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異世界労務物語 ―女神のオーダー  作者: 月守行


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幕間 四本めの罫(二)

 九つめの行だけは、写しからではなく、自分の目で見て書いた。


 羊毛の谷。暮らせる下限。


 書いてから、筆が止まった。谷でのことは、馬車の中で三度数え直している。数え直すたびに、同じところで引っかかる。


 マーサの給金の計算は、怖くなかった。数字は覚えていたし、桁も揺れなかった。問屋の主人に凄まれたときも、足はすくまなかった。すくまなかったことに、あとから自分で驚いた。自分の町で大人の男に凄まれたときは、すくんで声も出なかったのに。あのときと今日のあいだに何があったかを数えると、出てくるのは、帳簿の山と、巡回の道と、あの人の背中だった。


 いちばん長く残っているのは、数字ではない。


 満月の広場で、その差額が掟になったとき、マーサが両手で口を覆った。朝の鐘から夕の鐘まで機を織ってきた、節の張った手だった。


 数字が人を動かすところを、ミラは何度も見てきた。青ざめる顔も、開き直る顔も。でも、口を覆う手を見たのは、はじめてだった。取られていた側の人は、取られていた額を見せられたとき、怒るより先に、口を覆うのだ。自分の三年が、そこに数字になって立っているから。


 帳場で板に差額を書いたとき、ミラの口から言葉が一つ出た。


 ――数字は、人の暮らしですから。


 言ってから、どこで覚えた言い方だろうと思った。すぐに分かった。覚えたのではない。あの人のやることを横で見ているうちに、自分の口から出る言い方になっていたのだ。言い方は、移る。


 それから、偽の署名のこと。日付が二つある契約書。筆の運びが、途中から変わっていた。あれを見抜けたのは、目がいいからではない。帳簿は、嘘をつくとき、決めた者のところから嘘をつく。誰が、いつ、決めたことにするか。嘘はいつも、そこから書き足される。国の帳簿で毎日見ている崩れ方と、同じだった。


 それから、坂道でのこと。


「ちゃん、は卒業したい」と言ったのは、半分は本当の理由で、半分はその場で作った理由だった。


 本当の半分は、町でそう呼ばれると示しがつかないこと。


 作った半分は、口に出さなかったほうだ。「ちゃん」と呼ばれているあいだは、守られる側に入っている気がした。谷で足がすくまなかったその日を境に、守る側へ移りたかった。


 あの人は「わかりました。……ミラさん」と言った。言われて頬が勝手にゆるんだのを、ミラは帳面で隠した。呼ばれ慣れるまで、少しかかりそうだった。


 引っかかっているのは、その先だ。


          ◇


 ミラは、帳面を最初の行から読み直した。


 日付は、全部埋まっている。行き先は、九つのうち七つ。用向きも、だいたい埋まっている。三つの欄は、ちゃんと働いている。


 でも、国の帳簿なら、ここにもう一本、欄がある。


 決めた者の欄だ。


 帳簿に欄を一本増やすのは、大ごとである。書く手間が一列ぶん増える。手間が増えると、書かれない欄が出る。書かれない欄のある帳簿は、そろった帳簿より、かえって質が悪い。だから寮では、欄を増やすとき、必ず老徴税長の判をもらう。


 この帳面には、判をもらう相手がいない。書くのも読むのも、ミラひとりだ。手間の心配は要らない。


 それなのに、物差しを当てた手が、少しのあいだ止まった。


 止まった理由は、自分で分かっていた。欄を引けば、埋まらないことが目に見える形になる。目に見えるものは、もう見なかったことにできない。


 それでも引くのが、帳簿を付ける者だ。


 ミラは、三つめの欄の右に物差しを当てて、縦の線をもう一本引いた。四本めの罫である。新しくできた欄のいちばん上に、名前を書いた。


  ――だれの指図か。


 そして、一行めから埋めにかかった。


 埋まらなかった。


 一行めから九行めまで、順に当たって、一つも埋まらなかった。


 神殿は、行き先を決めていない。あの人が発つ朝、神殿の人は包みを持たせて送り出すだけだ。城も決めていない。城が決めているなら判が立つ。判の押された紙を、ミラは寮で一度も見ていない。


