第十話 眠らずの塔(二)
灯は、暦の隅に、砂時計を描いた。
「決められた期間の総枠――たとえば一月のあいだに、これだけ働く、という総量だけを先に決めます。その総枠の中でなら、始まりと終わりの刻を、働く人が自分で選べます。朝早く来て早く帰る日も、遅く来て遅くまで書く日も、暮らしに合わせて組み立てられます」
ノエルが、はっと顔を上げた。
「そんなことが……許されるんですか。私が、決めて」
「はい。ただし、皆が必ず机に揃っている刻を、真ん中にひとつ置きます。写しを渡し合ったり、相談したりする、その刻だけは全員で。あとの始まりと終わりは、あなたが選びます。――暮らしのほうに、時間を寄せるんです」
ノエルのインクだらけの指が、砂時計の絵を、そっとなぞった。生まれて初めて、自分の一日を自分の手で組めるのだと知った者の、こわごわとした、けれど確かな指だった。
◇
「では」都の長が、腕を組んで言った。「忙しい月に、いくらでも山を高くしてよいのか。祭りの月は、際限なく」
「いいえ」
灯の声が、はっきりと沈んだ。
「形は、選べます。けれど――越えてはならない線だけは、どんな形でも動きません」
灯は、暦の山の、いちばん高いところに、赤い一本の横線を引いた。
「そもそも、決めた上限を超えて働かせるには、順番がございます。使う側とはたらく側とで、まず取り決めを交わし、それを"届け出る"のが先でございます。何も交わさぬまま、忙しいからと超えて働かせることは、できません」
「取り決めさえすれば、いくらでも――」
「いいえ」灯は、赤い線を指で押さえた。「取り決めても、なお越えられない、絶対の線がございます。時間外は、原則、ひと月で四十五時間、一年で三百六十時間まで。……どんなに特別な事情があっても、この線だけは、越えられません。取り決めをもってしても、越えてはならない、最後の一線でございます」
都の長は、その赤い線を、じっと見ていた。
「形は選べても、限度は動かない、か」
「はい。波に合わせて山を作るのは、暮らしを楽にするためでございます。……けれど、山を、天まで積んではなりません。そこには、越えた者の跡が――あの塔が、ございます」
長は、長い息を吐いた。白い髭が、かすかに揺れた。
「……妙なことを言う娘だ」老人は、赤い線から目を離さぬまま言った。「だが、あの塔を毎日見て育った身には、不思議と、腑に落ちる」
◇
満月の夜。
都の人々が、眠らずの塔の前に集った。ロディがいた。ノエルがいた。都の長も、腕を組んで立っていた。灯は、荷の底から出した白い衣をまとい、塔を背に、静かに前へ進んだ。
自分の一言が、この土地を一年、縛る。誤れば、誰も逆らえない。旅の初めから、その重さは少しも軽くなっていない。けれど灯は、もう震えていなかった。幾つもの土地で、幾つもの掟を授けてきた。掟は檻ではない。暮らしの波に、寄り添うための道具だ。そのことを、灯は、この手で確かめてきた。
塔の崩れた輪郭が、月にほの白く浮かんでいる。灯は、ひとつ大きく息を吸った。
そのとき、足の裏に、ほのかな温みがあった。崩れた塔の根の石だ。夜露に濡れた石が、温いはずもないのに。灯は、気のせいだと思って、前を向いた。
「――女神のお告げを、授けます」
塔の前が、しんと静まった。
「一年の波に合わせ、働く形を、あらかじめ定めなさい。忙しい月は長く、静かな月は短く。ただし、一年を平らにならして、越えぬように。始まりと終わりの刻は、暮らしに合わせて、はたらく者に選ばせなさい」
塔の前の空に、光の文字が、ゆっくりと浮かびあがった。
「だが――上限だけは、決して越えてはならない。どんな形を選ぼうと、越えてはならない一線は、どんな形でも、同じである」
ざわめく人々に、灯は、背後の黒い塔を、静かに手で示した。
「この塔は――越えた者の、跡でございます。灯りを絶やさぬために、灯りを絶やした人たちの。……もう二度と、この形を、大陸に建ててはなりません」
誰も、口をきかなかった。月の光が、崩れた塔と、集った人々と、宙に灯った光の文字を、等しく照らしていた。
やがて、静かに散っていく人垣の中に――一瞬、見覚えのある優男の横顔が見えた気がした。まさか、こんな所に。灯が目を凝らしたときには、その横顔は、もう、どこにもいなかった。
◇
人々が去ったあと、灯はひとり、塔の下に残った。
崩れた礎石のあいだに、いつのまにか、小さな灯がひとつ、ともされていた。都の誰かが置いていったのだろう。慰霊の灯だ。名も残らぬ、あの技師たちのための。
