第一話 休ませない国(二)
騎士団長ガウェインの天幕は、陣のいちばん奥にあった。
ろうそくの灯りに照らされたその男は、絵物語の英雄そのものの体つきだった。広い肩、太い腕。かつて、たったひとりで百の兵を相手取り、国境を守り抜いたという伝説さえ持つ、この国でいちばん強い男。――そのはずの男の目の下に、墨で塗ったような濃いくまがある。
「旅人が、俺に用とは。珍しい」
しゃがれた声だった。灯はフードの下から、まっすぐに彼を見た。
「団長さん。兵たちが、限界でございます。立ったまま眠り、剣も持ち上がりません。……このままでは、戦う前に、みな倒れます」
ガウェインの顔が、ゆがんだ。怒りではない、もっと苦しいものだった。
「わかっている」彼は絞り出すように言った。「誰よりも、俺が。……だが、休ませれば、その隙に敵が攻め込む。国境が破られれば、城下の民が焼かれる。休ませられぬのだ。休ませれば、負ける」
板挟みの、誠実な男の顔だった。無能でも、非情でもない。誰よりも兵を思うからこそ、休ませられずにいる。追い詰められた経営者の、同じ顔を、前世でも見た。
「団長さん」灯は、静かに首を振った。「それは、逆でございます」
「逆、だと」
「休ませないから、負けるのでございます」
ガウェインが、目を見開く。
「人には、休みが要るのでございます。弓に緩める時が要るように。張りつめたままの弦は、いざというときに、切れます」
灯は、天幕の外の闇に目をやった。城下で塔のことを教えてくれた白髪の老兵が、荷運びについてきていたのだ。
「ご老人。あなたは、あの丘の塔のことを、ご存じなのでございますね」
老兵は、しばらく黙っていた。そして塔の問いには答えず、かわりに、ぽつり、ぽつりと、自分の遠い昔を語りはじめた。
「……わしがまだ若い時分、王都の職人街に、腕のいい鍛冶場がありました。戦が近いというので、親方は炉の火を夜も昼も絶やすなと命じたのです。職人たちは眠らずに槌を振るい続けました。頼もしいことだと、皆が言うたものです」
老兵の声が、低くなった。
「けれど、ある夜。炉場から、火が出ました。疲れ果てた職人が、火の始末を誤ったのです。……逃げ遅れた者も、多かった。眠っておらんかったから、逃げる力も、残っておらんかったのでしょう。……わしの兄も、その中におりました」
しわだらけの手が、膝の上で、固く握られていた。
「あの丘の塔のことは……わしの口からは、よう言えません。ただ、これだけは言えます。働く者を眠らせなんだ場所の末路は、どこも、同じでございますよ」
天幕の中が、しんとした。灯は、ゆっくりと言葉を継いだ。
「団長さん。働く時間に上限が要りますのは、ただの理屈ではございません。それは、倒れた人たちの、痛みの記録でございます。もう二度と、あんなふうに人を失わないために、生き残った人たちが決めた、防波堤でございます」
ガウェインは、拳を握りしめて、うつむいていた。
「……では、俺は、どうすればいい」
「一緒に、組み直しましょう。陣の、一日の回し方を」
灯は地面にひざをつき、小枝を拾って、土の上に線を引きはじめた。前世でシフト表を何百枚と引いてきた手が、自然に動いた。
「まず、働く時間そのものに、上限を決めます。一日、八時間まで。一週間で、四十時間まで。ずっと働かせるのを、やめていただきます」
「八時間で、足りるのか」
「足ります。むしろ、そのほうが強うございます。だらだら十六時間立たせた見張りより、しっかり眠った兵の八時間のほうが、ずっと目が利きます。――そして、その中でも、途中で必ず、休みを入れます」
「途中で?」
「はい。働きが六時間を超えるなら、四十五分。八時間を超えるなら、一時間。剣を置いて、持ち場を完全に離れて、温かいものを食べる時間でございます。見張りをしながら片手で乾いたパンをかじる。あれは、休みとは申しません。心も体も、張りつめたままでございますから。剣を置くこと、持ち場から離れること。それで、はじめて休みになるのでございます」
「途中で、というのが、大事なのか」
「はい。働きづめの最後に、へとへとで休んでも、もう遅うございます。糸が切れる前に、緩める。だから、途中なのでございます」
