第十話 眠らずの塔(一)
街道の果てに、その都は星をいただいていた。
春野灯が谷の町を越えて辿り着いたのは、大陸の暦を定めるという古い都だった。夜ごと屋上にのぼり、星のめぐりと季節の兆しを読み、いつ種を蒔き、いつ刈り、いつ祭るかを、大陸じゅうの人々のために書き記す――そういう務めを、何百年も担ってきた都なのだという。
星と季節を読む都だけあって、道々で聞く言い伝えも、星のことばかりだった。星は眠りながら、地へひとしずくの血を分けている。だから種は芽吹き、泉は湧くのだと、荷馬車に相乗りした里の子が、歌うように教えてくれた。灯は、きれいな喩えだと思って聞いていた。
城門をくぐる前に、灯はいちど、旅装の襟を整えた。神官の白い衣は、いつものように荷の底へしまってある。まずは実態を見てから語る。もう、それは考えるより先に体が動く習いになっていた。
その郊外の丘の上に、黒い塔がそびえていた。
崩れかけた、ずいぶん高い塔だった。窓という窓が空洞になり、朽ちた横木が夕空へ骨のように突き出している。灯の足が、止まった。
――知っている。この塔を、知っている。
この世界に来て、ひと月がたった日。エルデンの城下から北の空の果てに見上げた、遥かな丘陵の上の黒い影。あのとき白髪の老兵は、ただ一言「灯りの、消えなかった塔でさ」とだけ言って、口をつぐんだ。あの塔のことは、よう言えません、と。
王国の周りをぐるりと巡ってきた旅路は、いつのまにか、あの日の遠い影の足元まで来ていたのだ。暦の都は、あの丘陵の裏側に抱かれた都だった。近くで見上げる塔は、想像していたよりずっと大きく、ずっと、静かだった。
「あの塔は……この都では、何と呼ばれておりますか」
通りかかった荷車の老人に問うと、老人は塔を一瞥し、それきり目をそらして、ぽつりと言った。
「眠らずの塔、でさ」
それだけ言って、老人は荷車を引いて行ってしまった。
眠らずの塔。灯りの消えなかった塔。……呼び名は土地で違っても、人々が同じ目でその影から目を逸らすことだけは、同じだった。灯は、しばらくその黒い影を見上げていた。あの日と同じ冷たさが、背筋を伝った。
◇
その夜、灯は宿の窓辺に正座し、星空に向き直った。
膝の上には、十枚を綴じた分厚い紙束がある。旅のあいだに、女神への報告はいつのまにか様式が育ち、いまや月ごとの綴りになっていた。表紙には几帳面な字で「月報」と書いてある。
「本日をもちまして、暦の都に着任いたしました。当月の巡回報告を申し上げます。第一に、羊毛の谷の賃金について。第二に、谷の加盟について。第三に――」
律儀に一枚ずつめくりながら、灯は星に向かって、その月の見聞を読み上げていく。女神は、答えない。旅の初めからずっと、ひとことも。それでも灯は、報告をやめなかった。誰かに聞いてもらうことで、自分の考えが整うのを知っていたからだ。
報告のしめくくりに、灯は、宿の主人が土産にと持たせてくれた包みをほどいた。星見団子――この都の縁起物だという、白い団子の串が、三本。夜空を映すように、艶やかに光っている。
(……ひとつだけ。味見だけ)
ひとくち食べて、灯は目を細めた。もちりとした皮に、ほのかな蜜の甘み。星を見上げながら食べるためのものだというその団子は、旅の疲れた体に、しみるようにやさしかった。
(……おいしい。この団子、女神さまにもお供えを)
そう思ったときには、串はすでに二本、空になっていた。
◇
翌朝の広場は、灯が想像したどんな祭りよりも慌ただしかった。
収穫と祭りの季節だという。麦を運ぶ者、荷を積む者、竈の前で汗を流す者。人々は朝の鐘が鳴る前から働きはじめ、夜の鐘が鳴っても手を止めなかった。活気、と言うには、その顔があまりに削げていた。
広場の隅で、ひとりの男が石段に腰を落とし、肩で息をしていた。日に灼けた、まだ若い男だ。
「……大丈夫ですか」
灯が水の革袋を差し出すと、男はのろのろと顔を上げ、掠れた声で笑った。
「すまねえ。……繁忙期だからな。倒れたって、繁忙期だから仕方ねえって、それで済まされちまう」
