第二話 払われぬ町(一)
街道の砂を、荷馬車の車輪が、延々と踏んでいく。
エルデンの神殿を発つとき、巫女見習いのフィアは門まで追いかけてきて、両手で小さな包みを差し出した。干した果実と、堅焼きのパン。「道中、お召し上がりください」という声が、少し湿っていた。
「フィアさん。留守を、お願いします」
「はい。……アカリ様が、女神さまへの日報を、滞りなく続けられますよう」
灯はぎくりとした。祭壇に正座して女神に業務報告をした一件は、どうやら神殿じゅうに知れ渡っているらしい。
「あ、あれは、神官の作法で」
「存じております。わたくしも見習おうとしたのですが、うまく言葉が出てこなくて」
(見習わなくていいの。あれは見習っちゃ駄目なやつなの)
そんな出立から、三日。灯はいま、旅人の茶色いフードをかぶり、街道の先に見えてきた町を、じっと見つめていた。
交易でにぎわう町だという。荷馬車には、見たこともない色の織物や、香辛料の詰まった麻袋が山と積まれている。豊かな町だ。誰の目にも、そう見えるはずだった。
なのに、すれ違う商人たちの顔が、なぜか暗い。荷を運ぶ男も、算盤をはじく番頭らしき者も、みな一様に、うつむいている。金と品があふれるほど動いているのに、それを扱う人々の背中が、しぼんでいる。
(……この町でも、何かある)
神官の姿では、みな取り繕う。ほんとうのことは、いつも裏側にある。それは前世で、嫌というほど学んだことだった。灯はフードを目深に下ろし、そっと市場の雑踏へまぎれ込んだ――そのとき。
いい匂いが、鼻をとらえた。
露店の鉄鍋で、こんがりと揚がったパンに、赤い香辛料がまぶされている。じゅうじゅうと油のはじける音。甘くて、辛くて、香ばしい匂いが、まっすぐ灯の足を止めた。
(……いけない。私は今、任務中。豊かなはずの町が荒れている、その理由を探りに来た者が、揚げパンごときに――)
ぐう、と、お腹が鳴った。
(……ごとき、なんて言ってごめんなさい。揚げパンさんは悪くない)
気づけば、灯は一つ買って、両手で捧げ持っていた。目を閉じ、深く頭を垂れる。
(この一つに宿りし、大地の麦と、香辛料商人が渡った海と、揚げ手の技に――感謝を。いただきます)
ひとくち。外は香ばしく、中はふわりと熱い。辛さのあとに、じんわり甘みが来る。灯の目が、うるんだ。旅人がひとり揚げパンを拝んでいるので、露店の女がけげんそうに見たが、灯ははっと我に返り、フードを直して先を急いだ。
◇
市場は、噂どおりの活気だった。値切る声、笑う声。耳では、たしかに町は栄えている。だが、目は、別のものを拾いはじめていた。
パン屋の店先で、若い母親が、幼い娘の手を引いて立っている。娘が丸いパンをねだると、母親は財布ではなく、ふところから一枚の紙切れを取り出した。
「これで、二つ」
「奥さん、それじゃ足りねえよ」パン屋の主人が、すまなそうに言った。「その証文、うちじゃ半分の値でしか通らねえんだ。染物屋の証文だろう? うちで使えるのは、そこまでさ」
母親の頬が、こわばった。結局、母娘はパンを一つだけ買い、路地の奥へ消えていった。娘が握りしめた小さな手の中に、ちぎったパンの、そのまた半分。
(証文……お金じゃなくて、紙で、給金を払ってる)
店先には、あちこちに同じ張り紙があった。「当店証文、額面どおり通用」「他店証文、応相談」――働いてもらった証文は、その店でしか、まともな値では使えない。働いた分は、雇い主の店の棚へ、ぐるりと還っていくようにできていた。
別の店の裏手では、職人が、渡された証文をにらんで肩を落としていた。
「これじゃ先月の半分もねえぞ」
「差し引かせてもらった」帳場の奥から声が返る。「前掛けが破れたろう。弁償だ。遅刻が二度。鍋を焦がした分も」
「鍋なんざ、もとから底が薄かったんだ!」
「文句があるなら辞めればいい。かわりはいくらでもいる」
男は、それきり黙った。夜遅くまで働いても割り増しの一枚もつかず、あれこれ天引きされる。それでも、辞めれば明日の証文すら入らない。
(働いても、働いても、手元に残らない。お金は、この町を回ってるのに、人の手の上を、通り過ぎていくだけ)
