第八話 逆らえぬ空気(一)
街に入った瞬間、灯は思わず足を止めた。
窓という窓が、光っていた。ただの硝子ではない。赤、青、琥珀、菫。色を溶かし込んだ硝子が、朝の日差しを受けて、家々の壁に色とりどりの光の池をつくっている。石畳の上に、砕いた宝石をばらまいたようだった。
鍛冶の里を越えて、たどり着いた硝子細工の街。旅人の茶色いフードを目深にかぶり、埃っぽいマントを羽織った灯は、その美しさに、しばし見とれた。
(きれい……。こんな街に、病なんて)
そう思いかけて、灯は口をつぐんだ。
美しいのは、街だけだった。
通りを歩く職人たちの声が、やけに小さい。挨拶も、笑い声も、聞こえてこない。すれ違う者はみな、うつむき、誰かの顔色をうかがうように、そそくさと歩いていく。まるで、大きな声を出すことそのものが、罪であるかのように。
(――音がない。色はこんなにあふれているのに、この街には、声の色がない)
灯は、フードの下で、そっと眉を寄せた。前世でも、こういう職場に、幾度も足を運んだ。表向きは整っている。数字も悪くない。なのに、扉を開けた瞬間に、空気が張りつめている。人が、息を殺している。
病は、たいてい、そういう静けさの中にある。
◇
声のもとは、すぐに見つかった。
通りに面した、いちばん大きな工房。その開け放たれた扉の奥から、怒鳴り声が、街の静けさを引き裂いて響いてきた。
「何度言えばわかる! この色ムラが、貴様の腕の証だ! 恥を知れ!」
灯が扉の陰からのぞくと、炉の前で、若い職人がひとり、うなだれて立っていた。手には、割れた硝子の器。それを囲むようにして、七、八人の職人が、身じろぎもせずに床を見つめている。
叱っているのは、恰幅のいい中年の男だった。革の前掛け。太い腕。この工房の主、親方ガロだと、あとで知った。
「そんな腕で、よく職人を名乗れたものだ。俺が若い頃はな、失敗した器で、頭を殴られたものだ。それに比べれば――」
説教は、長かった。器の失敗の話は、いつのまにか、若者の生まれ育ちや、親の顔つきの話にまですり替わっていた。若い職人は、ただ「申し訳ありません」と繰り返す。ほかの職人は、誰ひとり顔を上げない。
「逆らってみろ。明日から、ここに立つ場所はないと思え」
その一言で、工房の空気が、さらに一段、重くなった。
(――逆らえない。逆らったら、明日の暮らしがなくなる。だから、みんな、黙るしかない)
灯の胸の奥で、遠い記憶が、ちらりと揺れた。硝子ではなく、灰色の壁。炉ではなく、青白い光。会議室の長机に、俯いた誰かの背中が、ひとつ。名前も、顔も、思い出せない。ただ、その背中が丸まっていく速さだけを、灯は覚えていた。
断片は一粒だけ落ちて、すぐに消えた。灯は、フードの端を握りしめた。
◇
工房の裏手、井戸のそばで、灯はその人に出会った。
女の職人だった。年の頃は、灯と同じくらいだろうか。すり切れた前掛けをつけ、山のように積まれた器を、黙々と洗っている。硝子を磨く布の使い方が、明らかに違った。無駄がなく、優しい。長年、硝子に触れてきた手だ、と、灯にもわかった。
「あの、お仕事中に、失礼いたします。わたくし、旅の者でございまして。この街の硝子が、あまりに見事でございますので……」
「――旅の方。めずらしい」
女は顔を上げ、少しだけ、やわらかい目をした。エルナ、と名乗った。
「この街のは、どれも自慢の品ですよ。私みたいな下働きが言うのも、なんですけど」
「下働き……? でも、その手」
灯は、思わず言っていた。
「あなたの手は、この街のどの職人さんより、硝子に慣れておられます。器の洗い方ひとつで、わかります」
エルナの手が、止まった。彼女は、洗いかけの器を見つめたまま、小さく笑った。
「……よして。買いかぶりです。私は、大きな仕事は任されません。窯入れも、色づけも、大事なところは、みんな男の職人がやります。私は、支度と、片づけと、掃除。ずっと、そう」
「あなたのほうが、お上手でもですか」
「腕は、関係ないんです」エルナの声は、静かだった。「女は、どうせ所帯を持てば辞める。だから、大きな仕事も、上の役も、任せる意味がない。――親方は、そう言います。この街では、それが、道理なんです」
道理。灯の胸に、その言葉が、ちくりと刺さった。
◇
その夜、旅籠の窓辺で、灯は迷った末に、荷の底からそれを取り出した。
王都のミラから届いた、手紙だ。徴税官として王都の帳簿を預かる彼女は、この街のことも、どこからか聞きつけていたらしい。几帳面な字のあとに、ひとことだけ、こう添えられていた。
『――もしご入用なら、その街の帳簿、私が一度で覚えて差し上げましょうか。数字は、人の暮らしですから』
一度見た帳簿を、丸ごと記憶してしまう娘。誰の給金が、誰より安く据え置かれているか。それを暴くのに、これほど心強い味方はいない。灯は、手紙を胸に当てて、ふっと笑った。
