第九話 暮らせる賃金(二)
その夜、町の老織元が、灯とミラを家に招いた。谷でいちばん古い機を守る、白髪の老女だった。
「あの触書のことを、お知りになりたいと」
老織元は、囲炉裏の火に、乾いた枝をくべた。灯とミラの前には、羊乳で作った白いチーズと、金色の蜂蜜が置かれている。
「昔――まだ、わしの祖母の祖母の時分。この谷でも、買いたたきが、続いたそうでございます」
火が、ぱちりと爆ぜた。
「腕のいい織り子ほど、安く買い叩かれた。ひとりが値を下げれば、隣も下げねば仕事が来ぬ。皆が競って、下へ、下へと。……気づけば、朝から晩まで織っても、パンひとつ買えぬ谷になっていたのです」
「……それで、どうなったのでございますか」
「人が、谷を捨てました」老織元は、静かに言った。「働いても暮らせぬ土地に、誰が残りましょう。若い者から出ていき、機の音が、ひとつ、またひとつと消えて。……谷は、羊ばかりの、空き家の谷になったそうでございます」
灯は、目を落とした。並んだチーズと蜂蜜が、ふいに、遠くのものに見えた。
「残った者たちが、決めたのです。『これ以上は、下げぬ』と。誰がどれだけ困っても、この線から下では、買わぬ、売らぬ、働かせぬ。――それが、あの、かすれた触書でございますよ」
老織元は、皺だらけの手で、火をかき混ぜた。
「下限とは、情けではございません。谷が、二度と空にならぬための、堤でございます」
灯は、ゆっくりと顔を上げた。頭の中で、散らばっていた糸が、一本に縒られていく。
「……下限より、下に結んだ約束は、そもそも効きません」灯は、自分に言い聞かせるように言った。「合意があっても、その部分は、なかったことになります。そして、足りない分は、下限まで引き上げられます。――合意は、下限より下には、届かないんです」
ミラが、こくりとうなずいた。
「入れていい手当と、いけない手当も、あります」灯は続けた。「まじめに通った褒美の手当、家から通う分の手当、家族を養う分の手当。時間外や、夜働いた分の割増も。――そういうものを足して『下限を満たした』とは、言えません。基本の、暮らしの糧そのものが、下限を超えていないと」
「じゃあ」ミラが、小首をかしげた。「本当に、見習いの人は? 下げてはいけないんですか」
「下げてよい場合も、あります」灯は首を振った。「試しの期間の人、うんと軽い仕事の人、体の事情で、どうしても働きが及ばない人。……でも、それは、店の主人が勝手に決めていいことではありません。連合の監督官の、許しが要ります。手続きを、踏まないといけません」
灯は、囲炉裏の火を見つめた。
「特例は、言い訳のための言葉ではありません。ちゃんと申し出て、許しを得る、手続きなんです。『見習いだから』と口で言うだけで下げるのは、ただの、買いたたきです」
「……冷めますよ、チーズ」
ふいに、ミラが言った。
灯は、はっと手元を見た。いつのまにか、目の前の白いチーズに、無意識に手を合わせて、拝もうとしていたのだった。羊乳の恵みと、蜂蜜の甘さと、それを作った人の手に、感謝を――そこまで祈りかけて、灯は、勢いよく手を引っ込めた。
「し……神官の、作法です」
「はい」ミラは、まったく表情を変えずに、蜂蜜を垂らした。「知ってます」
灯の首まで、熱が上った。
◇
満月の夜。
谷の広場に、民が集まっていた。織り子たちも、証文を配っていた男も、青ざめた顔の問屋の主人も。マーサは、いちばん後ろで、小さくなって立っていた。その隣に、ミラがいた。
灯は、祭壇の前で、ひとつ、大きく息を吸った。
自分の一言が、一年、この谷を縛る。誤れば、誰も逆らえない。――その重さに、指先が、かすかに震えた。だが、マーサの顔を見ているうちに、震えは、静かにおさまっていった。
「――女神のお告げを、授けます」
広場が、しんと静まった。
「賃金には、暮らせる下限があると、知りなさい」
灯の声が、夜気に、まっすぐ通った。
「合意という言葉で、その線を下げてはならない。下限を下回る約束は、通らない。足りぬ分は、下限まで、引き上げよ。証文で払うことも、許してはならない。硬貨で、じかに、全額を渡しなさい」
光の文字が、祭壇の上に、ゆっくりと浮かび上がる。
「下げてよい定めのある者にも、ただ口で言うて下げてはならぬ。必ず、連合の監督官の、許しを得なさい。――下限は、暮らしを守る、最後の砦です」
文字が、ひときわ強く光った。民のあいだから、ため息のようなざわめきが、広がっていった。
人垣の後ろのほうで、小さな声がした。
「ねえ、なんて書いてあるの」
誰かが、ひとつずつ読んで聞かせている。まだ幼さの残る声だった。灯は、そちらを見なかった。前の列に、まだ話すべき相手がいたからだ。
マーサが、両手で口を覆っていた。その肩を、ミラが、そっと支えていた。
◇
数日後。
灯が、旅人のなりで谷を訪ねると、町は、変わっていた。
市場に、硬貨の音が戻っていた。ちゃりん、ちゃりんと、店先で銀貨が数えられ、織り子たちの手に、じかに渡されていく。あの証文を配っていた男の姿は、もう、どこにもなかった。
掲示板の、かすれた古い触書の横に、真新しい触書が、大きく貼り直されていた。谷の賃金の下限。誰の目にも、はっきりと読める、濃い墨で。
(もう、薄れない)
その日、灯は、町の長の家に紙を一束置いていった。名と、この町に住んでいる年数と、どこで働いているかと、いまどこにいるかを書く紙だ。分からないときは、分からないと書いてください、と言い添えた。綴じ方も、そこで教えた。お告げの写しも、一枚添えた。困ったときはこれを持って行ってください、書いてあるものは口で言うより通ります、とも言った。
