第八話 逆らえぬ空気(二)
「親方さん。ひとつだけ、わたくしの話を、お聞きくださいませ」
灯は、フードを、そっと後ろに払った。工房の職人たちが、遠巻きに、二人を見ている。エルナも、器を抱えたまま、立ち尽くしていた。
「厳しさと、人格を否定することは、別のものでございます。それを見分ける、三つの物差しがございます」
「物差し、だと」
「一つ。あなたが、その若い職人より、強い立場にあること。逆らえば明日から仕事がない――そう言える立場。これが、一つめ」
灯は、指を一本、立てた。
「二つ。叱ることが、仕事の域を、超えていないか。器の失敗を正すのは、仕事でございます。けれど、その人の生まれや、親御さんまで持ち出すのは、もう仕事の話ではございません。それは、二つめ」
指が、二本になる。
「三つ。その言葉が、働く場そのものを、こわしていないか。あなたの怒鳴り声を聞いて、この工房の誰かが、また新しい色に挑もうと思えましょうか。それとも、しくじるのが怖くて、手が縮こまりましょうか」
三本目の指を立てて、灯は、工房を見渡した。うつむいたままの職人たち。誰も、顔を上げない。
「強い立場から。仕事の域を超えて。働く場を、こわす。――この三つがそろったとき、それは、もう指導ではございません。人を、傷つけているだけでございます。……立場の強い者と、弱い者は、対等であっていいのでございます」
ガロは、何かを言いかけて、口をつぐんだ。
「そして、エルナさんのことでございます」灯は、続けた。「仕事を任せるかどうかは、その人の腕で決めるものでございます。男か、女か、で決めるものではございません。所帯を持つかもしれない。子ができるかもしれない。――それは、暮らしの、あたりまえの節目でございます。その節目を、仕事を取り上げる理由にしては、なりません」
「……理想論だ」ガロが、絞り出すように言った。「現に、女は辞める。休む。俺は、何人も見てきた」
「辞めたのではございません。辞めさせられたのでございます」
灯の声が、はじめて、少し強くなった。
「大事な仕事を任されず、上に行く道も閉ざされて。それでも残れと言うほうが、無理でございます。子ができたから、所帯を持ったから、それを理由に役を外され、給金を下げられる。……そんな場所に、誰が、しがみつきましょうか」
工房が、しんとした。炉の、火のはぜる音だけが、聞こえていた。
「厳しくても、よいのでございます」灯は、声を、また静かに戻した。「高いものを求めて、鍛えるのは、よいことでございます。……ただ、その厳しさが、その人の腕に向いているのか。それとも、その人自身を、踏みつけにしているのか。そこだけは、お間違えにならないでくださいませ」
◇
「でも、口で申すだけでは、変わりません」
灯は、ガロと、集まった職人たちに向き直った。
「ですから、仕組みを、ひとつ。この工房に、困りごとを打ち明けられる窓口を、置いてくださいませ」
「窓口?」
「はい。怒鳴られて、つらい。おかしいと思うことがある。そう感じたとき、誰かにそっと相談できる場所でございます。親方さんに直に言えないことも、そこでなら、言える。――そして、いちばん大事なのは」
灯は、一人ひとりの顔を見た。
「相談したことを理由に、その人を、決して不利に扱わないこと。相談したら仕事を減らされた、では、誰も声を上げられません。声を上げても、大丈夫。そう信じられて、はじめて、窓口は窓口になるのでございます」
エルナが、器を抱えたまま、こくりと、小さく頷いたのが見えた。
◇
満月の夜。街の広場に、民が集まった。
灯は、白い神官の衣に着替え、祭壇の前に立った。フードの下の旅人ではない、女神に仕える者として。集まった職人たちの中に、うつむいたガロの姿も、器を胸に抱いたエルナの姿も、あった。
(……この一言が、一年、この街を縛る)
