↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界労務物語 ―女神のオーダー  作者: 月守行


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/34

第十三話 次の一歩までの橋(一)

 砦の国を越えると、風の匂いが変わった。乾いた石と鉄の匂いから、潮と土の匂いへ。渡り鳥の国ミグラ。港と畑の国だと、灯は道すがら聞いていた。


 渡りの季節には、船が着き、畑が実り、国じゅうが人であふれるのだという。事実、街道はにぎやかだった。荷馬車が行き交い、売り子が声を張り、頬を赤くした若者たちが港のほうへ歩いていく。


(……活気があるな)


 けれど、その明るさの端に、影があった。街道脇の枯れ草の上に、武具をまとった傭兵らしき男たちが座り込んでいる。何をするでもなく、ただ道の先を見ている。傍らには、布で巻かれた旗が一本。何の旗かは、巻かれていて見えない。


 灯が通り過ぎるあいだ、旗のそばの男たちは、誰ひとり、こちらを見なかった。腹を空かせた獣のような、静かな目だった。同じ道の上なのに、まるで別の季節を生きているようだった。


 ただ、一団から少し離れた荷車の陰に腰を下ろした男だけが、ふと顔を上げた。汚れて茶にくすんで見える髪の、その根もとが、日を受けて金に光った。目だけが、透き通るように青い。男は灯を一瞥し、それきり、また道の先へ視線を戻した。


 見られた、というより――値踏みされて、通された、という感じがした。


 ◇


 その夜、灯は港町の小さな宿に草鞋を脱いだ。窓辺に、旅の荷から女神の小さな像を置く。旅先の毎晩、女神へ報告するのが習いだった。はじめは「日報」のつもりが、旅が長くなるにつれ、様式は「月報」に落ち着いていた。灯は像の前に正座し、背筋を伸ばして頭を下げた。


「本日、砦の国より渡り鳥の国ミグラに到着いたしました。当地は渡りの季節、活況を呈しております。一方、街道にて職を失ったとみられる傭兵の一団を確認。要調査事項として次月報に引き継ぎます。以上、当月の活動報告とさせていただきます」


 言い終えて、もう一度、深く頭を下げる。まさか異世界の宿で、星に報告書を読み上げるとは。我ながら板についてきた、と灯は小さく笑った。


(先生が見たら、なんて言うかな)


 顔は、思い出せない。声も、像を結ばない。ただ、温かい手のひらの感触と、ひとつの言葉だけが、胸の奥に残っている。


――民を思え。


 ◇


 翌朝。灯は町を出て、刈り入れの終わった畑へ足を向けた。実態を、自分の目で見るために。


 夏の盛りには黄金色に波打ったのだろう畑は、いまは茶色く刈り取られ、遠くまで平らに広がっていた。その一角で、女がひとり、地面をならしていた。


「精が出ますね」


 灯が声をかけると、女は顔を上げた。日に焼けた、頑丈そうな腕。目尻の皺は、笑ったときの形のまま残っている。歳のわりに、背筋のまっすぐな人だった。


「旅の人かい。物好きだね、こんな枯れ畑に用なんて」


「ハンナさん……と、お呼びしても、よろしゅうございますか。畑の方に伺いました。この国いちばんの刈り手だと」


「へっ」女は――ハンナは、照れ隠しのように鼻を鳴らした。「夏はね。夏のあたしは、たしかに国いちばんさ。朝いちばんに鎌を握って、日が落ちるまで、誰にも負けやしない」


 誇りが、隠しようもなく声ににじんでいた。


「でも、冬は」


 ハンナの手が、止まった。


「冬は、刈り手の雇いがひとつ残らず切れる。麦の畑は眠るからね。刈るものが無きゃ、刈り手は要らない。……当たり前の話さ」


「蓄えは」


「夏のあいだに貯めるよ。けどね」ハンナは畑の彼方に目をやった。「うちには、預かってる子がいてね。親を亡くした、妹分みたいな娘さ。あの子に食べさせると、蓄えは年明けには底をつく。春の刈り入れまでが、いちばん長い」


「働く気は、あるんだよ」ハンナは、自分の両手を見た。節くれだった、働き者の手。「この手はまだ、いくらでも動く。動かせる仕事が、無いだけさ。それなのに冬になると、町の連中はあたしらを、こう呼ぶ」


