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異世界労務物語 ―女神のオーダー  作者: 月守行


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幕間 四本めの罫(一)

 谷から王都へ戻る馬車は、相乗りだった。


 羊毛の大きな包みがふたつ、行商人がふたり、それにミラ。ミラは揺れる荷台の隅で、膝の上に帳面をひらき、谷でのことを最初から数え直していた。数え直すのは、癖である。数字は、その場で合っていても、あとで見直すと抜けが見つかることがある。抜けは、たいてい数字の外にある。誰が言ったか。誰が黙っていたか。誰が、そこにいなかったか。


 行商人のひとりが、谷の噂を話していた。織り子の給金が、暮らせる下限まで上がったらしい、という話だ。本人が見たわけではない。谷で聞いた話を、王都でうまく話せるように、口の中で整えている。整えるうちに、数字は少し丸くなり、悪者の顔は少し濃くなっていた。


 ミラは口を挟まなかった。かわりに、丸くなった数字と本当の数字の差を、帳面の隅に書き留めた。話は、運ばれるうちに変わる。変わり方にも癖がある。癖が分かれば、聞いた話から元の形を割り戻せる。


 王都の城門が見えたのは、日が落ちてからだった。


          ◇


 その晩、ミラは荷を解かなかった。


 解かないまま、徴税寮の勘定部屋に坐り、留守のあいだに積まれた帳簿の山を、端から開いていった。馬車の中の見立てでは、山は膝の高さのはずだった。実物は、腰まであった。ひと月ぶんの綴りが、国の分と都の分とで別々に届いていたからだ。届け方が変わったことを、ミラは知らされていなかった。知らされていないことは、見立てに入らない。


 山のいちばん上は、都の市場の月ごとの帳簿だった。開くと、見慣れた項目が、見慣れた順に並んでいる。留守にしていたのは自分なのに、帳簿のほうが待っていてくれたような気がした。数字に迎えられる、という言い方を、ミラはまだ誰にもしたことがない。言えば笑われるのも、分かっている。


 算盤の珠を三つ弾いたところで、うしろから灯りが近づいてきた。


 老徴税長だった。寝間着の上に外套を引っかけ、手燭を持っている。この寮の主で、いちばん奥の部屋に寝起きしていて、夜中に珠の音がすると必ず起きてくる。ミラはそれを知っていて、珠を弾いた。


「明日にせい」


「この山は、明日もございます」


「明日のお前も、おるだろう」


「明日のわたしは、今日のわたしより、この山を知りません。ひと晩おくと、どこに何があるかの覚えが、一段沈みます。引き上げるのに、朝の半刻を使います」


 老徴税長は、しばらくミラの顔を見ていた。理屈で返されたとき、この人は、理屈で言い返すのが割に合うかどうかを先に量る。合わないと見ると、別のものを出してくる。


 今夜は、壁の札を指さした。


 帳場の壁には、木の札が一枚掛かっている。


 ――七日にいちどは、まるごと休むこと。


 あの人が授けた最初の掟の写しだ。掟が立った月に、寮の書記が自分で書いて、自分で掛けた。城の帳場にまで掟が来るのかと、寮じゅうが少し笑ったそうだ。笑ったが、誰も札を外さなかった。外さないまま、満月がいくつも過ぎた。


「お前の七日めは、明日だ」


「存じております」


「存じておる者の手つきではない」


 ミラは珠から手を離し、口をとがらせた。この人にそれが効かないことも、知っている。


 ミラを寮に入れると決めたのは、この人だった。あの日、ミラの暗算をひとつ見ただけで、生まれも育ちも訊かずに席を用意してくれた。数字で人を計る人は、自分が数字で計られることも受け入れる。だからこの寮は、ミラに合っている。


「半刻だけ、残ります。帳簿ではございません。わたしの帳面でございます」


「私の、なら、勝手にせい」


 老徴税長は戻っていった。廊下の角で一度だけ足を止め、こちらを見ずに言った。


「灯を、二つも使うな」


 ミラは机の端の二つめの手燭を見て、見なかったことにした。


          ◇


 山とは別に、今夜のうちに書いておきたい紙が一枚あった。


 谷での巡回の報せである。谷で見たことを寮の書式に直して、長へ出す。下書きは馬車の中でできていた。払われていなかった差額。対象の織り子の人数。払い足しの期日。数字は、もう動かない。


 それなのに、清書の筆は二度止まった。


 谷で板に数字を書いたとき、その向こうにはマーサの顔があった。報せの形に直すと、その顔が、ただの項目の名前に変わっていく。それが正しい。帳簿とは、そういうものだ。正しいのだけれど、顔が項目に変わる瞬間は、何度やっても少しだけ寒い。


          ◇


 ミラが任されている大きな仕事は、国の帳簿の組み直しである。二年はかかると見込まれていて、いま、三分の一が終わったところだ。


 やっていることは、帳簿の罫――縦に引いた線で分けた欄――を引き直すことだ。前の帳簿は国ごとに欄の数が違い、同じ使い道が別の名で呼ばれ、同じ名前が別の使い道を指していた。ミラはそれを、一枚の同じ型にそろえている。そろえるために、欄を三つ減らし、一つ増やした。


 増やした一つは、「決めた者」の欄だ。


 国の帳簿には決まりがある。銭が動いた行には、その銭を動かすと決めた者の判が要る。ところが前の帳簿では、判を押す場所が頁の隅だったり、裏だったり、別の紙だったりした。ばらばらだと、あとから探せない。探せない判は、無いのと同じだ。


