第十三話 次の一歩までの橋(二)
「次は、橋の大きさ。どれだけの銭を、何日ぶん渡れるか」灯は、線をもう一本、長く引いた。「まず、いくら。――辞める前の、一日ぶんの稼ぎの、およそ五割から八割です。橋の、幅だと思ってください」
「五割から、八割。ずいぶん幅があるね」
「ここに、この橋のいちばん大事な仕掛けがあるんです」灯は、人差し指を立てた。「稼ぎが低かった人ほど、その割合は高くなります。稼ぎの多かった人は五割に近く、少なかった人は八割に近くなります。……あなたのような日銭の細い刈り手ほど、幅は広く、八割に近く取られます。落ちにくいように」
ハンナが、ふうっと息を吐いた。
「次は、橋の長さ。何日ぶん渡れるか。これは、その人の歳と、加入していた長さと、辞めた理由で決まります。短い人で九十日。長い人だと、三百三十日まで」
「九十日から、三百三十日」傭兵の男が、低く繰り返した。「ずいぶん、違うもんだな」
「そして、さっきと同じです」灯は、男を見た。「自分の都合ではなく職を失った人ほど、橋は長くなります。腰を据えて、次を探せるように」
「幅も、長さも、弱いやつほど、大きい、と」
「はい。弱い人ほど、広く、長い橋を。それが、この橋を架ける者の、心づかいです」
◇
「最後は、橋のたもとの、門です」灯は、線の手前に、小さな四角を描いた。「橋を渡り始める前に、ちょっと待つ期間があるんです。まず、申し込んだあと、誰でも七日間。これは、どんな人にも共通の、待つ期間」
「七日なら、なんとか」ハンナがうなずいた。
「そのうえで――」灯は、少し声を落とした。「自分の都合で辞めた人には、七日のあとに、さらに原則一か月、門が開きません。備える時間があったはずですから、少し待ってもらうんです。……でも、あなたがたは辞めさせられた側です。門は、すぐ開きます」
「もし、何度も自分から辞めるやつがいたら」傭兵の男が問うた。
「するどいですね」灯は苦笑した。「五年のうちに、自分の都合で辞めるのが三度めになると、その門は三か月に延びます。橋を、渡り癖にしないように」
「でも、この固い門にも、抜け道がひとつ」灯は、指を立てた。「辞める前か、辞めたあとに、学び直しの訓練を受けていた人。新しい技を身につけようとしていた人は、この一か月や三か月の門が、外れるんです。すっと、開きます」
「学べば、門が早く開く、ってのかい」ハンナが目をみはった。
「渡りながら次のために学ぶ人を、待たせておく理由はありませんから。……学び直す人の足を、門で止めてはいけません。それが、この橋の、いちばん未来を向いた決まりです」
傭兵の男が、ふっと、初めて表情をゆるめた。
「剣しか、知らねえと思ってたが。……学べば、道が開くのか」
そのとき、宿の下働きの少年が、息を切らして駆けてきた。手には、一通の手紙。王都の徴税寮の封蝋。灯の顔が、ぱっと明るくなる。旧い仲間からの便りだった。
几帳面な、けれどどこか楽しげな筆跡で、こうあった。
『王都は変わらず帳簿の海です。国じゅうの帳簿を眺めていると、面白いことがわかります。夏に人と銭がどっとふくらみ、冬にいっせいに消える国は、数字だけで、はっきり見えるのです。季節で稼ぎが消える国は、放っておくと、冬に人まで消える。数字は、人の暮らしですから』
その下に、短く。
『ご依頼の件は、まだ見つかりません。国ごとの綴りを、古いほうから順に見ております』
そして、末尾に。
『ご報告。徴税寮の書類の山を、一度見たら全部覚えてしまいました。どこに何があるか完璧に頭に入っているのに、一枚も動かせず、山は積みあがる一方です。覚えることと片づけることは、別の才能のようです。……お体、ご自愛を』
そして、その下に、あとから書き足したような数行が続いていた。
『ひとつ、妙なことがあります。傭兵の一団が国境を越えるたび、必ず帳簿の数字が動くのです。ああいう荒っぽい勘定書きの綴じ方だけ、わたし、誰にも教わった覚えがないのに、なぜか手が先に覚えています。……変ですね』
灯は、思わず吹き出した。あの子らしい。数字では大陸のどんな謎も解くのに、机の上ひとつ片づけられない。最後の数行は、よほど疲れて書いたのだろう。灯は手紙を胸に抱いて、窓の外を見た。満月が、近い。
◇
その夜、灯は港を見晴らす畑の畦で、ひとり、月を見上げていた。明日の満月、灯はこの国にお告げを授ける。一年のあいだ、誰も破れない掟。誤れば、誰も逆らえない。いつもの、あの重さが胸に下りてくる。怖くない、と言えば嘘になる。
