第十二話 治った日で、終わらせない(一)
朝の光は、療養所の窓から斜めに差し込んで、寝台の列を静かに照らしていた。
春野灯は、白い衣の裾を持ち上げて、その列のあいだをそっと歩いた。砦の国カストラに留まって、もう幾日になるだろう。前の満月に、この国へ最初のお告げを授けてから、灯はまだ王都へは戻らず、ここに残っていた。
朝の療養所は、静かだった。けれど、その静けさが、灯にはかえって重かった。
寝台の一つでは、老いた男が天井を見上げたまま、身じろぎもしない。腰から下が、もう動かないのだという。別の寝台では、右腕を布で吊った若い男が、左手だけで、器の粥を運んでいた。こぼれる。また、こぼれる。
「……お手伝い、しましょうか」
灯が声をかけると、男は首を横に振った。
「いいんです。……自分で、覚えないと。もう、こうやって生きていくんだから」
灯は、言葉を返せなかった。
傷は、ふさがっている。血も止まり、熱も引いた。医師の見立てでは、おおかたは「治った」のだ。けれど、治ったはずの体は、もとには戻っていない。腕は上がらず、足は立たず、指は器を落とす。
(治った、という言葉が、こんなに冷たいなんて)
前世でも、灯は知っていた。ある日、一枚の通知が届く。あなたの状態は、これ以上は良くも悪くもならない――そう告げる、事務的な紙。それを受け取った人の顔を、灯は幾度も見てきた。もう痛みは薬で抑えられる。けれど、失ったものは戻らない。治療の終わりは、暮らしの終わりではないはずなのに。その通知の日から、支えの手が、ふっと引いてしまう。
その顔が、寝台の男の横顔に、静かに重なった。
◇
鍛冶場は、火が落ちていた。
炉の中の炭は、白い灰をかぶって、ただ冷えていた。灯がのぞくと、奥の板の間で、ひとりの男が壁にもたれて座っていた。
右の袖が、肘の先で、結わえられて垂れている。
「……鍛冶師の、ロルフさん」
男は、ゆっくりと顔を上げた。日に焼けた、頑丈そうな顔だ。まだ若い。三十を過ぎたばかりだろうか。けれど、その目には、火が消えていた。炉と同じように。
「神官様が、こんなところに何の用です」
「あなたのことを、聞きました。坑道の落盤で、腕を」
ロルフは、垂れた右袖を、左手で無造作につかんだ。
「傷は、ふさぎましたよ。もう痛みもない。だから、支えは終わりだと言われた。……治ったんだから、当然だ、と」
「でも」
「でも、槌が握れねえ」
彼は、床に転がった鉄槌に目をやった。
「鍛冶ってのはね、神官様。両手なんですよ。片手で鉄をつかんで、もう片手で槌を振る。……俺には、もう振る手がない。二十年やってきた仕事を、腕一本と一緒に、坑道に置いてきちまった」
外から、遠く、別の鍛冶場の音が響いてきた。かん、かん、と、槌が鉄を打つ、澄んだ音。
ロルフの肩が、びくりと震えた。
「……あの音がね」彼は、絞り出すように言った。「二十年、いちばん好きだった音が。今は、聞くのが、いちばん、つらい」
灯は、何も言えなかった。慰めの言葉は、どれも軽すぎて、口に出す前に喉で崩れた。
傷が治ったこと。それは、決して、暮らしが戻ったことではない。同じ落盤で、同じように腕を失っても――軽く済んだ者と、仕事そのものを失った者とでは、負ったものの重さが、まるで違う。なのに、線引きは一つだけ。「治ったか、治らないか」。
(それだけじゃ、この人の失ったものは、測れない)
◇
鍛冶場を出て路地を歩いていると、灯の足を、小さな影が引き止めた。
石壁の隙間のような路地の隅に、母子が身を寄せて座っていた。母親は薄い肩掛け一枚。その膝の上で、四つ、五つほどの女の子が、何かを大事そうに両手で握りしめている。
「……ここで、暮らしているんですか?」
母親は、うつむいたまま、小さくうなずいた。
「亭主が、坑道で。……ロルフさんと、同じ落盤でした。あの人は、腕で済んだけど。うちの人は、帰ってこなかった」
灯の胸が、締めつけられた。
「稼ぎ手が、あの人ひとりだったから。あの日から、家賃も払えなくて、ここへ。……弔いの費えも、まだ工面できずにいます。あの人を、ちゃんと送ってやることも、できないままで」
女の子が、握っていた手を、そっと開いて灯に見せた。
黒く煤けた、火ばさみだった。柄の擦り切れた、使い込まれた仕事道具。
「とうちゃんの」女の子が、ぽつりと言った。「たからもの、なの」
灯は、しゃがみこんで、その小さな手を、両手でそっと包んだ。温かかった。父を失った子の手は、こんなにも、温かい。
――稼ぎ手を失えば、家はその日から傾く。傷を負った本人だけではない。帰らなかった人の、あとに残された者たちにも、暮らしは容赦なく続いていく。誰かが、その後を引き受けなければ。
でも、この国では、誰も。
◇
その夜、灯は砦の古文書庫にいた。
カストラの掟の来歴を調べるつもりで、埃をかぶった書架のあいだを、燭台の火を頼りに歩く。羊皮紙の匂いが、鼻の奥に届いた。