「……そして」灯は、地面の線の横に、七つの印をつけた。「少なくとも週に一日は、まるごと、休ませてくださいませ。どうしても交代の都合がつかないのでしたら、四週の間に、四日でも構いません。けれど、休みのない日々を、続けさせては、なりません」
「なぜ、そこまで」
「人は、休みなく働き続けますと、集中も、判断も、鈍ってまいるからでございます。鈍った目で見張れば、敵を見逃す。鈍った手で剣を振れば、仲間を斬る。ミスが、事故を呼ぶ。……働きすぎは、その人ひとりを壊すだけではございません。組織そのものを、内側から弱くするのでございます」
灯は、顔を上げて、ガウェインをまっすぐ見た。
「エルデンが負け続けてきた理由は、剣の数でも、兵の弱さでもございません。……休ませなかったこと。それが、いちばんの敗因でございます」
長い沈黙のあと、ガウェインは大きなため息をつき、かすかに笑った。
「旅人よ。妙なことを言う。……だが、不思議と、腑に落ちる」
「あ、あの、それと、団長さん」
立ち上がろうとした灯は、天幕の外につながれた、一頭の立派な軍馬に、ふと目をとめた。艶やかな黒鹿毛の、賢そうな馬だ。任務をやり遂げた高揚のせいか、灯はつい、その馬の前に立ち、律儀に頭を下げてしまった。
「……はじめまして。あなたのご主人さまと、大事なお話をさせていただきました。これからも、団長さんを、よろしくお願いいたします。あ、労働時間の上限は、原則、一日八時間、一週間で四十時間で――」
「おい、その旅人、馬に何をしている」
通りかかった騎士たちが、足を止めて、こちらを見ていた。馬に自己紹介をし、あまつさえ条文を暗唱している、フードの旅人を。
(――出た。緊張すると、条文が漏れる癖)
灯は、天幕を出るなり、少し早足で立ち去った。
◇
神殿に戻った灯を待っていたのは、もっと大きな恐怖だった。
満月が、近い。その夜、灯は祭壇に立って、最初のお告げを授けなければならない。それは一年間、この国を縛る。破ろうとしても体が動かず、間違っていても、灯自身にさえ取り消せない。
(もし、私のせいで、誰かがもっと苦しんだら)
夜の祭壇で、灯はひとり震えていた。書き直せる書類なら、まだよかった。これは、取り返しがつかない。
膝を抱えてうずくまった灯の胸に、ふと、温かいものが差してきた。顔の見えない、声のかすれた、けれど確かに温かい誰かが、すぐそばにいる。手のひらに、大きな手が重なる。
――民を思え。
その言葉だけが、霧の向こうから、まっすぐに届いた。
(……そうだ。私が、怖がっている場合じゃない)
怖いのは、間違えることじゃない。何も言わずに、リオの震える手を見捨てることだ。塔の灯りを、また誰かに夜通し灯させることだ。
灯は、涙を拭って、立ち上がった。
「……先生。私、やります」
◇
満月の夜。
神殿の祭壇に、白い衣の灯が立った。境内には、城下から集まった民がひしめいている。商人も、母親も、痩せた子どもも、陣から駆けつけたガウェインとリオも、その中にいた。
灯は、祭壇の前で、ひとつ、大きく息を吸った。最初の声は、少し震えていた。けれど、集まった人々の顔を――リオの顔を見ているうちに、声はだんだんと凛としていった。
「――女神のお告げを、授けます」
境内が、しんと静まりかえった。
「働く時間は、一週間で四十時間、一日で八時間までとせよ。働きが六時間を超えたなら四十五分、八時間を超えたなら一時間、途中で必ず、休みを与えよ。そして、少なくとも七日に一度は、まるごと休ませよ。どうしても叶わぬ折にも、四週のうちに四日は、必ず」
光の文字が、祭壇の上に、ゆっくりと浮かび上がった。
民が、ざわめいた。休ませる? こんな戦のさなかに? 敵が攻めてきたらどうする?――不安の声が、さざ波のように広がる。灯は、その一人ひとりに語りかけるように続けた。
「休むことは、怠けることではございません」
ざわめきが、やんだ。
「休むのは、また立ち上がるためでございます。剣を鞘に納めるのは、逃げるためではなく、次に抜くためでございます。……皆さんは、弱くなどありません。ただ、緩める時を、奪われていただけでございます」
