第二話 払われぬ町(二)
その日の夕暮れ、灯とミラは倉庫の軒下に並んで座り、一枚の板に、炭で線を引いていた。
「あのね、ミラちゃん。町の帳簿を、新しい形に組み直したいんです」灯は、線の横に五つの丸を描いた。「賃金には、守るべき五つの土台があります。ひとつ、通貨で払うこと。証文や塩や品物ではなく、誰の店でも使える、本物のお金で。ふたつ、働いた本人に、直接。みっつ、全額を。勝手に、天引きしないで」
「みっつめ、うれしい。あの十九種類の名目、ぜんぶ消えるの?」
「勝手なものは、消えます。よっつ、毎月、一回以上払うこと。何ヶ月もためこまない。いつつ、決まった期日に。気まぐれで遅らせない」
「通貨で、直接、全額、毎月一回、決まった日に。……この五つが守られてたら、あの母娘は、どこのパン屋でも、パンを二つ買えた」
「そうです。そして、もうひとつ。余分に働かせたら、割り増しを払うこと。決められた時間を超えて働かせたら、二割五分、増し。夜の十時から、朝の五時までの深夜も、二割五分、増し。休みの日に働かせたら、三割五分、増し」
「二割五分と、三割五分」ミラの目が、きらりと光った。数字を聞くと、この子は生き返る。「じゃあ、あの夏至の日、七人が夜明けまで働いた分は、深夜と時間外の割り増しで、ちゃんと計算すると――大銀貨で五十二枚と、小銀貨八枚。それが、あの七人に、払われるべきだった。払われて、いなかった分」
「その払われていない分は、消えたわけではありません。それは、雇い主の借金なんです。働いた人は、あとからでも請求できます。……ただし、いつまでも、ではありません。時が経つと請求できなくなる期限がありますから、早いほうがいいんです。そのとき、いちばんの武器になるのが」
「帳簿」ミラが、即座に言った。「賃金の台帳と、働いた時間の記録」
「そうです。記録があれば、誰が、いつ、どれだけ働いて、いくら払われるべきだったか、それが証拠になります。ミラちゃん。あなたが眠れないくらい気にしてきた数字の一枚一枚が、この町のみんなを守る、盾になります」
ミラは、しばらく五つの丸を見ていた。
「あたし、数字が合わないのが、ただ気持ち悪いだけだと思ってた。……でも、ちがったのね。数字が合わないってことは、誰かの暮らしが、削られてるってことだったのね」
夕日が、二人の描いた五つの丸を、赤く染めていた。
◇
その夜、灯は宿の窓辺で、東の空に昇りはじめた満ちかけの月に向かい、静かに正座した。今夜も、女神への日報の時間だった。
(本日のご報告を申し上げます。当町、賃金の未払いおよび証文払いの、深刻な事案を確認。労働者の困窮、著しく――)
途中で、灯は、ふっと言葉を止めた。倉庫の軒下で、五つの丸を食い入るように見つめていた、あの小さな顔が浮かんだ。
(……追伸。本日、天才に会いました。町ひとつぶんの帳簿を、頭の中に入れている子です。私の暗算では、まるでかないません。この子がいれば、この町は、きっと大丈夫です)
月が、静かに、光を増していく。
◇
満月の夜。
町の中央広場の古い祭壇に、白い衣の灯が立った。旅人のフードを脱ぎ、神官の姿を現した灯を見て、市場の人々がどよめいた。あの旅人が、神官様だったのか、と。
証文を握りしめた母娘も、天引きに肩を落としていた職人も、白い髭の老商人も、みな広場に集まっていた。うつむいた染物屋の主人と、その隣に、帳簿を抱えたミラが立っている。
お告げは、一度発すれば一年間、誰にも破れない。灯自身にも取り消せない。その重さに、指先がかすかに震えた。けれど、母娘の握りしめた、あの紙切れを思うと、迷いは消えた。
「――女神のお告げを、授けます」
広場が、しんと静まった。
「働きの分は、通貨で払え。品でも証文でもなく、誰の手でも使える、本物の貨幣で。働く者に、直接、全額を。名目をつけて、勝手に引くな。毎月一度は、決まった日に払え。余分に働かせたなら、割り増しを払え。……そして、ごまかしは、記録の前には、通らぬ」
光の文字が、祭壇の上に、ゆっくりと浮かび上がった。
染物屋の主人が青ざめ、なお、往生際悪く絞り出した。
「し、証拠が……そんな昔の未払いの証拠なんて、どこにも……」