灯は、その火の前に、そっと正座した。膝の上には、あの十枚綴りの「月報」。いつものように、女神への報告のためにひらいた紙束を、けれど灯は、閉じた。
これは、女神への報告では、ない。
「……あなたたちに、報告があります」
灯は、崩れた塔を見上げて、言った。
「遠い昔、この塔で、眠ることを禁じられた、名も知らない、たくさんの人へ。……あなたたちの手が踏み違えたのは、あなたたちのせいでは、ありませんでした。眠らせてもらえなかったから。ただ、それだけのことでした」
声が、震えた。堪えていたものが、喉の奥からせり上がってくる。
「あなたたちの痛みは――今日、掟になりました。上限を越えてはならないという、掟に。もう二度と、誰も、あなたたちのようには働かされません。あなたたちが倒れた夜が、この先の誰かの、倒れずに済む夜に、なります」
毎晩、星に向かって様式ばった報告を続けてきた。おかしな癖だと、自分でも思っていた。けれどその癖は、この夜のためにあったのかもしれない。届かない相手に、それでも語りつづけること。
「……ありがとう、ございました。あなたたちの夜を、忘れません」
こらえきれず、涙がこぼれた。慰霊の灯が、涙のむこうで、じわりと滲んだ。もう、堪えなくてよかった。ここには、守れた未来がある。名も残らぬ人たちの痛みが、たしかに、掟の形になって残った。
◇
「――こんなところにいたか、神官どの」
低い、聞き覚えのある声に、灯は振り返った。
塔の下の道を、大きな影が近づいてくる。広い肩、太い腕。かつて、たったひとりで百の兵を相手取ったという、この国でいちばん強い男。目の下の隈は、もう、跡形もない。
「団長さま……ガウェインさま!」
「知らせを聞いてな。エルデンの周りをひと巡りした、と。……最後の一条を刻む夜だと聞けば、駆けつけぬわけにはいくまい」
その後ろから、息を切らせて駆けてくる、小さな人影があった。帳簿を胸に抱えた、そばかすの少女。
「アカリ様! 間に合いました!」
「ミラさん!」
徴税官のミラは、膝に手をついて肩で息をしながら、それでも顔だけは得意げに上げた。
「王都からの道すがら、この都の帳簿を、ぜんぶ暗算してきちゃいました」ミラは、指を折ってみせた。「祭りの月の山と、冬の谷。均すと、ちゃんと一週あたりの平均が、収まる形になってます。数字って、嘘をつかないので。……この暦なら、誰も倒れません。ほんとうです」
一度見た帳簿を忘れず、膨大な数字を一瞬で突き合わせる少女の言葉ほど、確かな太鼓判はなかった。灯は、思わず微笑んだ。
「あ、それと」ミラが、周囲を見回した。「宿の主人が言ってました。この都の星見団子、絶品だって。アカリ様、まだ食べてないんですよね? 三人で――」
灯の背中を、すっと汗が伝った。
(……食べました。三本。ぜんぶ)
「……あ、あの、ミラさん。それは、次の都で」
ミラの、じとりとした目が、灯を射た。ガウェインが、こらえきれずに、豪快に笑った。
◇
その懐から、ミラが一通の手紙を取り出した。
「エルデン神殿のフィアさんから、預かってきました」
灯は、月あかりに手紙をかざした。丁寧な、少し幼い字が並んでいる。
――アカリ様。神殿はつつがなく、皆さまお変わりありません。リオさんが、時々、剣を掲げに来ます。ちゃんと持ち上がるのを、見せに。……それと、女神像の前で、正座して報告なさる作法。あれから私も、こっそり真似しております。誰にも、内緒です。
灯は、手紙を胸に抱いた。夜風が、塔の前を、やわらかく通り過ぎていく。
◇
三人は、塔を離れ、丘の上から都を見下ろした。
城壁のうえの空に、光の文字が、いくつも連なって灯っていた。これまでに授けてきた、十の掟。ひと巡りした、エルデン王国の周りの、十の約束。
一つめの文字に、灯は、剣を掲げるリオを思った。二つめには、証文の未払いに泣いた者たちを。三つめには、消えかけた組合の記録を守ろうとしたトビーを。四つめの文字に花売りのリリィを、八つめの文字に硝子職人のエルナを、九つめの文字に織り子のマーサを。そして、いちばん新しい十の文字に――冬に飢えると言った、ロディの掌を。
名前と、生活を持った人々の顔が、一つずつ、文字に重なる。誰かの痛みが、誰かの明日を守る掟に、なった。
「十条だ」ガウェインが、静かに言った。「これで、エルデンの周りは、ひと巡りしたな」
「はい」灯はうなずいた。「……でも、これで終わりでは、ございません」
灯は、ふと、旅の初めに自分に問うたことを、また思った。一年が過ぎ、お告げの力が消えたとき。掟に縛る力が消えたあとも、人々は、自分の意思で、この形を守り続けるだろうか。強いられた掟は、力が尽きれば崩れるかもしれない。ほんとうに根づくのは、民が自分から「この形がいい」と選んだ、その時だけだ。