 谷へ来たのも、誰かの指図ではなかった。証文の噂を聞いて谷へ行くと決めたのはミラで、隣にあの人が立っていたのは、あの人が先に谷へ向かっていたからだ。誰に言われて向かっていたのかは、訊かなかった。訊いても、たぶん「困っている方がいると伺いましたので」と返ってくる。それは用向きの欄の言葉であって、指図の欄の言葉ではない。


 ミラは、九つの行の四つめの欄に、小さく九つ書いた。


 不明。不明。不明。不明。不明。不明。不明。不明。不明。


 書き終えて、筆を置いた。縦に並んだ九つの「不明」を、しばらく見ていた。


 廊下で、床の鳴る音がした。


 老徴税長が、また立っていた。今度は手燭を持っていない。ミラの灯りが届くぎりぎりの所に立って、机の上の帳面を遠くから見ている。近づいてこないのは、「わたしの帳面」だと言ったのを覚えているからだ。この人は、人の帳簿を断りなくのぞかない。


「埋まらん欄か」


「はい」


「埋まらん欄は、二た通りある」老徴税長は、壁の札のほうを見て言った。「調べが足りん欄と、世の中の側に、まだ答えの無い欄だ。前のは、お前の恥だ。後ろのは、お前の恥ではない」


「後ろのでございます」


「なら、消すな」


 それだけ言って、戻っていった。


 ミラはその背中に頭を下げた。下げてから、「消すな」という言葉を、頭の中で置き直した。世の中の側にまだ答えの無い欄は、消してはいけない。埋まらないまま、目に見えるところに置いておく。そうすれば、答えが世の中に生まれた日に、いちばん先に気づける。


 もし国の帳簿で、この欄の「不明」が九つ続いたら、ミラは帳簿を抱えて老徴税長の部屋へ走る。判のない出納が九件。誰かが銭を動かしているのに、動かすと決めた者がどこにもいない。そういう帳簿は、遠からず、必ずどこかで破れる。破れたとき、誰も破れた場所を探せない。


 ためしに、ミラは帳面の隅に、自分の行を一つ書いてみた。


 日付。羊毛の谷。証文の再発の検め。だれの指図か――


 四つめの欄に、筆がすっと動いた。


 自分。


 誰に言われたのでもない。噂を聞いて、行くと決めて、志願の紙を書いて、判をもらった。決めた者の欄に自分の名前を書ける人は、行った先のことを、自分の荷物として持って帰れる。持って帰った荷物の重さのぶんだけ、足がすくまなくなる。


 その隣の頁に、自分の名前を書けない人が、九行いる。


 銭の話ではない。でも、帳簿の形は同じだ。


 ひとりの人が、満月ごとに動いている。動くと決めた者の欄が、九つとも空いている。指図する人がいない人には、止める人もいない。行き先を決める人がいない人には、休ませる人もいない。


 壁の札は、七日にいちどは休めと言っている。その札の言葉を授けた当の人の帳面に、休ませる人の判が、一つも無い。


          ◇


 ミラは、手紙を書くことにした。


 近況から書いた。国の帳簿の組み直しが、三つ終わったこと。谷からの帰りの馬車が混んでいて、羊毛の包みを枕に眠ったら、二日たっても袖が羊のにおいであること。寮の食堂の芋が、このごろ少し大きいこと。厨房に理由を訊いたら、芋を納める農家が代替わりして、秤が新しくなったからだと分かったこと。秤が正しくなると、芋まで育ちがよく見えるものだということ。


 それから、本題を書いた。


  ――今度は、どこへ行くのですか。それは、誰が決めるのですか。


 書いて、読み直して、その二行に線を引いて消した。


 返事の書かれ方が、見えたからだ。この問いを送れば、あの人はまじめに考えて、まじめに返事を書いてくる。書くために、夜、机に向かう。ただでさえ夜の短い人に、夜をもう一つ渡すことになる。