けれど、と灯は思った。ハンナの節くれだった手を。傭兵たちの飢えた目を。年代記の、震える一行を。
(怖いのは、間違えることじゃない。……何もしないで、また誰かを、冬の川に落とすことだ)
灯は、静かに立ち上がった。
◇
満月の夜。港町の広場に、民が集まった。
商会の長も、ハンナも、あの傭兵たちも、その中にいた。白い衣に着替えた灯が祭壇に立つと、ざわめきが、しんと引いていった。
「――女神のお告げを、授けます」
灯は集まった顔を見渡し、はっきりと、声を放った。
「雇いが切れる者のために、備えを積んでおきなさい。働く意思のある者には、次の職までの支えを、届けなさい。追い出された者ほど、手厚く支えなさい。学び直そうとする者の足を、待つ期間で、止めてはなりません」
光の文字が、祭壇の上に、ゆっくりと立ちのぼった。
民が、ざわめいた。冬の者を支える? そんな余裕がどこに?――不安の声が、さざ波のように広がる。灯は、その一人ひとりに語りかけるように、続けた。
「これは、施しではございません」
ざわめきが、やんだ。
「冬に人を支えるのは、情けではなく、堤でございます。橋を架けなければ、人は切れ目で川に落ち、国の外へ流れて、二度と戻りません。……かつて、この国が、そうであったように」
年代記を知る老いた者たちが、はっと顔を上げた。
「橋があれば、人は冬を越えて、春の畑に戻ってこられます。次の一歩まで支えます。……たったそれだけで、人は、この国に残るのでございます」
広場の隅で、ハンナが、じっと祭壇を見つめていた。その目が、ゆっくりと潤んでいった。
◇
お告げの翌朝、灯は港の屋台で、この国の名物にありついた。燻製にしたニシンだという。香ばしい煙の匂いに、灯の足はすでに止まっていた。
(この一尾に宿りし、海の恵みと、燻し手の技と――感謝を。いただきます)
両手で捧げ持ち、深々と祈って、いざ、ひとくち。――と思ったら、口の中が、骨だらけだった。
(……ほ、骨。こんなに、細い骨が)
もぐもぐと、けれど品よく、灯は骨と格闘した。取っても取っても、舌の上に細い骨が残る。眉をひそめて骨をより分ける灯の横で、いつのまにかハンナが、腹を抱えて笑っていた。
「あんた、食べるとき拝むんだね。……渡り鳥の国じゃ、そんなに悠長に拝んでたら、鳥に横取りされるよ」
「まさか。祈りは、大切な――」
言い終わる前だった。ふわり、と影が差し、灯の手から、次に食べる揚げパンが消えた。カモメだ。一羽の白いのが揚げパンをくわえ、悠々と空へ舞い上がっていく。
灯は、両手を宙に浮かせたまま、祈りの姿勢で固まった。
「…………」
「言わんこっちゃない!」ハンナが、涙を浮かべて笑い転げた。「あんた、いい神官さまだけど、飯にかけちゃ、この国じゃ新入りだよ!」
灯は祈りの手を、そろそろと下ろした。
(……原則、食事は、両手が、ふさがらぬよう、供すること……)
緊張のあまり、頭の中で、ありもしない条文を暗唱していた。
◇
数日後。灯は、もう一度、冬の畑を訪れた。景色は、変わっていた。
刈り入れの終わった畑に、人がいた。冬なのに。鎌を持つ仕事は無くとも、来年の畝を整え、春の種を選り分ける人々が。冬の支えを受け取れるようになった彼らは、腰を据えて春を待てるようになったのだ。
その一角で、ハンナが、妹分の少女と並んで鍋を囲んでいた。二人のあいだで、具のたっぷり入った温かい鍋が、ことこと煮えている。もう、薄い粥を分け合う冬ではなかった。
灯に気づくと、ハンナは、鍋の湯気の向こうで、まぶしそうに笑った。
「旅の人。……見ておくれよ。冬なのに、あったかい鍋だ」
少女が、ハンナの椀に、大きな具をよそっている。ハンナは、それを止めなかった。もう、自分の分を削らなくてよかった。
「あたしね、ずっと、思ってたんだ」ハンナは、椀を両手で包んだ。「夏のあたしは国いちばんの刈り手で。冬のあたしは、怠け者なんだって。町の連中がそう呼ぶから、あたし自身も、そう思い込んでた」
ハンナの声が、少し、震えた。
「でも、違ったんだね。……冬のあたしは、怠け者じゃ、なかったんだね。仕事が、無かっただけ。あたしはずっと、働くつもりで、いたんだね」
灯の目に、熱いものがこみ上げた。もう、堪えなくてよかった。
「はい」灯は、うなずいた。「あなたは、ずっと、働き者でした。夏も、冬も。……ただ、冬の橋が、無かっただけです」