男はロディと名乗った。祭りのあいだは働き口があふれ、朝から夜半まで倒れるほど働く。だがそれも、この季節だけの話なのだと言った。
「祭りが終わりゃ、ぱたりと仕事がなくなる。冬のあいだは、まるっきりだ。蓄えは、春を待たずに尽きちまう。……忙しいときは死ぬほど、暇なときは飢えるほど。おかしな話だろ」
ロディは、乾いた掌を見つめた。
「どうせなら、忙しいぶんを、暇なときに分けてもらえりゃいいのにな。……そんな都合のいい話は、ねえか」
灯は、その掌を、じっと見た。前世でも、幾度となく見た手だった。繁忙期に燃え尽きるほど働かされ、閑散期には仕事を切られる。波に、人が振り回されている。
(分けられます。……その波は、あらかじめ均せる)
喉まで出かかった言葉を、灯はのみこんだ。まだ、実態のすべてを見てはいない。
◇
暦を編む書庫でも、人は同じように軋んでいた。
高い書架の谷間に、若い写字生がひとり、机に伏していた。ノエルという名の、灯より少し年下の娘だった。同僚に肩を借りて、ようやく身を起こす。
「すみません……締切が、近くて。ここ何日か、燭を消さずに書いていたので」
次の暦を刷り上げるまで、書庫は徹夜つづきになるのだという。指はインクで黒く、目の下には墨を塗ったような隈があった。
「でも、暦さえ刷り上がってしまえば」ノエルは力なく微笑んだ。「あとは、手持ち無沙汰なくらい暇なんです。毎日、同じ刻に来て、同じ刻に帰る決まりだから、忙しくても、暇でも、机に縛られていて。……どちらも、つらくて」
締切前は倒れるまで、明ければ手を持て余す。忙しさに合わせて働く形を変える、という発想が、この都にはなかった。決まりが、硬すぎるのだ。
灯は、ノエルのインクだらけの指を見ながら、静かに問うた。
「ノエルさん。もし――朝、遅く来て、そのぶん夜に長く書いていい日と。朝早く来て、日暮れ前に帰っていい日と。あなたが、その日の暮らしに合わせて選べたら。少しは、楽になりますか」
ノエルは、きょとんと灯を見返した。そんなことを問われたのが、生まれて初めて、という顔だった。
◇
灯は、眠らずの塔へ登った。
崩れた螺旋の階段を、残った手すりを頼りに、一段ずつ。塔のいちばん高い階に、風雨に晒された古い碑文があった。刻まれた文字は半ば削れていたが、灯は指でなぞりながら読んだ。
――遠い昔。大いなる崩壊の時代。
この地には、絶えず火を焚く巨きな炉の塔があった。冬を越すための熱を、都じゅうへ送る塔だったという。ある年、あるじは技師たちに命じた。炉を止めるな、と。技師たちは昼も夜も塔に詰め、火を絶やさぬために、眠ることを禁じられた。頼もしいことだと、はじめは皆が言った。
だが、幾夜も眠らずにいた技師のひとりが、ある晩、手順をひとつ、踏み違えた。
塔は暴走し、炎を噴き、崩れ落ちた。逃げ遅れた者は、数えきれなかった。眠っていなかったから、逃げる力も残っていなかったのだ。過労が、都を傾けた。その跡が、この塔だった。
碑文には、続けて、こうもあった。
――噴いたのは、火ばかりではなかった。名を持たぬものが空へ昇り、その日から、この地の石は、ただの石になった。
灯には、その一節の意味が、取れなかった。石が、ただの石でなかった時代があったとでもいうのだろうか。灯はもう一度その一行を目で追い、先へ読み進めた。
碑文の末尾は、こう結ばれていた。
――灯りを絶やさぬために、灯りを絶やした場所。ここに眠る。
灯は、その一行の前で、動けなくなった。
この世界に来て、ひと月がたった日。城下から遠くこの塔を見上げた灯に、白髪の老兵は、ただ一言だけ言って、口をつぐんだ。
――あれは、灯りの、消えなかった塔でさ。
あの塔のことは、よう言えません。ただ、これだけは言えます。働く者を眠らせなんだ場所の末路は、どこも、同じでございますよ。……あのとき灯は、その言葉と沈黙の底にあるものを、まだ知らなかった。
(……そうか)
消えなかったから、消えたのだ。