リオが、うつむいて、目もとを拭うのが見えた。
◇
数日後。朝日の差す、国境の陣。
灯は、また旅人のなりで、そこを訪れ、目に映る光景に思わず立ちすくんだ。
兵士たちが、笑っていた。
夜通しの見張りは、交代制になっていた。しっかり眠った兵の目には、光が戻っている。訓練場に響く剣の音には、以前とはまるで違う力がこもっていた。休憩の天幕では、兵たちが剣を置いて、湯気の立つ椀を手に、笑い合っている。
その中に、リオがいた。両手で、剣を高く掲げている。あの日、地面からほんの少ししか浮かなかった剣を。彼はそれを、軽々と振り下ろし、また、掲げてみせた。頬に、赤みが差している。
灯に気づくと、リオは、まぶしそうに笑った。
「旅の人! 見てください、俺、剣が持ち上がるんです! ちゃんと、眠れたら、こんなに、持ち上がるんです!」
灯の目から、今度は、こらえきれずに、涙がこぼれた。
もう、堪えなくていい。ここには、守れた未来が、笑っている。
「……よかった。ほんとうに、よかったです」
いつのまにか、隣にガウェインが立っていた。目の下のくまは、消えている。彼は、訓練場の兵たちを見渡して、静かに言った。
「兵の目に、光が戻った。……休ませたのに、強くなった。いや」
彼は、灯のほうを見て、初めて、はっきりと笑った。
「休ませたから、こそ、だな」
灯は、涙を拭いながら、うなずいた。
◇
夕日が、神殿のバルコニーを、赤く染めていた。
城下の市場には、少しずつ人が戻りはじめている。丘の上の黒い塔は、今日も静かに、そこにあった。あの塔が何を見てきたのか、灯はまだ、知らない。
(強さは、休むことから始まる)
前世では、うまく言えなかった。「大丈夫です」と言い張る人に、「休んでいいんだよ」と。手が届かなかった人が、いた。でも、今なら言える。
(一年後。このお告げの力が消えたとき。……この国は、自分の意思で、休めるだろうか)
強いられた掟は、力が消えれば崩れるかもしれない。ほんとうに根づくのは、民が自分から「休んでいい」と思えたとき、その時だけだ。だから、これは静かな始まりの一歩にすぎない。それでも、剣より確かなその力が、この国をゆっくりと支えていくのを、灯は信じることにした。
神官としての日々は、まだ、始まったばかりだ。
◇
私は、このときまだ、この世界のことを知らなかった。
掟を置くことの重さも、この先に自分を待ち受けている運命も。
そして、この物語を綴った者のことも。
■今回のオーダー
働く時間には、上限があっていい。原則、一週間で四十時間、一日で八時間まで。ずっと働かせないことが、その人の力を、いちばん長く保ちます。
休みは、途中で。働きが六時間を超えたら四十五分、八時間を超えたら一時間。剣を置いて、持ち場から完全に離れて。片手間のご飯は、休みとは呼ばないの。
休日は、少なくとも週に一日。それが難しくても、四週間で四日は、まるごと休ませて。休むことは怠けではなく、また立ち上がるための力。強さは、きっと、休むことから始まるから。
◇
■今回の学び(社労士試験対策)
・労働基準法32条(法定労働時間): 原則、休憩時間を除き 1週40時間・1日8時間 が上限。超えて働かせるには特別な手続き(36協定など=第10話で扱います)が必要。
・労働基準法34条(休憩): 労働時間が 6時間超→45分以上/8時間超→1時間以上。休憩は労働時間の途中に与え、原則として自由に利用させる(仕事から完全に離れられない「手待ち時間」は休憩ではなく労働時間)。
・労働基準法35条(休日): 毎週少なくとも1日。例外として4週間を通じ4日以上(変形休日制)。
覚え方のコツ: 「40・8」「45分・1時間」「週1(4週4)」——灯のオーダーの言葉のまま覚えればOKです。
◇
■一問一答(社労士試験の頻出論点から)
【問】1日の労働時間がちょうど8時間である労働者に対しては、使用者は労働時間の途中に少なくとも1時間の休憩時間を与えなければならない。(◯か✕か)
(答えは、次の話の一回めの後書きで)
◇
次回予告:第二話「払われぬ町」——豊かなはずの交易の町で、給料が“紙きれ”で払われていた。帳簿の少女ミラ、登場。