前世で何度も見た数字の迷路が、まぶたの裏をよぎった。基本の給金は書いてあるのに、いくつもの名目で引かれ、足され、繰り越され、手取りの欄は、働いた時間とまるで釣り合わない。「これはどういう計算ですか」と尋ねると、相手はいつも、けむに巻くように言うのだ。「そういう決まりだから」と。働いた分が、数字の迷路の中で、すうっと消えていく。あの感覚を、灯はこの町の空気に、はっきりと嗅ぎ取っていた。
◇
その少女に出会ったのは、市場のはずれ、古い倉庫の軒下だった。
膝の上に、背丈ほどもありそうな分厚い帳簿を広げ、じっとにらんでいる。歳のころは、十二か、十三。指を頁に這わせ、口の中で、ものすごい速さで数を数えている。
「……ちがう。やっぱり、合わない」
「どうかしましたか」灯は、しゃがんで目線を合わせた。
少女は、はっと帳簿を抱えたが、灯が旅人だとわかると、堰を切ったように言った。
「合わないの。数字が。あたし、ミラ。この町の帳簿を、いくつも預かってる。売り上げも、給金の台帳も、ぜんぶ頭に入ってる。なのに、町の稼ぎと、みんなの給金が、どうしても釣り合わないの。町はこんなに儲かってるのに、働いてる人の手には、こんっっぽっちも残らない。数字がおかしいと、あたし、気持ちが悪くて、夜も眠れないの」
「ぜんぶ、頭に……入っているんですか」
「一度見た帳簿は、忘れない」ミラは、当たり前のように言った。試しに、と近くの露店の値札を、ちらりと一瞥し、目を閉じて、すらすらと諳んじてみせる。干し肉が一串いくら、香辛料が一袋いくら――値札の並びを、一字一句、ひっくり返さずに。
(す……すごい。歩く帳簿だ)
「旅の人も、何か計算してみて。あたし、暗算も速いの。たぶん、この町でいちばん」
「え、えっと、じゃあ……二十三に、十七を足して、四をかけると――」
「百六十」
ミラは、灯が「かける」と言い終わる前に、答えていた。
「……ええと」灯は、指を折りはじめた。二十三、足す十七は、四十。四十かける四は……。
「百六十」ミラが、もう一度、静かに言った。
「あ、いま、合ってました。私も、そう出そうとしてました」
「旅の人、指、折ってた」
「お、折っていません。これは、その、旅人の作法で」
ミラが、ふっと、この日はじめて笑った。それから、ふいに、笑いをおさめて、帳簿のいちばん古い頁を、そっと開いた。
「……でも、この頁だけは、どうしても合わないの」墨のかすれた、ずいぶん昔の記録だった。「もう、書いた人も、書かれた人も、この町にはいない。何十年も前の給金の、払われないままの跡。あたしがどれだけ数えても、ここだけは、埋まらないの」
ミラは、少しのあいだ黙って、その頁を見つめた。そして、また、ぱたんと閉じた。
◇
「あの人ね」ミラは帳簿を閉じ、開きもしないで宙を見つめた。「市場の東の、大きな染物屋の主人。三年前から、給金をぜんぶ証文で払ってる。あたし、あの店の台帳、去年も一昨年も、ぜんぶ見た。……領主さまのお館で、この町から上がってくる分を、ずっと数えてたから」
ミラの指が、見えない頁をめくるように、宙を這った。
「三年で、あの店の売り上げは、大銀貨で九千二百四十枚。仕入れと掛かりを引いても、五千枚は残ってる。なのに、働く人に渡った給金は、証文の額面ぜんぶ足しても、千八百枚ぶんきり。しかも証文は、他の店じゃ半値でしか通らない。そこから、天引き。前掛けの弁償、遅刻の科料、店の名を汚した詫び料。名目は、去年だけで十九種類。ぜんぶ足すと、給金のおよそ三割が、そこで消えてる。夜通し働いた日の割り増しは――一枚も、ない。三年、ずっと、ゼロ」
ミラは目を開けた。その瞳が、少し潤んでいた。
「稼ぎは出てるの。なのに、働いた人のところにだけ、届かない。数字が、途中で、迷子になってる。あたし、それが、どうしても許せない」
「ミラちゃん。あなたにとって、数字って、何ですか」
ミラは、少し考えて、はっきりと言った。
「数字は、人の暮らし」
まっすぐな声だった。
「この一枚が入るか入らないかで、さっきの母娘が、パンを一つ買えるか、二つ買えるかが決まるの。数字がごまかされてると、あたし、その人の暮らしがごまかされてる気がして、たまらないの」
(……この子は、私と、同じものを見てる)
◇
「おい、そこの二人。うちの帳面のことを、こそこそ何を話している」
