第十一話 万一は、独りで背負わない(二)
「まず、線を引きます」
灯は、床に落ちていた石の欠片を拾い、記録庫の石床に、まっすぐな一本の線を引いた。
「仕事中の傷か。通う道の傷か。……このふたつは、支え方が少しだけ違うんです。でも、どちらも支えられる。まず、仕事中の傷から」
「ダンの、脚だな」ガウェインが言った。
「はい。仕事中の傷――これを見分けるには、ふたつの物差しがあります。ひとつめ。その人が、雇い主の指図や管理のもとで働いていたか。ダンさんは、親方に言われて壁の上に立っていました。これは、間違いなく管理のもとです」
「ああ。俺の勝手で、上ったんじゃねえ」ダンが、つぶやいた。
「ふたつめ。その傷が、その仕事のせいで起きたか。足場が崩れて、石が落ちてきました。石を積む仕事そのものが、その怪我を招きました。――このふたつが、どちらもそろって、はじめて『仕事中の傷』と認められるんです」
灯は、ダンの目を、まっすぐに見た。
「ダンさん。あなたの傷は、そのふたつを、どちらも満たしています。運ではありません。仕事のせいです。だから――あなたは、支えられていい人だったんです」
ダンの喉が、ごくりと動いた。
「次は」灯は、床の線の、もう一方を指した。「通う道の傷。団長さんの、荷運びの方のことです」
「その線が、俺にはわからんかった」
「わかりにくいんです。だから、決めごとがあります。――住まいと、働く場所とのあいだを、無理のない道すじと、無理のない手立てで行き来している間。そのあいだの傷が、通う道の傷として支えられます」
「無理のない道すじ……崖崩れの道は、それに当たるのか」
「毎日、砦へ通うための道だったんですよね。まっすぐ砦へ向かう、いつもの道。なら、当たります」灯は、うなずいた。「同じ砦のために働く者を、通う道の途中というだけで見捨てる線は――間違っているんです」
ガウェインが、大きく息を吐いた。安堵とも、悔しさともつかない吐息だった。
「ただし」灯は、指を一本立てた。「この道すじには、決めごとがあります。もし途中で、寄り道をして、道を大きく外れたら――たとえば、遠くの酒場で一杯ひっかけて帰るとか。その外れているあいだと、そのあとの道のりは、支えの外になります」
「厳しいな」
「でも、ちゃんと、暮らしに配慮もあるんです」灯は、少しだけ声をやわらげた。「たとえば、家に帰る途中で、その日の夕餉のために、市場でパンを買う。そういう、暮らしに欠かせない、ちょっとした用事なら――その用を済ませて、また元の道に戻れば、そこからはまた、支えの中に戻れるんです」
「買い物くらいは、許されるのか」
「暮らしていれば、寄り道のひとつもします。線は引きますけれど、人の暮らしを、締め上げるための線ではありません。……そういう、あたたかい線なんです」
ガウェインは、しばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「……よく、できておるな。誰かが、ずいぶん考えて、引いた線だ」
「はい。倒れた人たちの痛みを、二度と繰り返さないために、生き残った人たちが、少しずつ、引いてきた線です」
◇
「では、支えられると、何が、どう届くのか」
灯は、床の線の下に、三つの印をつけた。
「ひとつめ。治療そのものは、傷が治りきるまで、自分の負担なしで受けられます。薬礼も、手当ても、いりません」
「……いら、ない?」ダンの声が、かすれた。「薬礼が、いらないのか」
「はい。仕事の傷なら、薬礼も、手当ても、いりません。仕事の傷の治療で、お金の心配をさせない。それが、いちばんの土台です」
灯は、二つめの印を指した。
「ふたつめ。働けなかったあいだの、暮らしのお金です。休んで四日目からは、ふだんの稼ぎのおよそ六割が、支えとして出ます」
「六割……」
「それに、上乗せのお金がおよそ二割、足されます。合わせて、およそ八割。休んでいても、暮らしの大半は、支えられるんです」
「四日目から、と言ったな」ガウェインが、鋭く問うた。「では、はじめの三日は」
「いい問いです」灯は、うなずいた。「はじめの三日ぶんは、仕事中の傷なら、雇い主が、みずから償う決まりです。だから、一日目から、誰も見捨てられません」
ダンは、両手で顔を覆った。がっしりした肩が、震えていた。
「……俺は」絞り出すような声だった。「俺は、ずっと、自分が悪いんだと思ってた。運が悪かった、俺の落ち度だと。……女房に、あんなに働かせて、それも、俺のせいだと」
「ダンさん」
「なあ」ダンは、顔を上げた。目が、真っ赤だった。「俺の傷は……俺の、せいじゃ、なかったんだな」