(それでも――)
塔の前の慰霊の灯が、遠く、小さく、揺れていた。あの火を、都の誰かが、自分の意思で置いた。誰にも強いられず、名も知らぬ死者のために。その一点の火が、灯には、何よりの答えに見えた。
働き方の形は、一つではない。忙しさに合わせて、山を作り、谷を作り、暮らしのほうへ時間を寄せていい。けれど――越えてはならない線は、どんな形でも、同じ。その一線を、この大陸のどこにも、もう二度と、黒い骨として建てさせない。
「連合は、いよいよ大陸へ広がります」灯は、夜明けの気配のはじまった東の空を見た。「エルデンの外にも、越えた者の跡が――眠らずの塔が、きっと、まだいくつも、あるはずですから」
ガウェインが、剣の柄に手を置いた。ミラが、帳簿を抱え直した。
「神官どの」ガウェインが言った。「俺は、しばらく王都を離れる」
「王都を?」
「カストラ、と申す国よ」ガウェインは、丘の下を這う街道のほうへ、顎をしゃくった。「石壁でぐるりと囲うた、砦の国だ。あそこの壁の工事を、王命で見てくることになった。……石を積むのは達者な国だが、石ばかり積んで、人のほうは積んでおらんという噂がある」
灯の背を、細いものが、すっと走った。
「では、私も、そちらへ参ります」
「来るか」
「はい。……少し、遅れるかもしれませんが」
「かまわん」ガウェインは、白い歯を見せた。「先に着いて、頭を抱えて待っておるわ」
「ミラさんは」
「わたしは、王都です。巡回の報せを、まとめないといけないので」ミラは、帳面を掲げてみせた。「……でも、文をくださいね。数字で困ったら、すぐ」
「はい」灯は、うなずいた。「そのときは、真っ先に」
「それと、アカリ様。次の行き先だけ、伺っておきます」
「北へ。街道なりに、と思っています」
「どなたかに、呼ばれて?」
「いいえ。……困っている方が、いると伺ったので」
ミラは、それを小さな綴りに書き留めた。書き留めて、隣に何かを書きかけて、やめた。
灯は、旅装の襟を、もう一度、整えた。
神官としての旅は、まだ、始まったばかりだ。
■今回のオーダー
働き方の形は、ひとつじゃありません。忙しい月は長く、静かな月は短く、一年を平らにならして、平均が週四十時間に収まればいい。始まりと終わりの刻は、暮らしのほうへ寄せて、自分で選んでいいんです。ただし――形は、あらかじめ、みんなで決めておくこと。
上限を超えて働かせるには、順番があります。まず取り決めを交わして、届け出るのが先。その場の勢いで、忙しいからと超えるのは、なし。約束が先、残業はそのあと。
そして、いちばん大事なこと。取り決めをもってしても、越えられない絶対の線があります。時間外は、原則ひと月四十五時間、一年三百六十時間まで。特別な事情でも、この線だけは動かない。形は自由に選んでも、越えてはならない一線は、どんな形でも、同じだから。
◇
■今回の学び(社労士試験対策)
・変形労働時間制: 労基法32条の2(1か月単位)・32条の4(1年単位)。平均して週40時間以内に収まるよう、労使協定等で対象期間と各日・各週の所定労働時間を事前に定める(当日勝手に延長は不可)。
・フレックスタイム制(32条の3): 清算期間の総労働時間の枠内で、始業・終業時刻を労働者が決定。コアタイム等は労使協定で定める。
・36協定と上限規制(36条): 法定時間を超える労働は労使協定の締結・届出が先。時間外は原則月45時間・年360時間まで。特別条項でも超えられない絶対的上限あり(単月100時間未満・複数月平均80時間以内・年720時間以内、月45時間を超えられるのは年6回まで)。
・作中のお告げとの違い: 灯は、月45時間・年360時間を「取り決めても越えられない線」として授けています(この世界の掟は、ここでは日本の法より厳しい形です)。実際の法では、臨時の特別な事情があれば特別条項付きの協定で越えられ、その先に上の絶対的上限があります。作中では、第九十六話で灯がこの四つの数を示します。
◇
■一問一答(社労士試験の頻出論点から)
【問】特別条項付きの時間外・休日労働協定を締結した場合であっても、時間外労働と休日労働の合計時間は、1か月について100時間未満でなければならない。(◯か✕か)
(答えは、次の話の一回めの後書きで)
◇
次回予告:第十一話「万一は、独りで背負わない」――石壁の砦の国カストラで、あの騎士団長と三たび再会する。