 ハンナは、口の端をゆがめた。


「――怠け者、ってね」


 その一言が、灯の胸の底に、静かに沈んだ。


(働く気はあるのに、働く場が無い。……それは、この人の罪じゃない)


 前世で、灯は何度も、その顔を見た。職を失って窓口に来る人たち。番号札を握りしめて、「怠けているわけじゃないんです」と、聞かれてもいないのに言い訳から始める人たち。彼らはみな、仕事が消えたことを、まるで自分の落ち度のように責めていた。


 断片が、一粒だけ落ちてきた。灰色の待合室。長い列。うまく言葉をかけられなかった、自分の無力。灯は、そっと胸を押さえた。


 ◇


 畑からの帰り道、灯はまた、あの街道の傭兵たちの前を通った。


 今日は、そのうちの四、五人が焚き火を囲み、乾いたパンのひと切れを、順に回していた。


「皆さん、何をお待ちなのでございますか」


 灯が問うと、いちばん年かさの男が、気だるげに顔を上げた。


「待っちゃいねえよ。戦が終わりゃ、雇いはその日で切れる。次の依頼が来るまで、食う手だてが何ひとつ無え。もう二月だ」


「蓄えは」


「傭兵に蓄えなんてもんがあると思うかい」若い一人が、乾いた声で笑った。「その日暮らしさ。剣が要らなくなりゃ、俺たちも、要らなくなる」


 年かさの男が、火を見つめたまま、低く言った。


「なあ、旅の人。腹が減るとな、頭ん中がだんだん簡単になっていく。あそこの荷馬車、番人がいねえな、とか。……剣ってのは、飢えた手に握られると、あっけなく、悪いほうへ向くもんさ。まだ、やっちゃいねえよ。ぎりぎりの、瀬戸際だがな」


 男は自嘲するように笑ったが、その目は笑っていなかった。悪人の目ではない。追い詰められた人の目だった。ひと押しで、崖のこちらとあちらが入れ替わる、その縁に立たされた人の。


「だがな」男は、布に巻かれた旗のほうへ、顎をしゃくった。「あれを解いてねえうちは、まだ、やらねえ。うちの決まりでな。旗の下でやることは、みんなで話して決める。相談も無しに手を出したやつは、その日で放り出される」


「……決まりが、ございますか」


「決まりのねえ剣は、ただの刃物だ」男は、枯れ枝を折って火に足した。「頭がな、口を酸っぱくして言うのさ。話して決めたこと以外はやらねえ、ってな」


 灯は、その一言を、しばらく胸の中で転がした。決めごとが一本、飢えと悪のあいだに、細い線を引いている。旗は、まだ、巻かれたままだった。


(職を失うことは、この人ひとりの問題じゃない。……国の、危うさに直結している)


 灯は懐から揚げパンを取り出し、火のそばに置いた。


「これ、よろしければ」


「……施しは、要らねえ」


「施しではございません。次の依頼までの、ほんの少しの、橋でございます」


 男は、灯をしばらく見てから、それを受け取った。


 ◇


 灯は町の記録役を訪ね、この国の年代記を見せてもらった。埃をかぶった羊皮紙を、ひとつずつめくっていく。豊漁の年。豊作の年。栄えの記録。


 だが、あるページで、灯の指が止まった。大飢餓の年。


 その年、渡りの季節が終わっても、次の仕事が来なかった。雇いを失った民は蓄えを食いつぶし、食べるすべを求めて、一斉に国の外へ流れ出した。町は空になり、畑は荒れ、国は――長く、立ち直れなかった。


 筆写した誰かの、震えるような文字で、余白にこう書き添えてあった。


 《飢えたるは、怠けたるゆえに非ず》


 飢えたのは、怠けたからではない。仕事が消えたのは、民のせいではなかったのだと、何百年も前の誰かが、後の世に残したかった一行。灯は、それを指でなぞった。


(同じ冬が、今も、この国で繰り返されている)


 ハンナの手。傭兵たちの目。年代記の中の、流れ出していった名も無き民。それらが、一本の線でつながった。


(失業への備えは、施しなんかじゃない。……国が流れ出さないための、堤なんだ)


 ◇


 灯は、この国の雇いを差配する、商会の長を訪ねた。ボルク、と名乗った。でっぷりと肥えた、抜け目のなさそうな男だった。灯が刈り手や傭兵のことを問うと、彼は面倒くさそうに手を振った。


