第九話 暮らせる賃金(一)
羊の匂いのする風が、谷を吹き抜けていた。
春野灯が街道の坂を下りきると、眼下に、機を織る音が満ちた町が広がっていた。斜面には白い羊の群れが雲のように散らばり、家々の窓からは、とん、とん、と杼を打つ規則正しい響きが漏れてくる。硝子の街を越えてきた灯の耳に、その音は子守唄のように心地よかった。
(いい町)
旅人のフードの下で、灯はそっと目を細めた。豊かで、静かで、勤勉な町。神官の衣を脱ぎ、旅人のなりで実態を見てから語る――それが、いつのまにか身についた作法になっていた。
だが、市場の隅まで来て、その足がとまった。
露店の並ぶ一角で、痩せた男が、紙きれを配っている。受け取った女が、困った顔でそれを裏返している。灯は横合いから、その紙をのぞきこんだ。
――証文。
背筋が、ひやりとした。かつて第二の町で、灯が正したはずの悪弊だ。硬貨のかわりに渡され、その店でしか使えず、値も相手の言い値になる、あの紙きれ。谷の澄んだ空気の中で、その一枚だけが、ぬめりとした色をしていた。
(……なんで、ここに)
◇
織り子のマーサに出会ったのは、その日の夕方だった。
小さな家の土間で、若い娘が機に向かっていた。まだ二十歳そこそこだろう。だが、その手つきには迷いがない。緯糸をくぐらせ、筬を打つ動きは流れるようで、素人目にも「うまい」とわかった。
「お茶も出せなくて、ごめんなさい」
マーサは手を止めずに笑った。灯が旅の巫女だと名乗ると、少しだけ肩の力が抜けたようだった。
「この布、きれいですね。あなたが織られたんですか」
「はい。……でも、いくら織っても、暮らしが立たなくて」
マーサの指が、とん、と筬を打った。
「わたし、まだ見習いなんです。だから、お給金は一人前の半分。そう言われて」
「見習い……」灯は、壁にかけられた反物を見た。目の詰んだ、上等な織りだった。「これで、ですか? これだけの布を織って、まだ見習いなんですか」
「もう三年、織ってます」マーサは目を伏せた。「でも、旦那さまが『お前の腕はまだ半人前だ』って。……そうなのかも、しれません。わたしにはよく、わからないから」
わからないから、そう言われれば、そうなのかと思ってしまう。灯の胸の奥で、遠い記憶がちくりと痛んだ。前世でも、いた。「自分なんか、この給料でもありがたい」と言わされて、そう信じ込んでしまった人が。
「マーサさん。あなた、この町で生まれたんですか」
「はい。妹と、ふたりで。……あの子に、いつか毛糸を買ってあげたいんです。自分の分を、好きな色で。それだけが、夢で」
とん、と、また筬が鳴った。灯は、何も言えずに、その白い布を見つめていた。
◇
翌朝、灯は商人の帳場をのぞいた。
毛織物問屋の、大きな店だった。帳場には算盤と帳簿が積まれ、番頭らしき男が忙しく硬貨を数えている。だが、しばらく物陰から見ていて、灯は「からくり」に気づいた。
織り子たちに渡される給金は、ひどく少ない。その足りない分を、番頭は例の証文で補っている。硬貨は店の外へ出ていかず、証文だけが織り子たちの手に残る。証文はこの店の品としか換えられず、値は店の言い値。――働いた分は、暮らしに、届いていない。
(かつて正した悪弊が、形を変えて、戻ってきてる)
既視感のある、嫌な光景だった。そして灯は、ふと、もっと嫌な予感に眉をひそめた。第二の町で断たれたはずのこのやり口を、この商人は、どこで覚えたのだろう。まるで、誰かが、抜け道を教えたようだった。
――その考えを、灯は、あえて追わなかった。今は、目の前のマーサだ。
「そこの旅人さん。うちに何か用かね」
番頭の声に振り返ると、その背後の帳場に、見覚えのある小さな影があった。
徴税官の外套。帳面を小脇に抱え、算盤の桁を睨みつけている、小柄な少女。
「……ミラ、ちゃん?」
少女が、顔を上げた。切れ長の目が、灯を認めて、ぱっと見開かれる。
「アカリ様!」
徴税官のミラだった。第二の町で仲間になった、帳簿の少女。一度見た数字は忘れず、膨大な帳簿を一瞬で突き合わせる、数字の生き字引。
「どうして、ここに」
「証文の噂を、聞いたんです」ミラは帳面をぎゅっと抱えた。「わたしの町で正したはずのやり口が、この谷で出たって。……いても立ってもいられなくて、巡回に志願しました」
その声に、迷いはなかった。灯は、少しだけ、胸が熱くなった。
ただ、ひとつだけ、気にかかったことがある。
「ミラちゃん」
「はい」ミラは、きちんと背筋を伸ばした。「なんでしょうか」
その返事の硬さだった。町で会ったころのこの子は、もっと、ぽんぽんと喋る子だった。
「巡回のお仕事、大変?」
「いいえ。数字を扱いますので、間違えないようにと、それだけです」ミラは、帳面を抱え直した。「徴税官が間違えますと、人の暮らしが、動きますから」
ああ、と灯は思った。この子は、背負ったぶんだけ、言葉を硬くしたのだ。
「町の人に向けるときは、そのままでいて」灯は言った。「数字を言う人は、揺れないほうがいいから。……でも」