(ありがとう、ミラちゃん。……でも、今回はまず、この目で見てから)
このお告げは、一年、この街を縛る。だから灯は、いつも、数字より先に、人の顔を見ると決めていた。
◇
エルナの秘密を知ったのは、翌日の夕暮れだった。
仕事を終えたエルナが、人目を避けるように、街外れの小屋へ入っていくのを、灯はたまたま見かけた。声をかけようとして――窓の隙間から見えたものに、息を呑んだ。
エルナが、炉の前にいた。ひとりきりで。誰にも任されない、その手で。
彼女が細い管の先で、溶けた硝子を、そっと回している。息を吹き込み、指先で撫でるように形をととのえ、色を、一滴、また一滴と重ねていく。やがて出来上がったのは、親指の先ほどの、小さな硝子玉だった。
灯は、それが陽にかざされた瞬間を、忘れないと思った。
玉の中に、夕陽が、閉じ込められていた。橙から茜へ、茜から菫へ。空の色が、そのまま溶けて、小さな球の中で、静かに沈んでいく。まるで、この街の夕暮れを、そのまま一粒すくい取ったような。
「……きれい」
思わず声が漏れた。エルナが、はっと振り返る。灯は、慌てて小屋の戸口から中へ入り、頭を下げた。
「すみません。覗くつもりは……。でも、それ」
エルナは、恥ずかしそうに、硝子玉を手のひらに隠した。
「くだらないものです。仕事にもならない。誰にも見せたことは、ありません」
「くだらなくなど、ありません」
灯は、そばの棚に、いくつも並んだ小さな玉に気づいた。どれも、違う色の夕陽を宿している。何十日、何百日ぶんもの、この人だけの夕暮れが、そこに並んでいた。
「……これを作った手に」
灯の声が、少しだけ、掠れた。
「この手に、毎日、器を洗わせているんですね。この街は」
エルナは、答えなかった。ただ、手のひらの中の玉を、きゅっと握った。
◇
街の外れに、その工房の跡はあった。
崩れた石壁。抜け落ちた屋根。炉のあった場所には、雨に晒された灰と、割れた坩堝だけが残っていた。かつては、この街でいちばん名の知れた工房だったのだと、通りかかった行商人が教えてくれた。
ヴィム、と名乗るその男は、荷車を止め、しばらく黙って跡地を見つめてから、ぽつりと言った。
「……俺は、ここの弟子でした。若い頃にね」
「こちらの、でございますか」
「ええ。名工と言われた親方の工房だ。腕は確かでした。ただ――怒鳴る人でね。失敗すれば人前で罵り、逆らう者は追い出した。恐怖で、工房を回していた」
ヴィムは、割れた坩堝を、つま先で軽く転がした。
「不思議なもんです。怖いと、人はよく働く。しゃにむに手を動かす。だから最初のうちは、いい品が、たくさん出ました。親方も、それで名を上げた」
「……でも、滅びたのでございますね」
「ええ」ヴィムは、遠くを見た。「怒鳴り声は、人を黙らせます。旦那の言うことに、うんうん頷くだけになる。……そのうち、誰も、新しい色を出さなくなった。試して、しくじって、また試す。それができなくなった。黙った工房からは、新しい色が、生まれなくなったんです」
風が、跡地の灰を、かすかに巻き上げた。
「腕のいい奴から、順に出ていきました。恐怖じゃ、人は動かせても、育たない。……気づいたときには、もう、遅かった」
ヴィムは、荷車の柄を握り直した。
「今の街のあの工房も、同じ道を歩いてます。俺には、わかる。……あんた、旅の人。もし力があるなら、あの街を、こんなふうにしないでやってください」
◇
「これは、指導だ」
翌日、灯が工房を訪ねて問うと、親方ガロは、鼻で笑った。
「厳しさが、技を育てる。俺は、そうやって一人前になった。俺の工房から、何人の名工が出たと思っている。甘やかして、いい硝子が吹けるか」
「あの若い職人さんの、生まれや、親御さんのことまで、責めておられました。それも、技のためでございますか」
「……躾だ。根性がなっていないから、そこから叩き直してやっている」
「では、エルナさんは。誰よりもお上手なあの方に、雑用しかさせないのも、技のためでございますか」
ガロの眉が、ぴくりと動いた。
「女に、大仕事は任せられん。所帯を持てば、辞める。子ができれば、休む。教え込んだ端から、いなくなる。損だ。……道理だろう」
「道理」灯は、静かに、その言葉を繰り返した。「わたくしには、そうは、聞こえません」
■前の話の一問一答・答え合わせ
【問】産後8週間を経過しない女性であっても、産後6週間を経過した女性が請求した場合において、その者について医師が支障がないと認めた業務に就かせることは差し支えない。(◯か✕か)
【答】◯ 産後8週間を経過しない女性は原則就業させてはならないが、産後6週間を経過した女性が請求し、医師が支障がないと認めた業務に就かせることはできる(労基法65条2項ただし書)。
※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。