灯は、いつものように、その重さに、短く息を詰めた。間違えれば、誰も逆らえない。けれど、と灯は思う。いま何も言わなければ、エルナの手は、明日も器を洗い続ける。あの小さな夕陽は、誰の目にも触れないまま、小屋の棚で眠り続ける。
(――民を思え)
顔の見えないあの人の声が、遠くで、そっと背を押した。
「――女神のお告げを、授けます」
広場が、静まりかえった。
「仕事は、性別ではなく、その人の力で任せなさい。所帯を持つこと、子を持つことを、不利の理由にしてはならない。そして――人の心を傷つける言葉を、指導と呼んではならない」
光の文字が、祭壇の上に、ゆっくりと浮かび上がった。
ざわめく職人たちに、灯は、最後に、こう続けた。
「安心して物が言える場でこそ、腕は、育つのでございます。恐れの中では、人は、縮こまるだけでございます。……皆さんの手には、まだ、誰も見たことのない色が、眠っているはずでございます」
エルナが、胸の器を、きゅっと抱きしめた。
◇
その夜、旅籠に戻った灯は、いつものように、窓辺に小さな祠を見立て、女神像のかわりに、拾ってきた白い小石を置いて、正座した。
「――本日の業務、ご報告いたします。硝子細工の街にて、対等と、相談の仕組みについて、お告げを授けました。誠に僭越ながら、女神さまのお力添えを賜り……いえ、その、賜れましたら幸いに存じ……あの、何卒、以後ともお引き立てのほど……」
言ってから、灯は、はたと止まった。
(……あれ。私、いま、ものすごく、へりくだってる)
昼間、あの工房で「立場の強い者と、弱い者は、対等であっていい」と、あんなに堂々と説いたばかりだ。それなのに、女神への日報だけは、相変わらず、地の底まで頭を下げている。
(……女神さまと私は、さすがに、対等ではない、から……これは、いいの。うん。これは、別)
白い小石は、何も言わなかった。灯は、赤くなった顔で、こほんと咳払いをして、報告の続きを、いつもより少しだけ、背筋を伸ばして述べた。
◇
翌日、街の通りで、灯は思わぬ光景に足を止めた。
屋台に、硝子細工の――ではなく、硝子細工のような、飴細工が並んでいたのだ。
透きとおった飴を、職人が炉の熱でとろりと溶かし、色を混ぜ、細い管で、小鳥や、花や、小さな器の形に吹き上げていく。この街ならではの菓子だという。橙色の飴の小鳥が、日差しを受けて、本物の硝子のように輝いていた。
灯は、一羽、買った。そして、両手で、うやうやしく捧げ持った。
(この一羽に宿りし、飴を煮る者の技と、色を選ぶ心と、吹き手の息に――感謝を)
祈りが、長かった。あまりに美しくて、食べるのが、もったいなかったのだ。翼の透け具合を、いろんな角度からしげしげと眺め、日にかざし、名残を惜しみ、それでもう一度、祈った。
(……いただきます)
ひとくち。ぱりん、と割れて、素朴な甘さが、口いっぱいに広がった。灯の目が、じんわり潤む。
(おいしい。……異世界の飴細工、こんなに、きれいで、おいしい)
旅人がひとり、飴の小鳥を掲げて長々と拝んでいるのを、屋台の女将が、けげんそうに見ていた。灯は、はっと我に返り、残りは、今度はふつうに、しかし大事に、平らげた。
◇
数日後。灯が、旅立ちの前に、もう一度あの工房をのぞいたとき。
街の空気が、変わっていた。
工房の入口に、小さな木箱が置かれていた。困りごとを、紙に書いて入れるための、相談の窓口だった。怒鳴り声は、消えていた。かわりに、炉のそばで、あの親方ガロが、若い職人の手もとを、覗き込んでいる。
「……ここの、息の入れ方だ。もう少し、ゆっくり。……そう、それでいい。前より、ずっといい」
ガロは、そう言ってから、ばつが悪そうに、自分の顎を、ごしごしと撫でた。褒めるという言葉が、まだ、口に馴染んでいないのだ。若い職人は、目を丸くして、それから、はにかんだ。