毛織物問屋の店先で、マーサに会った。彼女は、両手いっぱいに、色とりどりの毛糸を抱えていた。
「巫女さま!」マーサは、灯に気づいて、駆けてきた。「見てください。わたし、初めて……初めて、余りを、蓄えられたんです」
その毛糸の束を、マーサは、大事そうに抱きしめた。
「妹に。あの子の、好きな色を、選んで。……ずっと、夢だったんです。これ」
赤や、青や、若草色の毛糸が、日の光に、やわらかく輝いていた。マーサの目に、涙がにじんでいた。灯の目にも、熱いものがこみ上げた。
(……届いた。働いた分が、ちゃんと、暮らしに)
もう、堪えなくてよかった。ここには、守れた未来が、毛糸を抱いて、笑っている。
◇
町はずれの坂道で、灯は、ミラと別れた。ミラは王都へ、灯は次の町へ。
「アカリ様」ミラは、帳面を抱えて、少しだけ、はにかんだ。「あたし、また来る。数字で困ったら、必ずあたしを呼ぶこと。……二度めだからね、これ」
「うん。……ミラちゃん」灯は、少しだけ、いたずらっぽく笑った。「ひとつだけ、聞いていい?」
「なに」
「あの帳場の差額。……私、あのあと、こっそり自分で計算してみたんです。半刻かけて」
「ん」
「……ミラちゃんの答えと、合ってた。桁が、ひとつも、ずれてなかった」
ミラは、きょとんとして、それから、ふふ、と笑った。
「アカリ様。あたし、あのとき、算盤も使ってないの」
「……知ってます」
ミラは、もう一度笑って、それから、少しだけ、真面目な顔になった。
「アカリ様。あの……ちゃん、は、そろそろ卒業したいんだけど」
「え」
「巡回に志願したの」ミラは、帳面を抱え直した。「町でそう呼ばれると、示しがつかない」
灯は、目をまるくして、それから、うなずいた。
「わかりました。……ミラさん」
「ん」ミラは、深く一礼した。それから、顔を上げて、へへ、と笑った。「呼ばれ慣れるまで、少しかかりそう」
ミラは、坂を下りかけて、一度だけ振り返った。
「アカリ様も。夜は、女神さまとお話してないで、ちゃんと寝ること」
言いつけを、そっくり返して、少女は今度こそ、坂を下りていった。
灯は、遠ざかっていくミラの小さな背中を、見えなくなるまで、見送った。
◇
その夜、旅の宿で、灯は星空に向かって正座した。両手を膝に置き、背筋を伸ばし、深く一礼する。女神への、日報の刻限だった。
「本日をもちまして、羊毛の谷の町、無事に加盟の運びとなりましたことを、ご報告いたします。織り子マーサの暮らし、証文の悪弊、いずれも是正済み。……なお、後輩ミラの目覚ましき成長に、本官、深く胸を打たれました。あの子は、もう、足がすくみません」
灯は、少し、声を詰まらせた。
「一点、業務連絡がございます。帳場の暗算対決、本日をもって――二戦二敗。誠に遺憾ながら、勝てる気が、いたしません。以上、ご報告申し上げます」
星が、ちらちらと瞬いていた。灯の胸に、ふと、あの温かさが差した。顔の見えない、声のかすれた、けれど確かなあの人が、すぐそばにいる。手のひらに、大きな手が重なる。
――民を思え。
その言葉だけが、夜空の向こうから、まっすぐに届いた。
灯は、目を閉じて、うなずいた。谷の下限は、もう、薄れない。まじめに払う者が損をせず、まじめに働く者が暮らせる。――そういう市を、ひとつ、守れた。
エルデン王国の周りに、また一つ、灯が、ともった。
谷の織り場では、明日も、はた織りの音が鳴る。マーサの手の下で、糸が一本ずつ、布になっていく。値の決まった、一本ずつが。
■今回のオーダー
賃金には、これ以上は下げてはいけない、暮らせる下限があります。下限を下回る約束は、たとえ本人が署名しても、その部分は効きません。足りない分は、下限まで引き上げられるの。合意という言葉は、下限より下には、届かないから。
下限の計算に入るのは、暮らしの糧そのもの。まじめに通った手当、通う分の手当、家族の手当、そして残業や夜働きの割増は、入りません。それらを足して「下限を満たした」とは、言えないのです。
下げてよい人も、確かにいます。試しの期間の人、うんと軽い仕事の人、体の事情で働きが及ばない人。でも、口で言うだけでは駄目。必ず、監督官の許しを得ること。特例は言い訳ではなく、手続きなんです。
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■今回の学び(社労士試験対策)
・最低賃金法(地域別最低賃金): 国が地域ごとに時間額の下限を定める。下回る労働契約は合意があってもその部分が無効となり、最低賃金額まで引き上げられる。
・算入されない賃金: 精皆勤手当・通勤手当・家族手当、時間外・休日・深夜の割増賃金は最低賃金の計算に算入しない。
・減額の特例: 試用期間中・軽易な業務・障害により著しく労働能力が低い場合等は、都道府県労働局長の許可を得て減額できる(勝手な引下げは不可)。
◇
■一問一答(社労士試験の頻出論点から)
【問】精皆勤手当、通勤手当及び家族手当は、支払われる賃金が最低賃金額以上であるかを比較する際に算入される。(◯か✕か)
(答えは、次の話の一回めの後書きで)
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次回予告:幕間「四本めの罫」――王都へ戻る馬車の隅で、ミラは谷のことを数え直す。