 だからミラは、判の場所を行の中に入れた。左から、日付、使い道、額、そして決めた者。横に一行読めば、ひとつの出来事が全部わかる。


 この欄を入れると言ったとき、老徴税長は一度だけ「なぜ要る」と訊いた。


「帳簿は、嘘をつくとき、決めた者の欄から嘘をつきます。額を書き換えるより先に、誰が決めたかをあいまいにするんです。だから、いちばん先に崩れる場所を、いちばん読みやすいところに置きます」


 老徴税長は、それきり何も訊かなかった。翌朝、寮の書記全員に、新しい罫で書くよう言い渡した。


 年かさの書記が一人、この欄に反対したことがある。決めた者を行の中に書くと、何かあったとき、その者だけが責められる、と。


 ミラは少し考えてから答えた。


「書かないと、何かあったとき、決めていない人までまとめて責められます。決めた人が書いてあれば、責めはその人に届いて、そこで止まります。書いてなければ、責めは、いちばん立場の弱い人のところで止まります」


 年かさの書記は黙った。そして翌月から、誰よりも丁寧にこの欄を書くようになった。あとで聞いた話では、この人は若いころ、上が決めた損の責めを、一人でかぶったことがあるそうだ。


 それを聞いてから、ミラはこの欄の意味を、前より一つ深く覚えた。この欄は、人を責めるためのものではない。責めを、正しい場所で止めるためのものだ。


          ◇


 壁の札のことも、少し書いておく。


 札が掛かってから、寮の夜は目に見えて変わった。前は、夜中まで残るのが書記の自慢だった。誰がいちばん遅くまで灯りを使ったかを、朝の茶のときに言い合う声があった。いまは、無い。


 札が命じたからというより、いちばん大きな声で自慢していた書記が、いちばん先に、鐘が鳴ったら帰るようになったからだ。一人が変わると、比べる物差しが変わる。物差しが変わると、誇りの置き場所が変わる。ミラはそれを、半年、横で見ていた。


 掟は、貼られただけでは効かない。効きはじめるときには、必ず、最初に従う一人がいる。


          ◇


 山を半分ほど崩したところで、ミラは手を止め、机のいちばん下の抽斗を開けた。


 細長い帳面が一冊、入っている。


 寮の帳簿ではない。誰に頼まれたのでもない。表紙には何も書いていない。ミラが「わたしの帳面」と呼んでいるものだ。


 中は、縦の罫で三つの欄に分けてある。


 左から、日付。行き先。用向き。


 一行が、ひと月ぶんである。


 付けはじめた晩のことは覚えている。王都へ来て、寮に席をもらい、はじめて給金をもらった晩だ。うれしくて眠れなくて、何か書こうと紙を綴じた。日記のつもりだった。けれど三行でやめた。自分のことを書くのは、思ったよりつまらなかった。


 そこで、かわりに、あの日町を発っていった人のことを書いた。日付と、聞いている行き先と、用向きと。書いてみると、三行ぶんのことが、一行に収まった。収まったとき、これは日記ではなく帳簿だと分かった。帳簿なら、続けられる。


 はじめの二行は、覚えで書いた。二行めは、自分の町のことだ。写しは要らなかった。一行めの王都のことは、寮に来てから、書記たちの話で埋めた。


 書いているのは、あの人のことだ。満月ごとに、一行。


 行き先と用向きは、歩いてくる紙から書き取る。満月が過ぎて幾日かすると、どこかの町で授けられた掟の写しが、行商人の荷や、宿屋の壁や、市場の柱を伝って、王都まで歩いてくる。写しには掟の言葉と、たいてい町の名が付いている。掟の言葉を読めば、用向きが分かる。石工の町なら、約束を紙にすること。砦なら、別れの作法。命を守れなかった町なら、命を守る決まり。


 写しは寮の中でも回っている。新しい写しが都に着くと、書記たちがそれをまた写して、茶の間の壁に留める。誰の役目と決まっているわけでもないのに、途切れたことがない。壁に新しい紙が留まった日が、ミラの帳面の一行が埋まる日だ。


 用向きの欄には、写しの言葉を短くして書いてある。九つの行を上から読むと、こうなる。


 働く時間と、休み。給金は、手の中へ。約束は、形にして。休む勇気。別れにも、礼と理を。守れたはずの命。明日の担い手。逆らえぬ空気。暮らせる賃金。


 並べると、本の目次のようだった。何の目次かは、まだ分からない。ただ、順番に意味があることは、数字を扱う者の勘で分かる。はじめに働く時間と休みを置き、次に給金を置き、約束を置き、それから休む側の心と、別れる側の礼へ進んでいる。行き当たりばったりの順ではない。誰かが決めた順でもない。歩きながら、足もとの困りごとを一つずつ拾っていったら、こうなった――そういう順だ。


 紙が歩いてこない月は、行き先の欄が空く。空いたまま次の満月が来ると、ミラはそこに小さく書く。


 不明。


 空欄にはしない。空欄は、書き忘れと見分けがつかない。「不明」と書いてあれば、調べたけれど分からなかった、ということが残る。分からなかったことにも、残す値打ちがある。国の帳簿で覚えたやり方だ。

■前の話の一問一答・答え合わせ


【問】精皆勤手当、通勤手当及び家族手当は、支払われる賃金が最低賃金額以上であるかを比較する際に算入される。(◯か✕か)


【答】✕ 臨時に支払われる賃金と1か月を超える期間ごとに支払われる賃金(最賃法4条3項1号、則1条1項)、所定労働時間を超える労働や所定労働日以外の日の労働に対する賃金と、深夜の割増部分(同項2号、則1条2項)は、最低賃金との比較の対象となる賃金に算入しない。精皆勤手当・通勤手当・家族手当も、各最低賃金の決定で「算入しないもの」と定められているため、算入しない(同項3号)。


※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。


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