灯の目の奥が、熱くなった。けれど、ここで泣いてはいけない。灯は、爪が食い込むほど手を握り、できるかぎり、あたたかい声で言った。
「はい。あなたのせいでは、ありませんでした。……ずっと、独りで背負わせて、ごめんなさい」
◇
「だが、その金は、どこから湧く」
砦の長が、まだ食い下がった。「支えるだの、届けるだの――結局、誰かが金を出すのだろう。まさか、その金を、傷ついた者から取るのではあるまいな」
「いいえ」灯は、きっぱりと首を振った。「その備えのお金は――働かせる側が、出すのでございます」
「働かせる、側……?」
「はい。人を雇って、働かせて、その仕事で稼ぐ人。その人が、備えのお金を、全額、負担するのでございます。働く人は、一枚の銅貨も出しません」
「なぜ、雇う側が!」
「危うい仕事を、頼んでいるのは、雇う側だからでございます」灯の声は、静かだが、揺るがなかった。「壁の上に立てと言ったのは、親方でございます。危険を引き受けさせるなら、その万一の備えも、頼んだ側が持つ。それが、筋というものでございます」
灯は、砦の長を、まっすぐ見た。
「そして――たったひとりでも、人を雇って働かせるなら、その備えは、必ず入らなければなりません。大きな砦だけの話ではございません。ひとりの職人を雇う、小さな工房でも、同じでございます。人を雇うということは、その人の万一まで、引き受けるということなのでございます」
砦の長は、何か言い返そうとして、口をつぐんだ。そのとき、ガウェインが、一歩、前に出た。
「砦の長よ」
地の底から響くような、重い声だった。
「俺の剣は、エルデンで、いちばん強いと言われる。だがな。……崖から落ちてくる石からは、俺は、誰ひとり守れんのだ。剣では、断てん。斬れん。防げん」
ガウェインは、床に引かれた白い線を、見下ろした。
「だが――この仕組みなら、守れる。俺の剣が届かんところで倒れた者を、この備えが、抱き起こす。……俺は、これに賭ける。長よ、あんたも、腹を決めろ」
砦の長は、太い腕を組んだまま、長いあいだ、床の線を見つめていた。
◇
満月が、砦の胸壁の上に、まるく昇った。
その夜、灯は白い神官の衣に着替え、砦の広場に立った。動かぬ石の巨人の、その足元に。集まった民が、松明の灯りの中で、息を詰めて見上げている。ダンも、女房に肩を借りて、そこにいた。ガウェインが、そのかたわらに、腕を組んで立っていた。
灯は、旅人の姿でこの国の傷を見てきた。壁ぎわの人々。ダンの脚。名前だけが続く名簿。――ひとつの言葉が、一年、この国を縛る。その重さに、灯の指は、かすかに震えた。
けれど、ダンの、赤く潤んだ目を見た瞬間、震えは、止まった。
「――女神のお告げを、授けます」
広場が、しんと静まった。
「仕事で傷ついた者を、独りで背負わせてはならない。備えの金は、働かせる側が出しなさい。ひとりでも人を雇うなら、必ず、その備えに入りなさい」
光の文字が、満月の下に、ゆっくりと浮かび上がっていく。
「通う道の傷も、働くことの一部として、支えなさい。治療のお代は、治るまで、負わせてはならない。休んだあいだの暮らしも、必ず、届けなさい」
ざわめく民に、灯は、最後に、こう続けた。
「――万一は、誰の身にも、訪れます。あなたにも、わたくしにも。だから、独りで抱えるのではなく、みんなで、備えるのでございます」
光の文字が、砦の夜空に、しずかに刻まれた。
◇
数日後。
旅人のなりに戻った灯が、ふたたびカストラの門をくぐると、街は、変わっていた。
石切り場の隅で、ダンが、寝台に身を横たえていた。けれど、その顔から、あの張りつめた影は消えていた。
「旅の人!」ダンが、手を挙げた。「聞いてくれ。薬礼を、気にしなくてよくなった。……女房が、朝から晩まで働かなくても、暮らしていける。俺は、ただ、脚を治すことだけ、考えてりゃいい。……こんなことが、あるんだな」
その脇では、あの荷運びが、包帯を巻いた腕で、書付に印を押していた。通う道の傷も、届け出れば支えられる。そう知って、駆けつけたのだという。
そして――壁ぎわの、あの根方。
杖をついて座っていた人々が、ひとり、またひとりと、立ち上がっていた。傷を隠し、痛みをのみ込んで、そこが自分の居場所だと諦めていた人たち。彼らが、次々と砦の窓口へ向かい、「わたしも」「俺も」と、声をあげはじめていた。日の当たらない壁の際に座る人が、目に見えて、減っていく。
灯の目に、じんわりと、涙がにじんだ。もう、堪えなくていい。ここには、守れた未来が、立ち上がっている。
◇
夕日が、砦の胸壁を、赤く染めていた。
