第七話 明日の担い手(二)
灯は、ひとり、星空の下に正座した。旅先での、いつもの日課だ。顔の見えない女神に向かって、灯は今日も、業務報告をはじめた。
「本日の報告を申し上げます。鍛冶の里に着任。坑道にて、十歳の少年カイと接触。……あの、女神さま。ひとつ、ご報告が。本日、先生が、できました。十歳です。字を、教わりました」
言ってから、灯は自分の言葉に、少しだけ笑った。それから、笑いが、ゆっくりと消えた。
(あの子は、坑の底で、私に字を教えてくれた。あんなに賢い子が)
胸の奥に、いつもの温かさが、ふっと差した。顔の見えない、声のかすれた、けれど確かに温かいあの人が、すぐそばにいる気がする。低い声が、遠くで言う。
――民を思え。
灯は、目を閉じた。
(……はい。守られるべき人ほど、守られていない。だったら、まず、その人たちから)
◇
翌朝、灯はカイとイルゼ、そしてゲランを、炉端に集めた。
「カイさん」灯は、しゃがんで、少年と目の高さを合わせた。「あなたは、弱くなどありません。役立たずでも、ありません。……昨日、私に字を教えてくれました。あなたは、とても賢いです。それは、ほんとうです」
「……うん」
「ですから。私は、あなたに『働くな』とは言いません。あなたの誇りを、否定したくないんです。ただ――ひとつだけ、知っていてほしいんです」
灯は、坑道のほうを見た。
「体が育つ時間は、取り返せないんです。大人になってからは、いくらでも働けます。何十年でも。でも、育つ時間は、今しかありません。今のあなたの十年は、大人になってからの、その先の十年のためにあるんです。……坑の底で使ってしまったら、二度と、戻ってこないんです」
カイが、まばたきをした。
「ですから、女神のお告げでは、こう授けます。満十五になる年の終わりまでは、坑や炉の重い仕事には、つかせない。十八に満たぬ者は、夜の十時から朝の五時まで、働かせない。坑の底や、危うい務めにも、就かせない。――カイさんは、その時間で、うんと学んで、うんと眠って。それから、いちばんいい職人になればいいんです」
「……おいらでも、いい職人に、なれる?」
「なれます。誰よりも」
灯は、次にイルゼのほうを向いた。
「イルゼさん。母となる人は、産む前の六週間――双子なら、十四週間、求めれば休めます。産んだあとは、八週間、休ませます。求めれば、軽い仕事に代えてもらえます。重い荷や、危うい炉のそばからは、遠ざけます。……あなたと、お腹の子を、守る掟です」
イルゼは、しばらく、動かなかった。それから、両手でお腹を包み、うつむいて――肩を、震わせた。
「休んで……いいの? 私が、休んで」
「いいんです」
「……ずっと」イルゼの声が、途切れた。「ずっと、この子に、謝れなかった。ごめんね、こんなに揺らして、こんなに熱いそばに立たせて、って。……休んでいいって、言われて。やっと、この子に、謝れる」
涙が、イルゼの頬を伝って、大きなお腹の上に落ちた。
灯は、最後に、ゲランを見た。
「里長さん。人手は――工夫と、道具で、補ってまいりましょう。子どもと母を坑から出したぶんは、わたくしも、ご一緒に、回し方を考えます。それに」
「それに?」
「年を証す書きつけを、職場に備えてくださいませ。そして、働いた者の賃金は、たとえ親であっても代わりに受け取らせず、必ず本人の手に。……子どもが働いた対価は、子どものものでございます。それが、その子の、明日になるのでございます」
ゲランは、長いあいだ、黙っていた。それから、太い腕を組んで、うなった。
「……炉に風を送る仕掛けを、作り直せば。人ひとりぶんは、浮くやもしれん」
その顔は、もう、居直る責任者のものではなかった。知恵を絞る、里長の顔だった。
◇
満月の夜。
里の広場に、炉の火に照らされて、里人がひしめいていた。カイも、イルゼも、ゲランも、ネラ婆も、その中にいる。
灯は、白い神官の衣に着替え、月を見上げて、大きく息を吸った。
(私の一言が、一年間、この里を縛る。……でも)
坑の底で字を教えてくれた、傷だらけの手を思う。お腹に謝りたいと泣いた、母を思う。
(この子たちを、坑と夜から遠ざけられるなら)
「――女神のお告げを、授けます」
広場が、静まりかえった。
「育ちきらぬ者を、坑道と、夜に、立たせてはならない。危うい務めから、遠ざけよ。年を証し、働いた賃金は、必ず本人の手に渡せ。母となる者を、重荷と、危険から、遠ざけよ。求めるならば、休ませ、軽き務めに代えよ」
光の文字が、月明かりの下に、ゆっくりと浮かび上がった。
ざわめきが起きた。人手が足りぬのに、子と母を外すのか。里が回らなくなる――。不安の声を、灯は、一人ひとりに語りかけるように、静かに鎮めた。
「明日の担い手を守ることが、この里を守ることです」
