第四話 休む勇気(一)
水車が、いくつも回っていた。
石造りの町のあいだを、澄んだ水路が縫うように走り、その流れが、大小の水車をゆっくりと回している。軒先には色とりどりの花が咲きこぼれ、風が吹くたびに、甘い匂いと花びらが路地を渡っていく。
絵のように、美しい町だった。
旅人の茶色いフードをかぶった春野灯は、その町並みを見渡して、素直に感嘆した。石工の町を越えて、次の町へ。神官の衣を脱いで町に入るのは、着任してからの習いだ。白い衣のままでは、みんな本音を話してくれない。この土地の実態を、自分の目で確かめてから――でなければ、女神のお告げは授けられない。
けれど、と灯は思う。
(……みんなの顔が、疲れてる)
花は咲いている。水は流れている。なのに、行き交う人々の顔には、澱んだ疲れがこびりついていた。朝から晩まで、誰の手も止まらない。休みなく回る水車と、休みなく働く人と。その二つが、灯の目には、同じものに見えた。
広場の隅に、一本の木が立っていた。
立派な枝ぶりの、大きな庭木だ。けれど、葉が一枚もない。幹は灰色に乾き、枝の先は空へ向かって、骨のように突き出している。まわりの花がこれほど咲きほこっているのに、その木だけが、枯れていた。
灯は、しばらくその木を見上げた。理由はわからない。けれど胸の奥が、しんと冷えた。
(この町にも……働き方の病が、ありそう)
◇
「お花、いかがですかー。今朝摘んだばかりの、水辺のリンドウですよー」
広場の一角で、花を売る娘がいた。灯と同じか、少し下だろうか。籠いっぱいの花を抱えて、精いっぱいの声を張り上げている。けれど、その声も、目の下の隈も、疲れきっていた。
「一輪、いただけますか」
灯が声をかけると、娘はぱっと顔を上げ、慣れた笑顔をつくった。
「はい! ええと、この青いのなんか、旅の方には――」
言いかけて、娘はふらりと、めまいのように傾いだ。灯はとっさに肩を支える。
「大丈夫ですか。……あなた、いつから働いておられるんですか」
「え……夜明け前から、です。でも、まだ、ぜんぜん」娘はあわてて姿勢を正した。「リリィって言います。平気です、みんなこうですから」
「休まれた日は?」
リリィは、きょとんとした。それから、困ったように笑った。
「休む……? そんなの、ずっと……いつだったかな」
その笑い方に、灯は覚えがあった。前世で、何度も見た笑い方だ。
「休みたく、ないんですか」
「休みたい、です」リリィの声が、急に小さくなった。「ほんとは、休みたい。……でも、休むと、周りに悪いなって、思っちゃって。みんな働いてるのに、自分だけ休むなんて。それに――」
リリィは、籠の花に目を落とした。
「もうすぐ、お母さんの誕生日なんです。花冠を編んで、渡したくて。子どもの頃みたいに、一日だけ、いっしょに過ごしたくて。……でも、一日休むなんて、この町じゃ、とても言い出せなくて」
小さな願いだった。母の誕生日に、花冠を編む。ただ、それだけの。
灯の胸が、ぎゅっとつかまれた。
◇
町を歩いて、誰に聞いても、同じだった。
パン屋の主人も、水車番の老人も、洗い場の女たちも。「休む?」と問えば、みな一様に、困った顔をした。
「休みなんてもんは、あってないようなもんでさ」
「有給……? それは、なんですかい」
有給休暇という言葉を、誰も知らなかった。あっても、言い出せない。休みが「権利」だなんて、誰も思っていない。疲れて、疲れて、倒れるまで働く。それがこの町の、あたりまえだった。
昼どき、露店で売られていた花蜜の焼き菓子に、灯の足は正直に止まった。花の蜜を練り込んだ、こんがり焼けた小さな菓子。甘い香りが、まっすぐ鼻をとらえる。
(……いけない。私は今、任務中の身。この町の未来を背負う者が、焼き菓子ごときに――)
ぐう、と、お腹が鳴った。
(……ごとき、なんて言ってごめんなさい。焼き菓子さんは悪くない)
気づけば、菓子を両手で捧げ持っていた。目を閉じ、深く頭を垂れる。
(この一つに宿りし、花の恵みと、蜜蜂の営みと、焼き手の技に――感謝を。いただきます)
ひとくち。ほろりと崩れる甘さが、旅の疲れにしみわたる。灯の目が、じんわり潤んだ。旅人が焼き菓子を拝んでいるのを、露店の女がけげんそうに見ていることには、しばらく気づかなかった。
夜。灯は、宿の窓辺に正座して、星空を見上げた。
旅に出てから始めた、夜ごとの習わし。女神への、業務報告である。
「本日の報告を申し上げます。花と水車の町に到着。産業は豊かなれど、休暇の概念が根づいておらず、住民に慢性的な疲労が見られます。有給休暇の周知を、喫緊の課題と認識しております。以上――」
律儀に頭を下げたところで、宿の戸が叩かれた。旅の商隊が、王都からの手紙を届けてくれたのだ。
差出人を見て、灯の頬がゆるむ。徴税官のミラ――王都の帳簿を預かる、数字の申し子。几帳面な字が、便箋を埋めていた。
『帳簿の突合が三日続きで、さすがに肩が凝りました。なので昨日は、思いきって一日、休みました。数字は、人の暮らし。その暮らしを守るわたしが、暮らしを削っていては世話がありません。アカリ様も、たまには休んでくださいね。――ところで、アカリ様は神官になってから、一日でも休まれましたか?』
灯は、手紙を持ったまま、固まった。
(……休んで、いない)
着任してから、今日まで。町から町へ、実態を見て、お告げを授けて。一日も、休んでいなかった。
(私、リリィさんに「休んでいい」って言おうとして……自分は、一日も休んでない?)
