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異世界労務物語 ―女神のオーダー  作者: 月守行


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第一話 休ませない国(一)

【最終話まで書き上げ済み。完結まで毎日更新します!】

朝もやが、祭壇の石を白く濡らしていた。


春野灯が目を覚ましたとき、まず思ったのは「天井が高い」ということだった。木目のオフィス天井ではない。石を組んだ、教会のような穹窿だ。


 次に思ったのは、自分の服が真っ白だということ。着物のような、法衣のような、見たこともない神官の衣。夢にしては、袖をつまむ指に伝わる布の重みが、正確すぎた。


(……ここは)


「アカリ様。お目覚めでございますか」


 声のほうを見ると、十四、五歳くらいの少女が、水盤を抱えて立っていた。淡い水色の衣。緊張した面持ち。巫女見習いのフィアと名乗った。


「あの、フィアさん。ひとつ、伺ってもよろしいですか。私は……何者なんでしょう」


「まあ」フィアは目を丸くした。「アカリ様は、労務の女神さまにお仕えする神官さまです。この国エルデンの"きまり"を、女神さまのお告げとして民に授けるお方です」


「きまり、を、授ける」


「はい。満月の夜、祭壇でお告げを口にすると、それがそのまま、その土地の掟になるのです。一年のあいだ、誰も破れない、破ろうとしても体が動かなくなる、そういう掟に」


 ――言葉が、法律になる。前世では、誰かが定めた条文を読み解く仕事だった。ここでは、自分の口から出た一言が、そのまま掟になる。しかも一年間、誰も逆らえず、自分でさえ取り消せない。


(私の一言が、一年間、この国を縛る)


「フィアさん。少し、ひとりにしていただけますか。……その、女神さまに、ご挨拶をしたいので」


 フィアが下がっていくと、灯は祭壇の前に進んだ。台座の上に、静かな面差しの女神像が立っている。どう向き合うのが正しいのか見当もつかず、灯はいちばん体に馴染んだやり方をとった。


 祭壇の前に、きちんと正座する。背筋を伸ばし、両手を膝に置き、深く一礼した。


「本日付で着任いたしました、春野灯と申します。前職では労務管理に従事しておりました。至らぬ点も多々あるかと存じますが、精一杯務めさせていただきます。まずは現状把握が急務と認識しておりますので、追って、日報にてご報告いたします。以上、よろしくお願いいたします」


 言い終えて、もう一度深く頭を下げた、そのとき。


「……あ、あの、アカリ様……?」


 背後で、水盤を落としかけたフィアが、口を半分開けたまま固まっていた。


 灯の背中を、滝のような汗が流れた。


(見られた。祭壇に正座して、女神さまに、業務報告を、敬語で)


 彼女はゆっくり立ち上がり、乱れてもいない襟を正し、できるかぎり凛とした顔をつくった。


「……神官の、務めでございます。女神との、対話の作法。あなたには、まだ早うございます」


「は、はいっ。失礼いたしました……!」


 出ていくフィアを見送りながら、灯は心の中で頭を抱えた。


(作法って言った。言い切っちゃった。もう戻れない)


 ◇


 その日の午後、灯は神官の衣のまま、城下へ下りた。


 豊かな土地だ、というのは、ひと目でわかった。城壁の外の畑は麦が金色に実り、果樹には実がたわわに垂れている。土がいい、水がいい。


 なのに、城下の市場は、静まり返っていた。開いている店はまばらで、商人たちはうつむき、荷は売れ残ったまま埃をかぶっている。路地では、痩せた男たちが人の財布を横目でうかがっている。


 その路地の隅に、幼い子どもがひとり、膝を抱えてうずくまっていた。頬はこけ、目だけが大きい。灯がしゃがんで手を伸ばすと、子どもはびくりと身を引いた。


(……土地は、こんなに豊かなのに)


 そんな沈んだ通りの中で、一箇所だけ、笑い声のする角があった。


 崩れた石塀の残骸を、若い男がひとり、民に混ざって黙々と運んでいる。上等な仕立ての袖をまくり、砂まみれで、それなのに妙に楽しげで――びっくりするほど、顔立ちの整った男だった。まわりの子どもたちが、きゃらきゃらと彼にまとわりついている。


(……誰だろう。こんな沈んだ町にも、ああやって人を笑わせる人がいるんだ)


 灯は少しだけ足を止め、それから、先を急いだ。


 ふと上げた視線が、城下の向こう、北の空の果てでとまった。


 遥かな丘陵の上に、黒い建物があった。塔だ。よほど大きいのだろう、これほど遠いのに輪郭がはっきりと見える。焼け崩れ、窓という窓が空洞になって、朽ちた梁が空へ突き出しているらしいことまで。夕暮れの空に、それは黒い骨のように浮かんでいた。