ハンナは、ぐしゃりと顔をゆがめて、それから笑った。少女が、不思議そうに二人を見上げていた。
◇
街道の傭兵たちも、変わっていた。次の依頼まで飢えずに済む彼らは、剣を悪いほうへ向けずにすんだ。焚き火を囲む目から、あの獣のような光は消えている。灯が通りかかると、あの年かさの男が、片手を上げた。
「橋、渡らせてもらってるよ。旅の人」
「よかったです」
「一人、村へ帰った。鍛冶を一から学び直すんだとさ。……学びながら、橋を渡れるらしい」男は、少し照れたように笑った。「剣しか知らねえと思ってたやつが、な」
灯は、深くうなずいた。
◇
夕暮れの、港を見晴らす丘。灯は旅の荷を背負い直した。切れ目に架けた一本の橋が、国を、内側から支えている。
(職を失うことは、誰にでも起こりうる)
夏の刈り手も。歴戦の傭兵も。前世で窓口に並んだ、あの俯いた人たちも。誰も、怠けていたわけじゃない。ただ、次の一歩までの橋が、無かっただけ。それを、あらかじめ架けておくこと。大事なのは、それだけだった。
ふと、街道のほうで、砂ぼこりが立った。
あの傭兵の一団が、腰を上げていた。彼らは布で巻いた旗をかつぎ直し、飢えの縁をいったんは越えた足取りで、ゆっくりと、西へ歩き出した。
巻かれた旗が、風にわずかにはためく。けれど、それが何の旗なのかは、やはり灯にはわからなかった。行き先も、彼らが西で何を目指すのかも。
西へ。灯は、街道の先を目で追った。この国の西には、灯の足のまだ届かない国が、いくつも連なっている。次の雇いが、そちらにあるのだろう。……たぶん、それだけのことだ。
(あの旗が、何なのか。……私は、まだ知らない)
胸の奥が、ほんの少し、ざわりとした。灯はその一団を、街道の彼方へ小さくなって消えるまで、見送った。それから、冬でも人の消えない町を、もう一度見渡した。
(橋があれば、人は、渡っていける)
大陸に、また一つ、灯がともった。
町の広場では、冬支度の市が立っていた。夏に麦を刈っていた手が、そのまま冬の荷を担いでいる。この町では、季節が変わっても、同じ顔が並んでいた。
■今回のオーダー
次の仕事までの橋を渡れるのは、働く気と力があるのに職に就けない人。原則、辞める前の二年間に加入した月が通算十二か月以上。ただし倒産や解雇で辞めさせられた人は、一年間に六か月以上でいいの。追い出された人ほど、入口は広く開くようにできてます。
橋の幅は、辞める前の一日の稼ぎのおよそ五割から八割。稼ぎの低かった人ほど、割合は高くなります。橋の長さは、歳と加入の長さと辞めた理由しだいで、九十日から三百三十日まで。弱い立場の人ほど、広く、長い橋を。
橋のたもとには、待つ門があります。誰でも七日の待期。自分の都合で辞めた人は、そのうえ原則一か月(それまでの五年に二度以上あれば、三度めは三か月)。でも、辞める前後に学び直しの訓練を受けていれば、その門は外れます。学ぶ人の足を、止めてはいけないから。
◇
■今回の学び(社労士試験対策)
・基本手当の受給資格: 働く意思と能力があり職業に就けないことが前提。原則、離職前2年間に被保険者期間が通算12か月以上。倒産・解雇等の特定受給資格者は離職前1年間に6か月以上でよい。
・額と日数: 基本手当日額=賃金日額のおよそ50〜80%(賃金が低いほど高率)。所定給付日数は年齢・被保険者期間・離職理由などで決まり、90〜330日(特定受給資格者等は手厚い。障害者等の就職困難者は150〜360日)。
・待期と給付制限: 受給資格決定後、7日間の待期は全員共通。自己都合離職は原則1か月の給付制限(離職前5年間に自己都合で2回以上受給資格決定を受けていれば、3回めは3か月)。離職前後に一定の教育訓練を受けた場合は給付制限が解除される。
・作中の掟との違い: ハンナのように季節で雇われ季節で切れる人は、実際の法では「短期雇用特例被保険者」として、基本手当ではなく特例一時金(基本手当日額の30日分、当分の間は40日分)を受けます。作中の掟では、ハンナにも基本手当と同じ橋が架かっています。
◇
■一問一答(社労士試験の頻出論点から)
【問】倒産・解雇等により離職した特定受給資格者は、離職の日以前1年間に被保険者期間が通算して6か月以上あれば、基本手当の受給資格を有する。(◯か✕か)
(答えは、次の話の一回めの後書きで)
◇
次回予告:幕間「天気という主人」――港と畑の国で、女は夜明け前に空を読む。




