第十一話 万一は、独りで背負わない(一)
石の匂いのする国だった。
暦の都を越えて、春野灯がたどり着いた砦の国カストラは、見上げるほどの石壁にぐるりと囲まれていた。城門をくぐると、鑿の音、鎚の音、鉄を打つ火花の匂い。石を切り、武具を鍛える、いかにも頑丈そうな国だ。
(すごい……全部、石でできてる)
旅人のフードの下で、灯は目を輝かせた。前世で言うところの、堅牢そのものの街並み。ここで働く人たちは、さぞ誇り高いだろう――と、そこまで思って、灯の足がとまった。
石壁の際に、人が座っていた。ひとりではない。杖をついた男。片脚を布で巻いた老人。腕を吊った若者。日の当たらない壁の根方に、彼らはぽつり、ぽつりと、うつむいて並んでいた。まるで、そこが自分たちの居場所だと決められているみたいに。
そして、広場の隅に――それはいた。
巨大な、石の巨人だった。人の背丈の三倍はあるそれが、片膝をついたまま、動きを止めている。苔がむし、蔦が巻きつき、気の遠くなるほど昔から、そうしているのだとひと目でわかった。目のあたりの窪みに、灯はなぜか、じっと見つめられているような心地がした。
胸にも、掌ほどの窪みがあった。縁だけが滑らかに磨かれていて、中は、からっぽだった。
(……なんだろう。胸のあたりが、ざわざわする)
理由は、わからなかった。灯は、その静けさから目をそらすように、壁ぎわの人々のほうへ歩き出した。
◇
石切り場は、砦の外れにあった。
白い石の粉が、霧のように立ちこめている。その一角で、ひとりの男が地面に座り込み、細い鑿を握っていた。三十半ばだろうか。がっしりした肩をしているのに、投げ出した右脚が、不自然な角度に曲がっている。
「――こんにちは。ここで、働いておられるのですか」
灯が声をかけると、男は顔を上げ、力なく笑った。
「ダンだ。石工の、成れの果てさ」
「成れの果て、なんて」
「脚が、この様だからな」ダンは曲がった脚を、こつん、と鑿の柄で叩いた。「先の春だ。足場が崩れてな。落ちた石が、脚を潰しちまった」
「足場が……それは、仕事の最中に?」
「ああ。親方に言われて、壁の上で石を積んでたときだ」
灯の眉が、きゅっと寄った。
「では、その怪我の手当ては、どうなったのですか。お薬や、治療のお代は」
「どうもこうも」ダンは肩をすくめた。「薬礼は、俺の持ち出しさ。女房が、朝から晩まで洗い物をして、稼いでくれてる。働けなかったひと月ぶんの稼ぎも……まあ、消えたな。当たり前のことだ」
「当たり前?」
「運が悪かっただけだ」ダンは、ごく静かに、そう言った。「あの日、あの足場に、俺が上がっちまった。それだけのことさ。誰を恨む話でもねえ」
灯は、言葉を失った。
(この人は……自分で、自分に言い聞かせてる)
仕事で傷ついた。仕事のために、親方の指図で、壁の上に立った。なのに、痛みも、失った稼ぎも、薬礼も、全部ひとりで背負って、それを「運」の一言でのみ込もうとしている。
前世で、何度も見た顔だった。労災の相談に来て、それでも「自分が不注意だったから」と繰り返す人。会社は悪くない、自分が悪いのだと、痛む体で頭を下げる人。
灯の胸の奥で、静かな怒りが、ふつりと熱を持った。それは、ダンにではない。ダンにそう思わせている、この国の「当たり前」に対する怒りだった。
「……ダンさん」灯は、膝をついて、彼と目線を合わせた。「それは、運ではありません」
ダンが、まばたきをした。
「あなたの傷は、あなたのせいではありません。……それを、これから、証してみせます」
◇
砦の門まで戻ると、見覚えのある大きな背中が、そこにあった。
磨き上げた鎧。広い肩。腰に佩いた長剣。その背中に、灯は駆け寄っていた。
「団長さん――!」
振り返った男の顔を見て、灯の胸が、じん、と熱くなった。騎士団長ガウェイン。かつて、目の下に墨のようなくまを刻んでいた男。だが今、その顔からくまは消え、肌には血の気がめぐり、瞳には獅子のような光が戻っていた。よく眠り、よく休んだ最強の男の、堂々たる立ち姿だった。
「おお、旅の御仁」ガウェインは、灯のフードの奥をのぞき込み、破顔した。「来たか。先に着いて、もう十日になる。待っておったぞ」
「お待たせいたしました。途中の村で、足を止めてしまいまして」
「よい。来ると言うたのだから、来ると思うておった」ガウェインは、灯の旅塵にまみれた肩を、ぽん、と叩いた。「息災か」
「はい。団長さんも、お元気そうで……ほんとうに、ようございました」
あの日の、剣が持ち上がらなかった兵たちの陣。それを思えば、この健やかな姿は奇跡のようだった。だが、ガウェインの表情は、すぐにまた曇った。
「元気、と言いたいところだがな。……言うたとおりだ。頭を抱えて、待っておった」
「頭を?」
「この砦は、エルデンの北の守りでもあってな。ここの壁が崩れれば、次に焼かれるのは王都の城下だ。それで陛下が、壁の工事を見てこいと仰せられた。……だが、来てみれば、崩れておるのは壁ではなかった」
ガウェインは、砦の外へ続く街道のほうへ、顎をしゃくった。
「砦の荷を運ぶ者がおる。砦へ通う道の途中、崖崩れに巻き込まれて、大怪我をした。腕のいい、真面目な男だ。……だが、砦はこう言うのだ。『仕事中ではないから、知らぬ』とな」
「通う、道の途中で……」