その工房のいちばん奥、いちばんいい炉の前に、エルナが、立っていた。
もう、器は洗っていなかった。彼女の前には、大きな設計図が広げられている。街の大聖堂の、正面の窓。その色硝子を、彼女が、任されたのだという。
「……信じられない」エルナは、灯を見つけると、震える声で言った。「あんなに大きな仕事、私が。……夕陽の色を、使っていいって。あの、私の、小さな玉の色を」
「あなたの色だから、任されたんです」灯は、微笑んだ。「男でも、女でもなく。あなたの、手ですから」
◇
旅立ちの朝。
大聖堂の前を通りかかった灯は、足場の上のエルナに気づいて、見上げた。
エルナが、最初の一枚を、窓枠にはめ込むところだった。橙から茜へ、茜から菫へと沈んでいく、あの夕陽の色。小さな硝子玉の中に閉じ込められていた空が、いま、大聖堂の高い窓で、何倍もの大きさになって、朝の光を受けていた。
光が、色を透かして、聖堂の白い床に、大きな夕陽の池をつくる。
エルナは、はめ込んだ一枚を、そっと手のひらで撫でた。それから、朝日にかざすように、顔を上げた。その頬を、色のついた光が、静かに流れていく。彼女の目に、光るものがあった。
灯の目にも、熱いものが、こみ上げた。
(――守れた。あの手を。あの色を)
前世で、救えなかった背中があった。会議室の隅で、日に日に丸まっていった、名前も思い出せない、誰か。手が届かなかった。声が、かけられなかった。
でも、いまは。
「……よかった」灯は、フードの下で、涙を拭った。「ほんとうに、よかった」
通りに、職人たちの声が、戻りはじめていた。挨拶。笑い声。誰かが、新しい色の配合を、大きな声で言い合っている。しくじっても、もう、怒鳴られない。だから、試せる。
安心して物が言える場が、腕を育てる。
色硝子の街に、また一つ、灯がともった。
灯は、フードを目深にかぶり直し、朝日に輝く街を、そっとあとにした。神官としての旅は、まだ、続いていく。
■今回のオーダー
仕事を任せるかどうかは、その人の腕で決めるもの。男か女か、で決めてはいけないの。募集も、配置も、昇進も、学ぶ機会も、見るべきはその人の力。所帯や子を持つことを、役を外したり給金を下げたりする理由にしては、だめ。相談したことを理由に、不利に扱うのも、だめ。
厳しさと、人格を否定することは、別のもの。三つの物差しで見分けます。①強い立場から、②仕事の域を超えて、③働く場をこわす。この三つがそろったら、それはもう指導ではなく、人を傷つけているだけ。
雇う側には、方針をはっきり示して、相談の窓口を置く務めがあります。何かあれば、事実を確かめて、すぐに手を打つ。声を上げても大丈夫、と信じられる場でこそ、人は、また新しい色に挑めるから。
◇
■今回の学び(社労士試験対策)
・男女雇用機会均等法5・6条: 募集・採用、配置・昇進、教育訓練などで性別を理由とする差別を禁止。評価は性別でなく能力で。
・均等法9条: 婚姻・妊娠・出産等を理由とする不利益取扱い(解雇・降格等)の禁止。相談したことを理由とする不利益取扱いも禁止。
・パワハラ防止(労働施策総合推進法): ①優越的な関係を背景に ②業務上必要かつ相当な範囲を超え ③就業環境を害する——の3要素。事業主には方針の明確化・相談窓口の設置・事後の迅速適切な対応の措置義務。
◇
■一問一答(社労士試験の頻出論点から)
【問】妊娠中の女性労働者及び出産後1年を経過しない女性労働者に対してなされた解雇は、事業主が妊娠・出産等を理由とする解雇でないことを証明しない限り、無効とされる。(◯か✕か)
(答えは、次の話の一回めの後書きで)
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次回予告:第九話「暮らせる賃金」――羊毛の谷に、見覚えのある“証文”が戻ってきた。