「でも?」
「私と話すときは、前のままでいい」
ミラが、まばたきをした。
「……いいんですか」
「うん」
ミラは、しばらく帳面の角を指でこすっていた。それから、ふう、と、肩から力を抜いた。
「ずっと、間違えないようにって、思ってました」
「うん」
「アカリ様の前でだけなら……少し、ゆるめても、いいですか」
「どうぞ」
ミラは、へへ、と笑った。王都で別れた日の、あの顔だった。
◇
町の掲示板の前で、灯は足をとめた。
板の隅に、ずいぶん古い触書が一枚、貼り残されていた。墨は薄れ、文字はかすれて、もう半分も読めない。だが、かろうじて数字が読み取れた。――昔、この谷で定められた、賃金の下限。
「これは……」
「あ、それ、昔のお触れ」いつのまにか隣に来たミラが、その数字を一瞥した。「……もう、誰も読んでないの」
守るべき線が、忘れられている。誰も読まなくなり、数字だけが、少しずつ薄れていく。灯は、そっと指先で、そのかすれた墨をなぞった。冷たい板の感触が、指に残った。
(守るべき線は、忘れられた瞬間に、なかったことにされる)
◇
問屋の主人は、恰幅のいい男だった。灯が神官の衣に着替えて訪ねると、男は最初こそ慌てたが、すぐに開き直った。
「神官さま。手前どもは、何も悪いことはしておりません」
「見習いだからと、賃金を半分に。それが、正しいと仰るのでございますか」
「本人が、納得しております」男は、契約書の束を、どんと帳場に置いた。「ごらんください。みな、自分の手で署名しております。安くてもいい、と言ったのは向こうでございますよ。合意だ。合意の上のことに、どなたが文句を?」
合意。――その言葉が、灯の耳に、いやに重く響いた。
前世で、何度も聞いた言葉だった。「本人が納得してるんだから」。だが灯は知っていた。追い詰められた人が「これでいい」と言うとき、それはたいてい、言わされている。他に道がないから、うなずくしかないだけだ。
「――合意という言葉で、下げてはいけない線が、ございます」
灯は、静かに前に出た。
◇
「その契約書、少し見せてもらえますか」
声を上げたのは、灯の後ろにいたミラだった。
商人が束を渡すと、ミラはそれを、ぱらぱらとめくった。ほんの、数呼吸のあいだ。それから帳面を閉じ、まっすぐに主人を見上げた。
「マーサさんの分。日に、朝の鐘から夕の鐘まで。ひと月で、二十六日。織り上げた反物は、先月で十四反」
「そ、それが何だ」
「掲示板の、古いお触れの下限。時あたりの額は、覚えています」ミラの声は、少しも揺れなかった。「その額で、マーサさんの働いた時をぜんぶ掛けると――ひと月で、これだけになります」
ミラは、帳場の板に、数を書いた。
「でも、実際に渡された硬貨は、その半分。残りは、証文。証文は下限の計算には入りません。あれは、暮らしに使えるお金じゃないから」ミラは顔を上げた。「差額は、マーサさん一人で、これだけ。織り子は、ぜんぶで十一人。全員分を足すと――」
ミラは、算盤に触れもせずに、次の数を書いた。書き終えて、ひとつ、息をついた。
「これだけ、下限に足りていません」
帳場が、しんとした。主人の額に、汗がにじんだ。
「で……でたらめだ。そんな数、どこから」
「帳簿に、書いてあります」ミラは、積まれた帳簿の背を指した。「三日前、わたしが巡回で拝見しました。一度、見ましたから」
主人の顔が、青ざめた。ミラは、契約書の束を、もう一度めくった。
「それに、この署名。マーサさんの分だけ、日付が二つあります。契約した日と、書き直された日。筆の運びが、途中から変わっている。……最初の署名は、たぶん、ご本人。あとの数字を書き足した筆は、別の人のものです」
「なっ……」
「日付をさかのぼらせて、賃金の欄を、後から書き足した。違いますか」
ミラは、一歩も引かなかった。
灯は、その小さな背中を、見つめていた。かつて第二の町で、大人に凄まれて足がすくみ、声も出せずにいた少女が――今、大の男を前に、数字だけを盾にして、まっすぐ立っている。
(……大きくなった)
喉の奥が、じんと熱くなった。
「怖く、ないんですか」思わず、灯は小声で聞いた。
ミラは、前を向いたまま、ほんの少しだけ微笑んだ。
「数字は、人の暮らしですから。……ここで黙ったら、マーサさんの暮らしが、消えます」
■前の話の一問一答・答え合わせ
【問】妊娠中の女性労働者及び出産後1年を経過しない女性労働者に対してなされた解雇は、事業主が妊娠・出産等を理由とする解雇でないことを証明しない限り、無効とされる。(◯か✕か)
【答】◯ 妊娠中及び出産後1年を経過しない女性労働者に対する解雇は無効とされ、事業主が妊娠・出産等を理由とする解雇でないことを証明したときに限り有効となる(均等法9条4項)。
※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。




