合わせてから、どちらからともなく、うなずいた。うなずき方に、まだ少し不服が残っている。残っているくらいが、ちょうどよい。全部得心した顔で別れると、次に同じことが起きたとき、また男を探す。少し不服が残っていると、次は自分たちで先に石を直す。


 「ありがとうございました、殿下」


 籠屋が頭を下げ、塩屋も下げた。男は、片手を上げて、それで済ませた。


 答えなら、二人が言い合いを始める前から、男の頭の中にあった。あったが、先に言わなかった。先に言うと、二人は答えだけを持って帰る。損を並べる順を持って帰らない。順を持って帰らなければ、次の言い合いのときに、また答えを外から借りに来る。だから男は、答えまでの道を、二人に歩かせる。歩かせて、最後の一歩だけを言う。


 こういう裁きを、男はこの市場で何度もやってきた。数えたことは、ない。数えないのは、数えると、多さに意味があるように思えてくるからである。多さに意味は、ない。同じ市場で同じ言い合いが起きるかぎり、裁きの数は増えるだけで、言い合いは減らない。減らし方を、男は知らない。知らないことの一つとして、頭の隅に置いてある。


 半刻ほどして、籠屋が車を引いて戻ってきた。替えの輪が、もう嵌まっている。嵌めたのが早すぎる。男が見ると、輪は新品ではなかった。木口に、古い塗りの跡がある。車大工が、手持ちの古輪を安く回したのである。籠屋は、男と目が合うと、ばつの悪い顔をして、それから開き直った顔をした。


 「……古いのでも、回りゃ同じだ」


 「うん。塩屋には言っておきなよ。替えたって」


 「なんでだ」


 「割り前を出した相手には、直したところを見せるものだよ。見せておくと、次に何かあったとき、話が半分で済む」


 籠屋は、少し考えて、車の向きを変え、塩屋の店のほうへ引いていった。引いていく背中を、男は見送った。ああいう一手間を、この市場の者は面倒がる。面倒がって、済む話を長くする。長くなった話の掃除が、男の仕事になる。仕事を減らす種を、男は今日も一つ蒔いた。蒔いた種の礼も、言われない。


 昼の前に、男は綱屋へ寄った。


 寄って、井戸の釣瓶に合う太さの綱を一本、買った。綱屋は、綱を巻きながら、男の顔と井戸の方角とを見比べた。


 「頼まれたか」


 「頼まれてない」


 「またか」


 綱屋は、それ以上訊かなかった。訊かないかわりに、端の始末をいつもより丁寧にした。男は、その綱を井戸の小屋の内側に掛けた。掛けておけば、切れた朝に、誰かが見つける。見つけた者は、置いた者を探す。探して、見つからない。見つからないので、井戸の神さまの話になる。なっているのを、男はあとで水売りから聞くことになる。聞くところまでが、いつもの形である。


 置いた綱が礼を言われないことを、男は別に何とも思っていない。礼は、頼まれた仕事に付くものである。頼まれる前の仕事には、付かない。付かないぶん、軽い。軽い仕事だけを選んでやっていると言えば、そのとおりである。重い仕事がどこにあるかを、男は知っている。知っていて、そちらへは行かない。行かない理由を言葉にしたことは、一度もない。


          ◇


 昼の鐘のあと、男は水路の縁に腰を下ろして、パンを食った。


 食いながら、午後の市場を眺めた。眺めるというより、答え合わせである。西の天幕が先に畳まれる。畳むのは、あの店の女房が夕方の水汲みの列を嫌うからである。粉屋の主が水路で手を洗い、洗いながら明日の粉の値をつぶやく。つぶやいた値は、明日、そのとおりに札へ書かれる。犬が肉屋の裏へ回る。回った先で、骨を一本もらう。もらえる曜日を、犬は覚えている。


 男は、それを全部、先に言える。


 書き留めたことは、ない。


 書けば早いのだろうと、思ったことはある。思っただけである。男は、書かない。書かないと決めたのがいつだったか、もう思い出さないことにしている。決めてからは、覚えたものは頭に置き、置いたものが減っていくにまかせている。減っても、困らない。明日の市場は、今日の市場と同じだからである。同じものは、覚え直せる。


 同じでないものだけが、覚えられない。


 同じでないものは、めったに来ない。


          ◇


 ひと月ばかり前の朝のことを、男は、まだ覚えている。


 市場の音が、一つ多かった朝である。


 多かったのは、声だった。門の側の人垂りの向こうで、誰かが道を訊いていた。姿は見えなかった。フードをかぶった旅人だと、あとで水売りが言った。男が覚えているのは、姿ではなく、訛りである。


 聞いたことのない訛りだった。


 男は、この都で聞こえる訛りを、全部知っている。北の谷のもの、南の街道のもの、海沿いのもの、山向こうのもの。どの訛りがどの言葉のどこを丸めるかまで、言える。あの朝の訛りは、そのどれでもなかった。どれでもない訛りというものを、男は、それまで聞いたことがなかった。


 声は、道を訊いていた。訊いた先は、神殿だった。


 神殿への道は、この市場から三つある。教えた者は、いちばん遠い一つを教えていた。遠いが、坂の少ないほうである。旅装の者に教えるなら、それでよい。声は、礼を言った。礼の言い方が、丁寧すぎた。市場で道を訊く者の礼ではなく、帳場で世話になった者の礼だった。


 その声は、それだけ言って、市場を出ていった。


 それきりである。


 男は、その朝のパンの値も、天幕の並びも、もう覚えていない。手放したからである。訛りだけを、手放しそこねた。手放しそこねたものが頭の隅に残っていて、ときどき、市場の音の順を数えるときに、勝手に出てくる。出てくるたびに、男は、それを数の外へ置き直す。


 数の外に置くものがあるのは、久しぶりだった。


 久しぶりであることに、男は、そのとき気がついていなかった。気がついたのは、あとになってからである。市場の音の順に、覚えのない音が混ざったのは、あの朝が最初だった。最初の一つは、いつでも、来たときには最初だと分からない。二つめが来たときに、はじめて、あれが最初だったと分かる。


 二つめは、今日の午後に来た。

■前の話の一問一答・答え合わせ


【問】使用者は、事業場の過半数を代表する者との書面による協定があれば、賃金の一部を通貨以外のもの(現物)で支払うことができる。(◯か✕か)


【答】✕ 通貨払の例外は、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合と、省令で定める確実な支払方法(口座振込み等)による場合である(労基法24条1項ただし書)。過半数代表者との労使協定で認められるのは賃金の一部控除(全額払の例外)であり、現物給与は労働協約によらなければならない。


※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。