第七話 明日の担い手(一)
炉の煙が、朝の空をまっすぐに立ちのぼっていた。
水路の町を越えて、春野灯がたどり着いたのは、槌の音が絶えない鍛冶の里だった。石造りの家々のあいだから、いくつもの炉の火がのぞいている。金物を打つ、澄んだ音。よく働く里だ、と、まず思った。
思ったそばから、灯の足がとまった。
坑道の入口に、靴が並んでいたからだ。労働者の履く、革の作業靴。それにまじって――やけに小さな靴が、二足、三足。子どもの足に合わせた、ちいさな、ちいさな靴が。
入口の壁には、炭のかけらで引いたらしい落書きが残っていた。丸い顔。手をつないだ人。太陽。子どもの手が描いたものだと、ひと目でわかる、たどたどしい線。
その落書きの上に、新しい坑道の埃が、うっすらと積もっていた。
(……古いものじゃ、ない)
灯の胸の奥が、ざわりとした。
◇
旅の埃を落とそうと里の広場に寄ると、炉端に鉄板が据えられ、香ばしい匂いが立っていた。焼いた餅だ。表面をこんがりと焼き、甘い味噌のようなたれを塗って、また焼く。じゅう、と音を立てて、たれが焦げる。
(……いけません。私は、任務中)
ぐう、とお腹が鳴った。
(……鳴りました。焼き餅さんに、罪はありません)
気づけば灯は、鉄板の前で焼き餅を両手で捧げ持ち、目を閉じていた。
(この一枚に宿りし、里の火と、練り手の技と、育った稲の恵みに――感謝を。いただきます)
ひとくち。外は香ばしく、中はとろりと熱い。甘いたれが、旅の疲れにしみわたる。じん、と目が潤んだところで、灯は、炉端の親父にまじまじと見られていることに気づいた。旅人がひとり、焼き餅を拝んでいるのだから、無理もない。
灯は残りを大事に平らげ、そそくさとその場を離れた。
◇
坑道の奥は、ひやりと湿っていた。
灯が旅人のフードのまま身をかがめて進むと、揺れる灯りの向こうに、小さな背中があった。籠を背負っている。中には、ごろりとした鉱石。大人でも重かろうその荷を、その子は歯を食いしばって運んでいた。
まだ、十を少し過ぎたくらいだろう。
「あなた……ここで、働いているんですか?」
灯が声をかけると、その子は籠を下ろし、袖で汗をぬぐって、誇らしげに笑った。
「うん! おいら、カイ。もう坑に入れるようになったんだ。夜も、交代で潜るんだよ。おいらが運んだぶん、里の炉が燃えるんだ。すごいだろ?」
夜も、と、灯は胸のなかで繰り返した。
「……夜は、何時までですか?」
「炉が忙しいときは、明け方まで。眠いけど、我慢できる。おいら、役に立ってるんだから」
役に立っている。その言葉を、この子は勲章のように口にした。
灯は、すぐには何も言えなかった。かわいそうに、と抱きしめて連れ出すのは、たやすい。けれど、この子は「働けること」を、自分の誇りにしている。その誇りを、頭ごなしに踏みつけていいはずがない。
「カイさん。ひとつ、聞いてもいいですか? あなた、字は……書けますか?」
「字?」カイはきょとんとして、それから胸を張った。「書けるよ! おいら、自分の名前だけは書ける。地面になら」
カイはしゃがんで、湿った地面に、木のかけらで文字を刻んだ。ゆがんではいたが、たしかに、この世界の文字だった。
灯は、内心でひやりとした。実のところ、灯はまだ、この世界の文字がうまく書けない。前世の癖で、つい別の字を書いてしまう。
「……お上手です。あの、この字は、どう書くんですか?」
「えー、おばさ……じゃなくて、旅のお姉ちゃん、字、書けないの?」カイは得意げに、灯の手をとった。「しょうがないなあ。教えてやる。ここをこう、はらって、とめる」
坑道の底で、十歳の少年に手をとられて、文字を教わる。灯は、なんともいえない気持ちで、けれど真剣に、その線をなぞった。カイの指は、鉱石で荒れて、あちこち傷だらけだった。
この手が、と灯は思う。この、字を教えてくれる賢い手が、毎晩、坑の底で鉱石を運んでいる。
◇
鍛冶場に戻ると、身重の女性が、鉱石を担いでいた。
お腹はもう、はっきりと大きい。それでも彼女は、重い籠を背負い、燃えさかる炉のすぐそばを、汗だくで行き来していた。
「……大丈夫、ですか。休まなくて」
思わず駆け寄った灯に、女性は――イルゼと名乗った――力なく笑った。