 それに、とミラは思った。この問いの答えを書かせたいのではない。答えが無いことなら、もう罫が知っている。


 訊きたいことは、罫のほうに置いておく。


 手紙は近況だけにして、終わりに一行だけ足した。


  ――お体、ご自愛を。


 封をして、明日の便の箱に入れた。


 あの人の返事は、来るときと来ないときがある。来るときは、遅れたことへのお詫びから始まり、こちらの近況への返しが一つずつ律儀に並んで、終わりに必ず、ミラの寝る時刻を心配する一行が付く。自分の寝る時刻のことは、一度も書いてこない。書いてこないことは、たぶん、書けないことだ。


 その返事の型も、いつか罫にしようかと思って、やめた。罫にしないでおくものも、少しは要る。


          ◇


 灯りを消す前に、ミラはもう一度だけ帳面をひらいた。


 四本めの罫の欄は、まだ一つも埋まっていない。ミラは、この欄が埋まる日のことを考えた。神殿の判が押される日だろうか。城の判が押される日だろうか。どちらでもない気がした。どちらの判が押されても、あの人を動かす主が代わるだけだ。


 帳面の行は、これからも増える。満月は毎月来る。目次のような九行の下に、十行め、二十行めが足されていく。どこまで増えるのかは分からない。けれど、増えた行がいつか一冊になり、その一冊がいつか誰かの役に立つ日のことは、なんとなく見える。帳簿とは、そういうものだ。付けている本人が使い道を知らないうちが、いちばん正直に付く。


 いちばんいいのは、とミラは思った。


 いつか、この欄に、あの人が自分の名前を書くことだ。どこへ行くかを自分で決めて、決めたと自分で書くことだ。書けるようになるまで何年かかるかは、分からない。分からないから、それまで付けておく。空欄にはしない。空欄は、なかったことになる。


 ――ミラも! 夜は数字を数えてないで、ちゃんと寝ること!


 別れの朝に言われた言葉を思い出して、ミラは口の中で言い返した。数えていたのは、数字ではありません。それに、もう寝ます。


 二つめの手燭を、先に消した。


 灯を二つも使うな、と言われたのを、半刻忘れていたことになる。老徴税長には言わないでおく。言わなくても、蝋の減り方で、明日にはばれる。ばれたら、明日の七日めの休みと引き換えに、まけてもらうことにする。


 一つめの灯りを、消した。


 明日から、四本で数える。

■今回の学び(社労士試験対策)


今回のテーマ: 欄が決まっている、ということ


ミラは国の帳簿の罫を引き直しながら、どの行にも決めた者の判を求め、埋まらない欄は空欄にせず「不明」と書きました。現実の労働法も、使用者が付ける帳簿の欄を、法律と省令で細かく決めています。


まず、労働基準法百七条の労働者名簿。各事業場ごとに、日日雇い入れられる者を除く各労働者について作り、氏名、生年月日、履歴を記入します。省令は、性別、住所、従事する業務の種類、雇入れの年月日、退職の年月日及びその事由(解雇の場合はその理由)、死亡の年月日及びその原因までを挙げています。


次に、百八条の賃金台帳。各事業場ごとに作り、賃金支払のつど遅滞なく記入します。欄は、氏名、性別、賃金計算期間、労働日数、労働時間数、時間外・休日・深夜の労働時間数、基本給や手当など賃金の種類ごとの額、控除の項目と額です。働いた時間と払った額が同じ一枚に並ぶので、掛け算が合っているかを誰でも確かめられます。


そして、百九条の保存義務。労働者名簿、賃金台帳、雇入れ・解雇・災害補償・賃金その他労働関係に関する重要な書類は、五年、ただし当分のあいだは三年、保存しなければなりません。


欄が決まっているから、埋まらない欄が見える。ミラの四本めの罫は、そういう欄でした。


◇


■一問一答(社労士試験の頻出論点から)


【問】使用者は、労働者名簿、賃金台帳その他労働関係に関する重要な書類を5年間保存しなければならないが、当分の間は3年間保存すればよいとされている。(◯か✕か)


(答えは、次の話の一回めの後書きで)


◇


次回予告:第十話「眠らずの塔」――灯りの消えない塔には、消えない理由がある。


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