夜通し灯りを絶やさぬために、誰かが眠らずに火を守り続けた。守り続けて、そして――守った者たちごと、灯りは消えた。老兵の兄が呑まれた王都の炉場と、同じように。あの人が「よう言えません」と呑み込んだものの正体が、旅の果てのこの碑文の前で、静かにひとつにつながった。
働く者を眠らせなかった場所の跡は、こうして黒い骨を晒しながら、それでも誰にも語られずに、そこにあり続けていたのだ。
灯の目に、熱いものがこみ上げた。会ったこともない、名も残らぬ技師たちの、眠れなかった夜が、胸に迫った。けれど灯は、奥歯を噛んで、それを堪えた。まだ、泣くときではない。
◇
都の長は、白い髭をたくわえた、威厳のある老人だった。
「繁忙期は、特別なのだ」
灯が城下の実態を告げると、長は書見台から顔も上げずに、そう言い返した。
「収穫と祭りの月は、暦の都にとって一年の要。あの月ばかりは、上限だの休みだの、守れるものではない。昔からそうしてきた。それで、都は回ってきたのだ」
「……その"昔から"の果てが」灯は、静かに言った。「あの、塔ではございませんか」
長の手が、止まった。
「炉を止めるな。休むな。あの塔を建てた人も、きっと......、きっと、悪い人ではなかったのだと存じます。冬を越す熱を、都じゅうへ送りたかった。ただ――"特別だから"の一言で、越えてはならない線を、越えさせてしまった。特別を言い訳にした果てが、あの黒い骨でございます」
長は、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「……では、どうせよと言うのだ。祭りをやめよと? 忙しい月に、皆を早く帰せと? そんなことをすれば、暦は間に合わぬ。都が回らぬ」
「上限を、捨てるのではございません」
灯は、まっすぐに長を見た。
「捨てるのではなく――形を、変えるのでございます」
◇
灯が持ち込んだのは、一枚の、まっさらな大きな暦だった。
書庫の長机に広げると、暦職人たちが、何ごとかと集まってきた。星を読み、季節を刻む彼らは、一年の波を、誰よりもよく知る者たちだ。
「皆さんは、一年の暦を編む名人でございます。でしたら、暮らしの暦も、同じように編めるはずです」
灯は、収穫と祭りの月を指でなぞった。
「忙しい月は、働く刻を長めに。静かな冬の月は、短めに。――そう、あらかじめ決めておくのです。一年をぜんぶ平らにならして、一週あたりが平均で四十時間に収まっていればよいのです。均す幅は、一年とはかぎりません。ひと月ぶんで均すやり方もございまして、そちらは決めごとが軽くて済みます。忙しい山を、暇な谷で埋め合わせる。ロディさんの言った、"忙しいぶんを暇なときに分ける"を、暦にするのでございます」
職人のひとりが、身を乗り出した。
「では……祭りの月は、長く働かせてよいのか」
「先に決めた形の中で、なら。ただし」灯は、指を一本立てた。「大事なのは、"あらかじめ"でございます。その日になって、忙しいからと勝手に伸ばすのは、なりません。どの月にどれだけ働くか、山と谷を、先に皆で取り決めて、書きつけておく。決めた形を、その場の都合で破らない。――それが、この仕組みの背骨でございます」
波に合わせて、先に形を決める。職人たちが、暦の上に山と谷を描きはじめた。ロディの言った"都合のいい話"が、一年の暦の形をとって、少しずつ立ち上がっていく。
「書庫の人たちは」灯は、ノエルのほうを見た。「もうひとつ、別の形が合うかもしれません」
■前の話の一問一答・答え合わせ
【問】使用者は、労働者名簿、賃金台帳その他労働関係に関する重要な書類を5年間保存しなければならないが、当分の間は3年間保存すればよいとされている。(◯か✕か)
【答】◯ 労働者名簿・賃金台帳・雇入れ、解雇、災害補償、賃金その他労働関係に関する重要な書類の保存期間は5年であるが(労基法109条)、経過措置により当分の間は3年とされている(附則143条1項)。
※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。