「休む? 産むまでは、働くものでしょう。みんな、そうしてきたもの。私だけ休むなんて、言えないわ」
炉の炎が、彼女の横顔を赤く照らす。火の粉が、時おり、その足もとに散った。
「それに」イルゼは、自分のお腹にそっと手を置いた。「この子が生まれたら、もっとお金がいる。今のうちに、働いておかないと」
その手つきは、たしかに我が子を思う母のものだった。けれど、その母を、いちばん重い荷と、いちばん危うい火のそばに立たせているのは、いったい誰なのか。
(守られるべき人ほど、守られていない)
灯の前世の記憶が、ふいに一粒、こぼれ落ちた。青白い顔で「大丈夫です」と繰り返していた、誰か。大丈夫じゃなかったのに、大丈夫だと言い張るしかなかった、誰か。輪郭だけの、救えなかった人。
灯は、ぎゅっと手を握った。
◇
里の古い記録は、埃をかぶった書庫の奥にあった。
番をしていたのは、ネラ婆という老女だった。灯が事情を話すと、婆は無言で、色あせた帳面を開いてみせた。
そこには、名前が並んでいた。子どもの名だ。何人も、何人も。名の下には、短い覚え書きが添えてある。――坑にて。十二。炉の風送りにて。十一。
「みんな、坑や炉で働いた子らの名さ」ネラ婆の声は、乾いていた。「そして、その多くが……大人になる前に、体を壊した。腰を、肺を、目を。ひとりで槌も持てぬ体になって、この里を出ていった」
灯は、帳面の名を、そっと指でなぞった。壁の落書きが、脳裏によみがえる。丸い顔。手をつないだ人。太陽。
「あの、坑の入口の落書きは……」
「あの子らが、残していったものさ。……忘れられた痛みだよ」
灯は、それ以上、掘るのをやめた。掘り返せば、この婆の心まで抉ってしまう気がした。ただ、その名の並びだけを、胸に刻んだ。
◇
里長のゲランは、大柄な、疲れた顔の男だった。
「人手が足りぬのだ」灯が坑道の子らのことを問うと、ゲランは苛立たしげに言い返した。「注文はひっきりなしに来る。だが、腕のいい職人はどんどん減る。人が要る。子どもだろうと、身重だろうと、働けるうちは戦力だ。それの何が悪い」
悪人ではない、と灯は思った。この男は、里を潰すまいと必死なだけだ。追い詰められた責任者の顔を、灯は前世でも幾度も見た。
「里長さん。人が減っているのは……なぜだと、お思いでございましょう」
「知らん。若い者が里を出ていくからだ」
「その若い者は、なぜ、腕のいい職人になれなかったのでございましょう」
ゲランが、言葉に詰まった。
◇
その夜、ネラ婆が、灯のもとを訪ねてきた。
「里長を、責めるでないよ」婆は、炉の残り火のそばに腰を下ろした。「あの人も、追われているのさ。だがね、旅の人。この里が、なぜこんなに職人不足に陥ったか……わしは、知っている」
婆は、しわだらけの手を、火にかざした。
「昔、この里は栄えていた。注文が増えて、手が足りなくなって……里は、いちばん安く使える手を使った。子どもと、身重の女さ。安く、文句も言わず、よく働く。里は、そうやってしのいだ。しのいで、しのいで――そして、気づいたときには」
火が、ぱちりと爆ぜた。
「育つはずだった子らは、育つ前に、体を壊していた。十年、坑で使い潰せば、そのぶん、十年後の職人が、消える。宿すはずだった命も、無理をして、幾つも失われた。……若い芽を、燃やして暖をとったのさ。暖はとれた。だが、次の薪が、育たなかった」
灯は、じっと火を見つめた。
「若い労働力を、安い資源として使い潰した里は……次の世代の担い手を、失って、衰えるのですね」
「そういうことさ」ネラ婆は、静かにうなずいた。「今のゲランを苦しめている人手不足は、昔のこの里が、自分で撒いた種なのさ」
■前の話の一問一答・答え合わせ
【問】労働契約法第5条の安全配慮義務は、労働契約書や就業規則にその旨の定めがある場合に限り、使用者が負うものである。(◯か✕か)
【答】✕ 使用者は、労働契約に伴い、労働者が生命・身体等の安全を確保しつつ労働できるよう必要な配慮をするものとされる(労契法5条)。行政解釈では、労働契約に特段の根拠規定がなくとも、労働契約上の付随的義務として当然に負うとされている。
※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。