「ミラちゃん」
灯が、名を呼んだ。ミラは帳簿を抱えたまま、一歩前へ出た。もう、足はすくんでいなかった。
「三年前の、春分から」ミラの声が、広場に澄んで響いた。「あなたの店で働いた、のべ四十六人。台帳の一頁目から、六十三頁目まで。証文で払われた額、天引きされた額、そして払われなかった割り増し。あたし、ぜんぶ覚えてる。頁の、数字まで」
ミラは、目を閉じて、諳んじはじめた。頁の番号、日付、名前、額。一つもよどみなく、数字が次から次へと流れ出す。それは、これまで払われなかった人々の名を、一人ずつ呼び戻していくようだった。
主人は、もう何も言い返せなかった。がっくりと、膝をついた。
諳んじ終えたミラの頬を、一筋、涙が伝った。けれど、その顔は、泣いているのに、どこか晴れやかだった。
◇
数日後の市場は、見違えていた。露店のあいだを、硬貨の触れ合う澄んだ音が飛び交っている。給金は、証文ではなく本物の貨幣で、全額、決まった日に払われるようになった。夜通し働いた分には、割り増しがついた。天引きの張り紙は、どの店先からも消えていた。
染物屋の裏手で、職人たちが給金袋を開けていた。中には、証文ではなく硬貨が入っている。ひとりの老いた職人が、手のひらに硬貨を乗せ、じっと見つめていた。指が、震えていた。
「……久しぶりだ。この手の中に、金の重みがあるのが。ずっと、忘れてた」
彼は、その硬貨を、宝物のように両手で包み込んだ。
あのパン屋の店先では、母親が財布から硬貨を取り出して、娘に、まるいパンを二つ買ってやっていた。娘が、両手にパンを一つずつ持って、飛び跳ねている。母親の目もとが、光っていた。
(……守れた。ここには、守れた暮らしが、笑ってる)
ふと、そばにミラが立っていた。分厚い帳簿を、大事そうに抱えている。
「旅の人。……ううん、神官様」ミラは、はにかんだ。「あたし、決めたの。ついていく。あなたの旅に。あなたは、数字の意味を教えてくれた。……でも、あなた、暗算がぽんこつだから。放っておいたら、そのうち桁を間違えて、誰かの暮らしを削っちゃうかも。だから、あたしがついてないと、だめ」
「うっ……べ、別に、ぽんこつでは……二十三足す十七かける四くらいは……」
「百六十」
「……ぐ」
ミラが、けらけらと笑った。灯も、つられて笑ってしまった。それから、膝を折って、ミラと目の高さを合わせた。
「ミラちゃん。ひとつだけ、聞いて。……あなたの数字は、この町ひとつを守った。でもね、あなたの頭の中には、もっとたくさんの暮らしを守れる力が入ってる。私と町から町を歩くより、ずっと大きな仕事が、あなたにはできる」
「……大きな、仕事?」
「王都に、国じゅうの帳簿が集まる場所があるんです。国の数字は、いま、誰にもぜんぶは見えていない。あなたなら、ぜんぶ覚えて、ぜんぶ突き合わせて――帳簿の付け方そのものを、新しい形に組み直せる。国の数字が正しくなれば、給金をごまかされる人は、この国から、いなくなっていく」
ミラは、しばらく黙って、抱えた帳簿を見つめた。町ひとつぶんの数字が詰まった、その表紙を。やがて、顔を上げた。
「……わかった。あたし、王都へ行く。国の帳簿、ぜんぶ覚えて、ぜんぶ直す」つん、と顎を上げる。「でも、約束して。数字で困ったら、必ずあたしを呼ぶこと。あなた、ぽんこつだから」
「呼びます。……ぽんこつは、余計です」
夕暮れの空に、この町の連合の紋章が、静かに灯った。働き方の憲章に、また一条、賃金の掟が刻まれる。強いられた掟は、一年で消える。けれど、この町の人々が硬貨の重みを一度思い出したなら、もう、証文の迷路へは戻らないだろう。
◇
王都までの帰り道は、二人旅だった。ミラは道中、目に映る看板の数字を片っ端から諳んじ、灯はその半分も追えないまま白旗を上げた。
エルデンの城門をくぐり、灯はミラを、城の徴税寮へ引き合わせた。町ひとつの未払いを暴いた帳簿の少女の噂は、すでに王都まで届いていて、寮の老徴税長は、ミラの暗算をひとつ見ただけで、即座に採用を決めた。任された仕事は、国の帳簿を、新しい付け方に組み直すこと。ミラの目が、これ以上ないほど輝いた。
その帰り、神殿への坂道で――灯は、妙な男に声をかけられた。