灯とガウェインは、並んで、街道の彼方を見渡していた。石壁の国が、夕陽の中で、あたたかい色に燃えている。
「旅の御仁」ガウェインが、口を開いた。「俺は、剣ひとすじで生きてきた。強さとは、斬ることだと信じてきた。……だが、あんたは、剣の届かんところで倒れる者を、掬い上げてみせた」
彼は、灯のほうを見て、あの陣の夜と同じ、はっきりとした笑みを浮かべた。
「剣では守れんものを、あんたは、守る。……たいした、神官どのだ」
「わたくしひとりでは、何も」灯は、首を振った。「団長さんが、あの長に、腹を決めさせてくださいましたから」
「なに。俺は、賭けただけよ」ガウェインは、豪快に笑った。「そして、賭けには、勝った」
灯は、笑って、それから、ふと、広場の隅へ目をやった。
動かぬ石の巨人が、夕日を浴びて、片膝をついたまま、黙って、そこにいる。名簿に挟まれていた、あの図面。連なる名前の、その先。――砦の誰に尋ねても、それがなぜそこにいるのか、答えてくれる者は、いなかった。
(……なぜだろう。やっぱり、胸が、ざわざわする)
灯は、その静けさに、そっと一礼した。理由は、まだ、わからない。
それから灯は、広場の隅に腰を下ろし、鞄から紙と筆を取り出した。膝の上で、紙を広げる。
三つの町に一度は書くと、自分で決めていた。決めたのは自分なのに、前に書いたのがどの町だったか、思い出すのに少しかかった。
『ミラへ。石壁の砦の国におります。ここでは、傷を負った人を皆で支える備えを立てました。ひとりでも人を雇うなら、必ずその備えに入ること。……そう授けました』
『ひとつ、お尋ねしたいことがあります。この砦の古い名簿に、石の巨人の図面が挟まっておりました。あれを誰が造り、誰が止めたのか、砦の誰も知りません。……どこかの帳面に、あれを造った勘定は残っていないでしょうか。石を積む人が要り、飯が要り、賃金が要ったはずです。人が動けば、必ず、どこかに数が立つはずです』
書いてから、灯は少し迷った。数字のことを尋ねるには、ずいぶん頼りない書き方だ。それでも、そのまま折り畳んだ。
『追伸。あなたの言ったとおり、数字は人の暮らしでした。ここでは、それが、脚を一本ぶん、ちゃんと支えました』
働く場所には、必ず、危うさが潜んでいる。石は落ちる。足場は崩れる。道は、崩れる。それを、個人の「運」に押しつけず、みんなの備えで受け止める。誰も、傷を独りで背負わない国へ。
(万一は、誰の身にも訪れる。だから、皆で備える)
大陸に、また一つ、灯がともった。
広場の石の巨人は、今日も、黙って、そこにいる。その理由を教えてくれる者は、まだ、どこにもいない。
■今回のオーダー
仕事中の傷か、通う道の傷か。仕事中の傷は「雇い主の管理のもとで」「その仕事のせいで」の二つがそろえば認められます。通う道の傷は、住まいと働く場所を無理のない道すじで行き来する間。大きく寄り道をした間とその後は外れるけれど、暮らしに欠かせない用事なら、道に戻ればまた支えられます。
届く支えは三つ。治療は、治るまで自分の負担なし(通う道の傷だけ、はじめにわずかな自己負担があります)。休んだ間の暮らしは、四日目からふだんの稼ぎのおよそ六割、上乗せと合わせておよそ八割。はじめの三日は、仕事中の傷なら雇い主が償います。
備えのお金は、全額、働かせる側の負担。たったひとりでも人を雇うなら、その備えに必ず入ること。人を雇うとは、その人の万一まで引き受けること。だから、独りで背負わせないの。
◇
■今回の学び(社労士試験対策)
・業務災害: 業務遂行性(事業主の支配・管理下)+業務起因性(業務が原因)の両方で判断。負傷・疾病・障害・死亡が対象。保険料は全額事業主負担、労働者を1人でも雇えば原則として強制適用。
・通勤災害(労災保険法7条): 住居と就業場所の間の合理的な経路・方法による移動。逸脱・中断中とその後は対象外(日常生活上必要な行為でやむを得ないものは経路復帰後は対象)。通勤災害の療養給付には一部負担金あり(業務災害にはない)。
・給付: 療養(補償)等給付=治ゆまで自己負担なし/休業(補償)等給付=休業4日目から給付基礎日額の60%+特別支給金20%=計約8割/待期3日は業務災害なら事業主が休業補償(労基法76条)。
◇
■一問一答(社労士試験の頻出論点から)
【問】業務災害による休業補償給付は、労働することができないために賃金を受けない日の第1日目から支給される。(◯か✕か)
(答えは、次の話の一回めの後書きで)
◇
次回予告:第十二話「治った日で、終わらせない」――片腕を失った鍛冶師と、遺された家族の話。