「季節の仕事だ。渡りが来れば雇い、去れば切る。昔からそうしてきた。切れるのは、仕方あるまい」


「仕方ない、で終わらせて、よろしいのでございますか」


「では、どうしろと」長は、ふんと鼻を鳴らした。「冬に仕事の無い者を、こちらが養えとでも? 商いは慈善じゃない。実らぬ畑に、銭は撒けん」


「養えとは申しません」灯は、まっすぐに彼を見た。「切れ目に、橋を架けてくださいと申しているのでございます」


「橋?」


「季節の仕事が切れるのは、変えられません。麦の畑は冬に眠るのでございますから。でも――仕事と仕事の切れ目、次の仕事に就くまでのあいだ。そこに橋が架かっていれば、人は渡ってゆけます。橋が無ければ、人は切れ目で川に落ち、年代記のとおり国の外へ流れてゆきます。でも橋がございましたら、来年また、あなたの畑に、いちばんの刈り手が立つのでございます」


 長の眉が、わずかに動いた。


「……その橋とやらは、誰が架ける」


「皆で、でございます。働けているあいだに、雇う側も雇われる側も、ほんの少しずつ、備えを積んでおくのです。その積み立てが、誰かの冬の橋になります。……施しではございません。回り持ちの、堤なのでございます」


 長は答えず、机の上の帳面を、自分のほうへ引き寄せた。


 革の表紙。角に、綴じ穴が三つ。上から順に、同じ間の空け方だった。


 砦の国の記録庫で見た、あの古い名簿と、同じだった。石の巨人の図面が挟まっていた、あの一冊と。


(……綴じ方が同じなだけ。帳面の綴じ方なんて、そう幾通りもないはず)


 灯は、そう思うことにした。思うことにした、ということは、気になっている、ということだった。


 ◇


 商会の一室で、灯はハンナと、あの傭兵の男を呼んだ。橋の架け方を、説くために。


「これから話すのは、職を失ったときの加護の話です」灯は、机の上に指で線を引いた。「この加護には、入口が三つ。渡れる人、橋の大きさ、たもとの門」


「むずかしい話は、苦手だよ」ハンナが顔をしかめた。


「大丈夫です。橋の話です」灯は微笑んだ。「まずは、誰が橋を渡れるか。――働く意思と能力があるのに、職に就けない人。働く気があって、働ける体があって、それでも仕事が無い。ハンナさん、まさにあなたです」


「働く気は、あるさ。この手も動く」


「なら、渡れます。ただ、ひとつ条件が」灯は指を折った。「原則、辞める前の二年間に、加入していた月が、通算で十二か月以上あること。ちゃんと働いて備えを積んできた人が渡れる橋、ということです」


「二年で、十二か月……」ハンナが指を数えた。「夏に働いて、冬は切れて。それでも、二年のうち半分は働いてるよ。刈り入れは長いからね」


「なら、足ります。でも――」灯は、傭兵の男のほうを見た。「戦が終わって、その日で切られた人。倒産や解雇で辞めさせられた人。そういう人は、もっと入口が広く開くんです。辞める前の一年間に、六か月以上、加入していれば、それでいいんです」


「なぜ、そいつらだけ、甘いんだ」男が眉をひそめた。


「自分から辞めたわけではないからです」灯は、静かに言った。「明日は働くつもりだったのに、いきなり雇いを切られたのです。備える暇も、ありませんでした。……追い出された人ほど、いちばん困っています。だから、入口は広く開きます。それが、この橋の、いちばん優しいところです」


 男は、火のそばで聞いたときと同じ目で、灯を見た。

■前の話の一問一答・答え合わせ


【問】労働者の死亡の当時その収入によって生計を維持していた妻は、年齢及び障害の状態にかかわらず、遺族補償年金の受給資格者となる。(◯か✕か)


【答】◯ 遺族補償年金の受給資格者のうち、夫・子・父母・孫・祖父母・兄弟姉妹には年齢又は障害の要件があるが、妻には年齢・障害の要件がない(労災保険法16条の2第1項)。なお、令和8年の改正(令和8年法律第60号)により、2027年4月1日から夫の年齢・障害の要件はなくなり、妻と同じ扱いになる。


※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。