染物屋の主人が、恰幅のいい腹の前で腕を組み、番頭を二人従えて、見下ろしていた。
「その娘は、いつもいつも人の店の数字をほじくり回して。証文で払うのが、そんなに悪いか。払ってやってるだけ、ありがたく思え。証文で十分だろう。残業代なんてものは、この町じゃ聞いたこともない」
ミラの体が、びくりと震えた。あの流れるような声が、出ない。大人の男に凄まれて、小さな肩が、ぎゅっと縮こまる。膝の帳簿を抱きしめ、うつむいてしまった。足が、すくんでいた。
子どもなのだ、と灯は思った。町ひとつぶんの数字を諳んじる頭を持っていても、体は、まだこんなに小さい。灯は、ミラの前に、そっと出た。
「働いた分を、その店でしか使えない紙で払って、天引きして、割り増しもつけない。それを、この子は三年ぶん、ぜんぶ覚えております。あなたのお店の数字を、一枚残らず」
「はっ。子どものざれごとだ。証拠がどこにある。ないものは、ないんだ」
灯は、うつむくミラの小さな背中に、そっと手を置いた。
「ミラちゃん。あなたの数字は、この人たちの暮らしを、守れます」
ミラが、顔を上げた。震える息を、ひとつ吸う。
「……去年の、夏至の日」まだ細い声だった。「あなたの店で、七人が夜明けまで働いた。台帳の、四十一頁目。七人の名前と、働いた時間が書いてある。でも、割り増しの欄は、ぜんぶ横棒で消してある。四十一頁目。あたし、覚えてる」
主人の顔から、笑いが消えた。
「秋の収穫祭のあと、三人が辞めた。辞めた月の給金は、詫び料の名目で、まるごと引かれてる。台帳の、五十八頁目。名前も、額も、覚えてる。……あたし、ぜんぶ、覚えてるの」
番頭たちが、顔を見合わせた。主人の額に、汗がにじむ。
「で、でたらめだ。証拠にはならん」
「なります」灯は、静かに言った。「記録は、働く人を守る、盾でございます」
◇
その騒ぎを、店先の樽に腰かけて見ていた老人がいた。白い髭を胸まで垂らした、痩せた老商人だった。人だかりが散りはじめたころ、彼は灯とミラのそばへ来て、ぽつりと言った。
「証文で払う、というのはな。この町の、古い病でしてな」
「古い、と申しますと」
「わしが洟垂れだったころから、ありました。あのころは、もっとひどかった。給金は、塩と証文で払われた。塩は腐らんし、どこでも要り用だから、金がわりになる。だが、その塩を買えるのは雇い主の蔵だけ。証文が使えるのも、雇い主の店だけ」
老人は、しわだらけの手で髭をなでた。
「働けば働くほど、稼ぎは雇い主の蔵へ還る。人は、証文と塩に縛られて、その町から動けなくなる。よそへ行こうにも、手元には、よそで使える金が一枚もないのだからな。借金を先に負わせて、その返済に働かせる店も、あった。働いても、借金が、なぜか減らんのだ。数字の、迷路よ」
それは、前世の教科書の、いちばん古い頁に載っていた話に、そっくりだった。名前も国も違う。けれど、人が人を金の形で縛るやり方は、どこの世界でも、驚くほど似ている。
「その迷路から、この町は、どのようにして」
「一度、みなが飢えかけたのですよ。証文が紙くずになった年があってな。ある店が潰れて、その店の証文を握っていた者は、みな、いっぺんに無一文になった。手には紙の束、腹には何も入らん。そのとき、町の年寄りたちが、ようやく気づいたのです。金は、その人自身の手に、その人自身が使える形で渡らねばならん、とな。他人の蔵に還るものでは、いかんのだと」
老人は、ミラの頭を、そっとなでた。
「けれど、人は忘れる。豊かになると、また楽なほうへ流れる。証文は便利だ、天引きは儲かる、とな。……この娘のような子が、数字は合わん、と言い続けねば、病は、また、ぶり返す」
■前の話の一問一答・答え合わせ
【問】1日の労働時間がちょうど8時間である労働者に対しては、使用者は労働時間の途中に少なくとも1時間の休憩時間を与えなければならない。(◯か✕か)
【答】✕ 休憩は、労働時間が6時間を超える場合は少なくとも45分、8時間を超える場合は少なくとも1時間である(労基法34条1項)。8時間ちょうどは「8時間を超える」に当たらないので、45分で足りる。
※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。