ざわめきが、やんだ。
「今、若い芽を燃やせば、暖はとれます。けれど、次の薪は、育ちません。……この里が昔、そうして衰えたことを、忘れないでください。子らが育つ時間と、母が宿す命は――あとから、取り返せないのですから」
ネラ婆が、うつむいて、目もとを拭うのが見えた。
◇
数日後。
里は、変わっていた。
子どもたちは坑道を出て、里のはずれの学び舎に通いはじめていた。イルゼは、炉から離れた場所で、細かな飾り金具を磨く軽い仕事に代わっていた。炉の風送りには、ゲランの考えた新しい仕掛けが取りつけられ、少ない人手でも、風は絶えなかった。
灯が学び舎をのぞくと、カイが、机に向かっていた。
石板に、木炭で、文字を書いている。ひと文字、ひと文字、たしかめるように。灯が近づくと、カイは顔を上げ、まぶしそうに笑って、石板を掲げた。
そこには、たどたどしい、けれどはっきりとした線で、「カイ」と書かれていた。
「見て! おいら、坑の底じゃなくて、ちゃんとした机で、自分の名前、書けたよ! ……前より、上手くなったろ?」
灯の目から、涙がこぼれた。坑道の湿った地面ではなく、明るい学び舎の机で。この子は今、自分の名を書いている。
「……ええ。すごく、お上手です」灯は、涙を拭いながら、うなずいた。「生徒の私より、ずっと」
外では、槌の音が響いていた。以前より、張りのある、力のこもった音だった。しっかり眠り、しっかり学んだ手が打つ、明日の音だった。
◇
夕日が、鍛冶の里を、赤く染めていた。
バルコニーから里を見渡すと、坑道の入口の、あの小さな落書きが、夕陽に照らされていた。丸い顔。手をつないだ人。太陽。忘れられていた子らの、残していったもの。
(あなたたちの残した痛みは、忘れないよ。……そして、もう、繰り返さない)
灯の胸に、ふと、遠い王都の帳簿の少女――数字で人の暮らしを見抜く、あの徴税官の顔が浮かんだ。今ごろ王都で、また誰かの未払いを暴いているのだろうか。今度会ったら、この里の話をしよう、と思った。
里のまわりに、また一つ、加盟の紋章が灯った。エルデン王国の働き方憲章に、新たな一条が刻まれる。――年少者と、母となる者を、守る一条が。
(明日の担い手を守ることが、里を守ること)
前世では、うまく守れなかった。「大丈夫です」と言い張る人を。休んでいいと、言えなかった人を。手が届かなかった命が、あった。
でも、今なら言える。ここには、守れた未来が、笑っている。学び舎で名を書く子と、お腹の子に謝れた母と、張りの戻った槌の音が。
坑道の入口の落書きの上に、誰かが、新しい絵を並べて描いていた。丸い顔が、ひとつ、増えている。
■今回のオーダー
育つ時間は、取り返せません。満十五になる年の終わりまでは、坑や炉の重い仕事から遠ざけて。十八までは、夜十時から朝五時の仕事も、危うい務めもさせないで。年を証す書きつけを備え、働いた賃金は、親でなく、必ず本人の手に。
母となる人は、産む前は六週間、双子なら十四週間、求めれば休めます。産んだあとの八週間は、休ませて。求めれば軽い仕事に代え、重荷と危険から遠ざけて。守られるべき人ほど、いちばんに守るのです。
「働くな」と否定するのではなく、「今しかない時間がある」と伝えること。誇りを守りながら、未来も守る。明日の担い手を守ることが、この里そのものを守ることだから。
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■今回の学び(社労士試験対策)
・年少者の保護: 労基法56条=満15歳到達年度末までは原則使用禁止/61条=18歳未満の深夜業(22時〜5時)原則禁止/62・63条=危険有害業務・坑内労働の制限/57条=年齢証明書の備付け/59条=未成年者の賃金は本人に直接(親権者の代理受領不可)。
・母性保護: 労基法65条=産前6週(多胎14週)は請求で休業、産後8週は原則就業禁止(6週経過後は本人請求+医師が認めた業務のみ可)/65条3項=請求により軽易業務へ転換/64条の3=妊産婦の危険有害業務の就業制限。
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■一問一答(社労士試験の頻出論点から)
【問】産後8週間を経過しない女性であっても、産後6週間を経過した女性が請求した場合において、その者について医師が支障がないと認めた業務に就かせることは差し支えない。(◯か✕か)
(答えは、次の話の一回めの後書きで)
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次回予告:第八話「逆らえぬ空気」——美しい色硝子の街に響く、怒鳴り声。対等とハラスメント防止の話。