「あの塔は……?」


 近くの白髪の老兵にたずねると、老兵は塔を一瞥し、それから低い声で、たった一言だけ言った。


「あれは……灯りの、消えなかった塔でさ」


 それきり、老兵は口をつぐんで、行ってしまった。


 灯は、しばらくその黒い影を見上げていた。理由はわからない。けれど、胸の奥が、しんと冷えた。


 ◇


「神官の衣のままでは、どなたも本音を話してくださらない、ですね」


 神殿に戻った灯は、鏡の前でつぶやいた。豊かなのに荒れ、戦には負け続けているという。その理由を、いちばん張りつめた場所――国境の陣で確かめようと思った。


 だが、神官が来たとなれば、みな取り繕う。前世でも同じだった。役人が来ると社長は笑顔になり、書類はきれいに揃う。ほんとうのことは、いつもその裏側にある。


 だから灯は、白い衣を脱いだ。旅人の茶色いフードをかぶり、埃っぽいマントを羽織る。鏡の中の自分は、もう神官には見えない。よし、と小さくうなずいて、国境へ向かう街道を歩き出した。


 夕暮れの街道に、思ったより――いい匂いが漂ってきた。


 街道沿いの、小さな屋台。炭火の上で、串に刺した肉がじゅうじゅうと脂を落としている。甘辛いたれの焦げる匂いが、風に乗って、まっすぐ灯の鼻をとらえた。灯の足が、止まる。


(……いけない。私は今、任務中。この国の未来を背負う者が、屋台の串焼きごときに――)


 ぐう、と、お腹が鳴った。


(……ごとき、なんて言ってごめんなさい。串焼きさんは悪くない)


 気づけば、灯は屋台の前に立っていた。


「……二本、ください」


 受け取った串を、灯は両手で捧げ持った。そして目を閉じ、深く頭を垂れて、心の底からの祈りを捧げた。


(この一本に宿りし、大地の恵みと、焼き手の技と、炭の熱に――感謝を。いただきます)


 ひとくち。肉の脂と、たれの甘さと、香ばしさが、旅の疲れた体にしみわたっていく。灯の目が、じんわりと潤んだ。


(……おいしい。異世界の串焼き、おいしいです)


 旅人がひとり串焼きを掲げて拝んでいるのだから、屋台の親父がけげんそうに見るのも無理はない。灯ははっと我に返り、残りの一本は今度はふつうに、しかし大事に平らげた。


 ◇


 街道を幾日か歩いて、東の国境の陣に着いたのは、月の高い夜だった。


 かがり火が、点々と闇に燃えている。灯は荷運びを手伝う口実で陣の中へ入り込み、そして、目を疑った。


 兵士たちが、動いていない。


 いや、動いてはいる。だが、その動きが、まるで糸の切れかけた人形だった。訓練で剣を振る腕は上がりきらず、行軍の列はよろめく。かがり火のそばの見張りに至っては――槍にもたれ、立ったまま、眠っていた。灯がそっと肩に触れると、兵ははっと目を開け、「見て、ました。ずっと、見張って、ました」と、うわ言のように言った。


「……皆さん、何日、休んでおられないのですか」


「休み……?」若い兵士のひとりが、力なく笑った。「そんなもん、何日前だったか。訓練して、行軍して、夜は見張り。ずっと、そうです」


 まだ幼さの残る顔だった。灯より、ずっと年下だ。


「あなたの、お名前は」


「リオ、です。十七になりました。故郷に、妹がいて。……俺が仕送りしないと、あいつが食えないから。だから、逃げるわけには、いかないんです」


 リオは、地面に置いた自分の剣に、目を落とした。


「でも……もう、駄目かもしれない。ずっと使ってきた、相棒みたいな剣なのに」


 彼は剣の柄に手をかけ、持ち上げようとした。持ち上がらなかった。両手で握り、歯を食いしばって、それでも刃の先は地面から、ほんの少ししか浮かない。


「剣が、重くて。……もう、持ち上がらないんです」


 震える声だった。灯の胸の奥で、何かが、ぐしゃりとつぶれる音がした。


 前世で、何度も見てきた。青白い顔で「大丈夫です」と繰り返す人。ある日ふっつりと、来なくなった人。働きすぎて、剣も、ペンも、持ち上がらなくなっていく人たちを。救えなかった人の輪郭が、リオに重なった。


 灯の目に、熱いものがこみ上げてきた。喉の奥が詰まる。今すぐこの子を抱きしめて、一緒に泣いてしまいたかった。


 でも――。


(駄目。ここで泣いたら、この子はもっと不安になる)


 灯は、爪が食い込むほど強く手を握った。涙もろい自分と、務めを果たさなければならない自分とが、胸の中でぶつかり合う。ぐっと奥歯を噛み、できるかぎり静かな声で言った。


「リオさん。あなたは、弱くなどありません。……剣が持ち上がらないのは、あなたのせいではありません。休んでいないからです」


「休むなんて……」リオは首を振った。「休むのは、仲間を裏切ることです。俺が休んだら、そのぶん、誰かが見張らなきゃいけない。みんな、そう思ってる。だから、誰も、休めないんです」


 休むことは、裏切り。その言葉が、灯の胸に、ぐさりと刺さった。誰かがそう信じ込ませ、みんなが少しずつ、そう信じるしかなかったのだ。

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