ふと、一冊の古い綴りが、灯の指に触れた。
開いた頁に、色あせた挿絵と、かすれた文字が並んでいた。
――昔、傷の深さを視分ける神官が、いた。
灯は、燭台を近づけた。文字は、こう続いていた。人の痛みを、段として読み取り、その深さに応じて、支えを分けた、と。深い傷には長く、浅い傷にはそれなりに。痛みを一つの物差しで測り、公平に手を差し伸べた、名も知れぬ神官の話。
その頁の下端に、あとから書き足したような、細い一行があった。
――この頃より、地の石は、物言わぬものとなれり。
どこかで、似た言い回しを読んだ気がした。けれど、思い出せなかった。灯は少しだけ首をかしげて、燭台を近づけ直した。
そして、その頁のわきに――一枚の、絵があった。
古い石像を描いた、素朴な線画。祈るように手を組んだ、女神とも人ともつかぬ像。その頬に、一筋。
涙を、流しかけている。
頬のなかばで、止まったまま。石の頬に、その一粒が、じっと留まっている。
像の足元には、小さく、もうひとつ影が描かれていた。片膝をついた、人型の巨人。砦の広場に立つ、あの姿と同じだった。
灯は、その絵から、目を離せなくなった。
祈る像は、たいてい目を閉じている。けれどこの像だけは、目を開けていた。
なぜだろう。ただの古い挿絵だ。それなのに――灯は、なぜか胸が騒いだ。
燭台の火が、ゆらりと揺れた。灯は、綴りをそっと閉じて、書架に戻した。
◇
「治ったかどうか。それだけが、線引きですよ」
翌朝、療養所の管理人は、帳面から顔も上げずに、そう言い放った。
「傷がふさがれば、加護は終わり。それが決まりだ。いちいち、残った傷の重さなんぞ量っていたら、きりがない」
「では」灯は、静かに問うた。「腕を失って仕事に戻れない人と、指を一本失っただけの人とを、同じ日に、同じように、支えを打ち切るのでございますか」
「同じですよ。どちらも、治ったんだから」
「亡くなった方の、残された妻子は」
「それは……気の毒だが、うちの管轄じゃない」
灯は、燭台の火で読んだ、あの綴りを思い出していた。傷の深さを、段として視分けた神官。
「管理人さん」灯は、一歩、前に出た。「治ったかどうかは、始まりの線でしかございません。ほんとうに測るべきなのは――治ったあとに、どれだけのものが、その人に残ったか、でございます」
管理人が、ようやく顔を上げた。
「残った傷の重さは、人それぞれ違います。重さが違うのなら、支えの形も、変えなければなりません。同じ一本の線で断ち切ってしまうことこそ、いちばん不公平なのでございます」
◇
「まず、残った傷への支えのことを、お話しさせてください」
灯は、療養所の広間に、ロルフや、動ける患者たち、そして管理人を集めた。土間に膝をつき、小枝を拾って、床に階段のような線を引きはじめる。前世で、幾百枚と等級表を見てきた手が、自然に動いた。
「傷が治ったあと、体に残ってしまった障害。その重さを、まず、段で表すんです。いちばん重いものから、いちばん軽いものまで」
灯は、階段の段を、上から下へ、指でなぞった。
「重い側の段――一級から七級までにあたる人には、年金として、毎年、続けて支えを届けます。一度きりではなく、暮らしが続くかぎり、ずっと」
「ずっと……?」ロルフが、かすれた声で言った。
「ええ。重い障害ほど、その人の暮らしは長く傾いたままですから。長く支え続ける形になっているんです。――そして、そこより軽い側の段。八級から十四級にあたる人には、一時金として、まとめて渡します」
「打ち切りとは、違うのか」
「違います。打ち切りは、ただ手を離すこと。一時金は、これからの暮らしの支度にと、まとまった支えを手渡すこと。段の重さに応じて、年金か、一時金か。形は変えても、手は離しません」
灯は、ロルフのほうを、まっすぐ見た。
「それに、その支えとは別に、障害を負ったこと自体への見舞いとして、もう一つ、まとまった支給も添えられます。傷を負った、その痛みそのものを、見過ごさないために」
ロルフの、垂れた右袖が、かすかに揺れた。
「……俺の腕は」彼は、ぽつりと言った。「勘定じゃ、測れねえと、思ってた」
「測れません」灯は、うなずいた。「腕の重さは、お金では、測れません。……でも、暮らしの傾きは、支えることができます。それだけは、できるんです」
■前の話の一問一答・答え合わせ
【問】業務災害による休業補償給付は、労働することができないために賃金を受けない日の第1日目から支給される。(◯か✕か)
【答】✕ 休業補償給付は、賃金を受けない日の第4日目から支給される(労災保険法14条1項)。最初の3日間(待期期間)は、業務災害の場合、使用者が労基法76条により休業補償を行う。
※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。