人に休めと説く者が、休んでいない。灯の背中を、じわりと汗が伝った。
◇
翌朝、灯はふたたび枯れた庭木の前に立った。リリィが、花籠を抱えて隣に来る。
「その木、ね」リリィが、そっと言った。「昔、すごく腕のいい庭師さんが、育ててたんです」
「庭師さん……」
「一度も休まない人でした。町じゅうの庭を手入れして、みんなに頼りにされて。休んでください、って言っても、笑って首を振って。『わしが休んだら、花が枯れる』って。……それで、ある日。庭仕事の途中で、ぽっきり、倒れて」
リリィの声が、震えた。
「それきり、帰ってこなかった。……不思議なんです。あの人が倒れてから、この木も、いっしょに枯れちゃって。まるで、木が、あの人の代わりに悲しんでるみたいで」
灯は、灰色の幹に、そっと手を触れた。
一度も休まず、皆に尽くし、倒れた人。その痛みが、この枯れ木には、まだ残っている。誰も、その死を「働きすぎ」だとは言わない。ただ「働き者だった」と、惜しむだけ。だから、また次の誰かが、同じように倒れていく。
(もう、繰り返させない)
灯は、静かに拳を握った。
◇
町の世話役の家は、水路のいちばん上手にあった。
白髪まじりの、恰幅のいい男だった。悪い人ではない。むしろ、町のことを本気で考えている、その顔だった。灯が「町の人を、休ませてあげてほしい」と切り出すと、世話役は太い眉を寄せた。
「気持ちは、わかる。だがな、旅の人。休ませたら、仕事が回らぬのだよ」
「回らない……」
「花は、待ってくれん。摘む時に摘まねば腐る。水車も、止めれば町の暮らしが止まる。一人が休めば、そのぶん誰かにしわ寄せがいく。だから、誰も休めん。休ませたくとも、休ませられんのだ」
誠実な、板挟みの顔だった。前世でも、同じ顔を見た。人手が足りず、誰も休ませられずに、自分もまた倒れそうな経営者の顔を。
「……世話役さん」灯は、静かに首を振った。「それは、逆でございましょう」
「逆?」
「休ませないから、回らなくなるのでございます。庭師さんが倒れて、あの木が枯れたように。人が壊れてしまえば、もう二度と、その手は戻りません。休みは――怠けではなく、備えなのでございます」
世話役は、むずかしい顔で、黙り込んだ。
◇
その帰り道、灯は、水路のほとりで、糸を紡ぐ老婆に出会った。リリィの祖母だという。灯が枯れた庭木の話をすると、老婆は、しわだらけの手を止めて、ぽつり、ぽつりと語りだした。
「……わしが、まだ小さい時分のこと。この町にも、休みというものは、なかった」
紡ぎ車が、ゆっくりと回る。
「いや、なかったわけではない。ただ、休みは"恵み"だったのだよ。よく働いた者に、雇い主が『今日はもう帰ってよい』と、恵んでくださる。それが、休みだった。恵んでもらえた日は、みな、ありがたや、ありがたやと、手を合わせたものさ」
「恵み……」
「そうさ。だがねえ、旅の人。恵みというのは――忙しくなると、いちばん先に、消えるのだよ」
老婆の目が、遠くを見た。
「稼ぎ時になれば、恵みは引っ込む。『こんな忙しい時に休むとは何事だ』とね。いちばん休みが要る、疲れきった時にこそ、恵みは消えてしまう。だから、誰も休めなんだ。……あの庭師も、そうだった。恵みを待つうちに、身体のほうが、先に尽きたのさ」
灯は、はっとした。
休みが、雇う側の"気分"に委ねられているうちは、いちばん休みが要る時に、休めない。だから――休みは、恵みではなく、動かせない「権利」でなければならない。倒れた人たちが、次の人を守るために、そう決めたのだ。
「ありがとうございます、ご老人。……大事なことを、教えていただきました」
■前の話の一問一答・答え合わせ
【問】労働契約の締結に際して明示された労働条件が事実と相違する場合には、労働者は即時に労働契約を解除することができる。(◯か✕か)
【答】◯ 明示された労働条件が事実と相違する場合、労働者は即時に労働契約を解除できる(労基法15条2項)。さらに、就業のために住居を変更した労働者が契約解除の日から14日以内に帰郷する場合は、使用者は必要な旅費を負担しなければならない(同条3項)。
※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。