「やあ。君が、噂の神官さまだ」
振り返ると、若い男が立っていた。上等な白い上着の袖をまくり、なぜか片手に、泥まみれのシャベルを提げている。びっくりするほど顔立ちが整っていて、そして、びっくりするほど軽い笑い方をした。……どこかで見た顔だ、と灯は思った。この世界に来て、ひと月がたった日。荒れた城下で瓦礫を運んでいた、あの妙に楽しげな男。
「隣の町の話、聞いたよ。給金が紙きれで払われてたんだって? それを、あっという間にひっくり返したって。すごいなあ。ねえ、今度おれに、その話を聞かせてよ。なんなら、お茶でも――」
「結構です。務めがありますので」
灯は、丁寧に、しかし最速で頭を下げて、坂を上った。背中で男が「ふられたなあ」と、まるでこたえていない声で笑っていた。
神殿に戻ると、フィアが飛んできた。
「アカリ様! いまの、どなたとお話を……」フィアの目が、まん丸になっている。「ル、ルシアン王子殿下です! アルフォンス陛下の、ご子息の!」
「……王子?」
灯は、坂の下を振り返った。王子殿下は、シャベルを担いで、鼻歌まじりに城下のほうへ降りていく。城とは、反対の方向へ。
「殿下は、その……陛下が何度お止めになっても、ああして城下に降りてしまわれるのです。力仕事やら、溝さらいやら、ゴミ拾いやら……民には、たいそう慕われておいでなのですが」
(……王命に、背いて、遊び歩いてる)
灯の胸に、すとん、と第一印象が据わった。務めを何だと思っているのだろう、あの人は。顔がいいのが、なおさら腹立たしい。
(ああいう人が、いちばん、苦手です)
その夜の日報の末尾には、こう書き足された。
「追伸。本日、天才をひとり、国にお届けしました。なお王都にて、軽薄な人物に遭遇。以後、接触を避ける方針です」
◇
数日後、灯がふたたび旅装を整えて城門を出るとき、見送りは、旅立ちの朝より少しだけ、にぎやかだった。フィアが包みを持たせ、ミラが徴税寮の窓から身を乗り出して、大きく手を振った。
「アカリ様ー! 数字で困ったら、すぐ呼ぶこと! 手紙、書きますからね!」
「ミラちゃんも! 夜は数字を数えてないで、ちゃんと寝ること!」
(数字は、人の暮らし。……その暮らしを守る番人が、この国の真ん中に、座った)
ふと、遠い温かさが、胸に差した。顔の見えない、声のかすれた、あの人が、すぐそばにいるような気がした。
――民を思え。
その言葉が、いつもより、優しく聞こえた。
道は分かれても――旅は、もう、ひとりではなくなっていた。
■今回のオーダー
給金は、通貨で、本人に直接、全額を、毎月一回、決まった日に。塩でも、証文でも、品物でもいけません。他人の蔵へ還っていくお金は、その人の暮らしを守れないから。
余分に働かせたら、割り増しを。時間を超えたら二割五分、夜の十時から朝五時の深夜も二割五分、休みの日は三割五分。ただ働きは、なかったことにして良いものではないの。
払われなかった賃金は、消えたのではなく、あとから請求できるもの。ただし、いつまでも、ではないから、早いほうがいい。そのとき力になるのは、賃金の台帳と、働いた時間の記録。数字は、人の暮らし。記録は、その暮らしを守る盾になります。
◇
■今回の学び(社労士試験対策)
・労働基準法24条(賃金支払の5原則): ①通貨で ②直接本人に ③全額を ④毎月1回以上 ⑤一定期日に。現物払い・勝手な天引きはNG。
・労働基準法37条(割増賃金): 時間外 25%以上/深夜(22時〜5時) 25%以上/休日 35%以上。月60時間を超える時間外は50%以上(2023年4月から中小企業にも適用)。
・未払い賃金: 会社への請求が可能(賃金請求権の時効は5年、当分の間は3年)。賃金台帳・労働時間の記録が証拠=働く人を守る盾。
◇
■一問一答(社労士試験の頻出論点から)
【問】使用者は、事業場の過半数を代表する者との書面による協定があれば、賃金の一部を通貨以外のもの(現物)で支払うことができる。(◯か✕か)
(答えは、次の話の一回めの後書きで)
◇
次回予告:第三話「約束は、形にして」——口約束だけの職人の町。雇われた日の“いい条件”が、次々と消えていく。