「同じ砦のために働く者だぞ。片や、壁の上で潰れた石工。片や、通う道で崖に潰された荷運び。どこが違う? 俺には、線の引きようがわからん」ガウェインは、太い拳を、石壁に押し当てた。「守りの網に、穴が空いておる。俺の剣は、敵は斬れる。だが……落ちてくる石からは、誰も守れん。それが、悔しくてな」
ガウェインは、下唇を一度噛んだ。噛んでから、守れん、と、最後の一語だけをもう一度、口の中で転がした。ずいぶん長いこと、そうしてきた人の言い方だった。
灯は、この武の男の横顔を、じっと見上げた。剣で守れないものの前で、これほど真剣に苦しめる人が、どれだけいるだろう。
「団長さん。……その線は、ちゃんと、引けるのでございます」
「なに?」
「引き方が、ございます。仕事中の傷と、通う道の傷。どちらも、独りで背負わせないための、線の引き方が」
ガウェインの目が、見開かれた。それは、あの陣の夜、「休ませないから、負ける」と告げたときと同じ、まっすぐな目だった。
「……聞こう。だが、その前に」
ガウェインは、少しだけ身をかがめ、声を落とした。妙に、あらたまった顔だった。
「ひとつ、確かめたいことがある。兵たちの噂でな。……御仁は毎晩、女神に向かって、その日の戦況を報告しておられるとか。『女神への軍議報告』を欠かさぬ、実に敬虔なお方だと」
灯の背中を、つうっと、冷たい汗が伝った。
(軍議報告。……月報のこと)
旅先の夜、灯は今も欠かさず、星空に向かって正座し、女神に一日の業務を報告している。近ごろはそれが月ごとの様式にまとまり、我ながら立派な「月報」になってきた――のだが、それが、こんなふうに伝わっているとは。
「軍議、というほど、大層なものでは……」
「謙遜なさるな」ガウェインは、真剣そのものの顔で、深くうなずいた。「務めを、天に報告する。武人にも通じる心構えだ。俺は、感服した」
(訂正、できない。この目で、まっすぐ感服されたら、もう、訂正できない)
「……恐れ、入ります」
灯は、凛とした神官の顔を必死につくろい、頭を下げた。頬の内側を、汗がもう一筋、伝い落ちた。
◇
砦の記録庫は、石壁の奥の、ひんやりとした部屋だった。
ガウェインが、埃をかぶった一冊の分厚い名簿を、灯の前に開いた。古い、革表紙の帳面だ。表紙の角に、綴じ穴が三つ。上から順に、同じ間の空け方だった。
「働けなくなった者を、砦はここに記してきたそうだ」
灯は、頁をめくった。名前が、並んでいた。びっしりと。脚を折った者。腕を失った者。目を潰した者。頁をめくってもめくっても、名前は続いていく。そして、その名の先に何があったのか――どこへ行ったのか、どうなったのかは、どこにも、一字も、書かれていなかった。
最後の頁を開いたとき、灯の指が、止まった。
名簿のいちばん後ろに、一枚の古い図面が、挟まれていた。線で描かれた、巨大な人型。腕の関節。脚の構造。石の巨人の――設計図だった。
(……あの、広場の石の巨人)
図面の隅に、小さく、塔の見取りが添えてあった。人型の胸の窪みへ、細い線が一本、その塔から引かれている。線のわきに、灯の知らない字が三つ。神殿の古い書物でも、見たことのない形だった。
地の線の下にも、同じ塔が、上下を返してもう一本描かれていた。
灯は、それ以上、何も言えなかった。ガウェインも、口を開かなかった。名前の連なりと、石の巨人の図面。そのふたつが、静かに、何かを語りかけてくる。けれど、それが何なのか、灯にはわからなかった。ただ、胸の奥が、しんと冷えた。
ふたりは、長いあいだ、その名簿の前で黙っていた。
◇
その日の夕刻、ガウェインに呼ばれて、砦の長が記録庫へ下りてきた。石切り場のダンも、同じく呼ばれて、戸口の脇の壁にもたれていた。
「備えは、各自でやれ」
砦の長は、太った腹の前で腕を組み、そう言い放った。
「傷ついた者を、いちいち砦が面倒みていられるか。運が悪かった者は、運が悪かったのだ。金を残しておかなんだ、そいつの落ち度よ」
「――独りぶんの備えでは、足りません」
灯は、静かに前へ出た。
「働く人がひとりで蓄えられるお金など、たかが知れております。大怪我をすれば、たちまち底をつきます。……けれど、みんなで少しずつ出し合っておけば、誰かが倒れたとき、その人を、支えられます。ひとりの万一を、みんなの備えで受け止めるのでございます」
「みんなで、だと。誰が、そんな金を出す」
「それを、これからお話しいたします」
灯は、ガウェインを、そして戸口のダンを、振り返った。
「お聞きください。傷を、独りで背負わなくてよくなる、その仕組みを」
■前の話の一問一答・答え合わせ
【問】特別条項付きの時間外・休日労働協定を締結した場合であっても、時間外労働と休日労働の合計時間は、1か月について100時間未満でなければならない。(◯か✕か)
【答】◯ 協定の定めにかかわらず、時間外労働と休日労働の合計は1か月100時間未満、2〜6か月の平均で80時間以内としなければならない(労基法36条6項2号・3号)。特別条項でもこの線は超えられない。なお、新たな技術・商品等の研究開発の業務(同条11項)と、自動車運転の業務・災害時の復旧復興の建設事業・医師(附則139条〜141条)には、この2号・3号の上限は適用されない。
※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。




