第六話 守れたはずの命(二)
その日から、灯は職人たちと、一枚の板に向かった。
現場の隅、石を削る作業場の片隅に、灯は大きな板を立てかけ、炭で線を引いた。前世で、安全点検の表を、何十枚と作ってきた。その手が、自然に動いた。
「まず、決めましょう。この現場で、命を守るために、要ることを」
灯は、板に一つずつ、書き込んでいった。
「高いところで働くなら、腰に命綱。足場の外側には、落ちないための囲い。足場を組む縄は、乾いてささくれたものは使わない。頭を守る、固い帽子。……そして、危ない作業には、慣れた者が、正しいやり方を、ちゃんと教えてから。教わってもいないのに、いきなり危険な仕事をさせない」
「そんなに……いいのか」若い職人が、おずおずと言った。「そんなに、手間をかけて」
「いいんです」灯は、うなずいた。「人を働かせる者には、その人の命と体の安全に、心を配る義務があります。囲いを備え、命綱を用意し、正しいやり方を教える。これは、優しさではありません。義務です。……事故は、起きてからでは、遅いんです」
職人たちが、板を囲んで、めいめいに書き足していく。「ここの足場は、風の日は組み直す」「重いものを吊るときは、下に人を入れない」――現場を知る者たちの言葉が、点検表を、生きたものにしていった。
そのとき、年かさの職人が、ふと、暗い顔で言った。
「けど……ヨナスは、どうなる。あいつ、しばらく働けねえ。脚が治るまで、稼ぎがない。妻子は、どうやって食っていくんだ。うちの現場に、そんな蓄えなんぞ、ねえぞ」
場が、しんとなった。それは、みなの胸にある、いちばん重い問いだった。落ちたら、終わり。稼ぎが止まれば、家族が飢える。だから、危ないと分かっていても、命綱を外してでも、働くしかなかった。
「――それを、ひとりに背負わせないための、仕組みがあります」
灯は、板の隅に、傘のような絵を描いた。
「仕事が原因のけがや病気、通う道での事故を、皆で支える備えです。ヨナスさんのように、仕事で倒れた人には、治療のお金が支えられます。そして、働けないあいだも、暮らしが立つように、失った稼ぎの、およそ八割が支えられます」
「八割……」職人のひとりが、目を見張った。「そんな仕組みが、あるのか」
「あります。原則、すべての職場が、この備えに入ります。……そして大事なのは、その掛け金は、働く人ではなく、働かせる側が、払うということです。人を使って利を得る者が、その人を守る備えの費えも、持つ。それが、筋だからです」
灯は、いつか聞いた古い話を思い出していた。昔、争いの絶えなかった地に、賢い調停者が現れて、諍いを鎮めるために、皆から少しずつ集めて「守りの盾」を作ったのだという。ひとりが倒れたとき、その盾が、家族ごと崩れるのを、防ぐ。ひとりの不運を、皆で、少しずつ分け合って、支える。
「万一を、その人ひとりの家に、まるごと背負わせない。皆で、少しずつ持つ。……そういう盾です」
年かさの職人が、深く、息をついた。
「そんな盾が、あったなら。……昔、あの水路で落ちた連中も、その家族も、こんなに、ばらばらにならずに、すんだかもしれねえ」
「ええ」灯は、静かにうなずいた。「そして、もし治って、体に傷が残っても、その後の暮らしを支える給付があります。もし――万一、還らなかったとしても、遺された家族への支えがあります。支えの重さは、傷の重さによって、変わります」
そこは、灯は、深くは語らなかった。傷の重さを測るということの重み。それを軽々しく口にすることを、灯は、なぜか、ためらった。ただ、事実として、そっと置いた。
「なにより」灯は、板に書いた点検表を、指した。「事故が起きたら、必ず、原因を調べます。なぜ落ちたのか。何が足りなかったのか。そうして、二度と、同じことを起こしません。……守れたはずの命を、次に、生かすんです」
◇
その夜、灯は、療養するヨナスの家を訪ねた。
小さな、けれど手入れの行き届いた家だった。寝台のヨナスの脇で、妻のネルが、幼子をあやしていた。ヨナスは、灯の顔を見ると、包帯だらけの体で、頭を下げようとした。
「神官さま……あんたが、俺を。……ありがとう、ございます」
「無理なさらないでください。寝ていてください」
灯は、持ってきた果物を、剥こうとした。せめて、何か、してあげたかった。小刀を握り、赤い実に刃を当てる。――が、これが、絶望的に、うまくいかない。前世でも、料理はからきしだった。皮は分厚くえぐれ、実は半分ほどが刃とともに削り取られ、しまいには、まん丸だったはずの果物が、ごつごつとした、正体不明の多面体になっていた。
「あ……あの、これは、その、こういう、剥き方も、あって」
寝ているヨナスが、ぷっと吹き出し、そして「いてて」と脇腹を押さえた。ネルが、たまらず口もとをおさえて笑い、そっと灯の手から小刀を取った。
「神官さま。……ここは、わたしに」
「……お願い、します」
灯は、真っ赤になって、小刀を手渡した。ネルの手の中で、果物は見る間に、つやつやとした花のような形に剥かれていく。小さな笑いが、重い一日の終わりに、ほんの少しだけ、温かい灯をともした。
やがてネルは、灯を戸口まで見送りに出て、ふと、声を落とした。
「事故のこと、聞いたとき。……わたし、この子を抱いて、現場まで、走りました。石だらけの道を、裸足で。夫が、生きてるのか、死んでるのか、わからなくて」
ネルの目に、涙が盛り上がった。
「生きてるって聞いたとき、腰が抜けて、その場に、座り込んでしまって。……神官さま。あの人を、助けてくださって。……本当に」
言葉が、続かなかった。灯は、そのふるえる肩に、そっと手を置いた。灯の目にも、熱いものがこみあげていた。けれど、ここで一緒に泣いてしまう前に、灯は、心に決めていた。
(もう、この人に、こんな思いをさせない。……この町の、誰にも)
◇
満月の前夜。灯は、いつものように、星空に向かって正座した。旅先から女神へ、その日の報告を上げるのが、いつしか毎晩の習わしになっていた。
「本日の報告です。落ちた職人、ヨナスさんは、快方に向かっております。現場の点検表、無事、成りました。……ですが」
報告の言葉が、そこで、途切れた。
灯は、膝の上で、両手を握りしめた。
(明日、私は、お告げを授ける。……それは一年間、この町を縛る。破ろうとしても、体が動かない。間違っていても、私にさえ、取り消せない)
その重さが、いつにも増して、灯の肩に、のしかかっていた。労働時間のときも、賃金のときも、怖かった。けれど、今度のは、種類が違う。今度、灯が言葉を誤れば――誰かの、命が、かかっている。
(もし、私の言葉が足りなくて、また誰かが落ちたら。もし、私の言葉が過ぎて、この町の暮らしが立ちゆかなくなったら)
崩れた大水路の、灰のような沈黙が、まぶたに浮かんだ。あの骨の山を、増やしてはならない。けれど、増やすまいと力めば力むほど、言葉の一つひとつが、重くて、震えた。
膝を抱えてうずくまった灯の胸に、そっと、あの温かさが差してきた。顔の見えない、声のかすれた、けれど確かに温かいあの人が、すぐそばにいる気がした。手のひらに、大きな手が、重なる。
――民を思え。
その言葉だけが、霧の向こうから、まっすぐに届いた。
(……そうだ。怖いのは、間違えることじゃない)
怖いのは、危ないと分かっていて、口をつぐむことだ。「事故はつきもの」と、目をそらすことだ。あの崩れた大水路のように、痛みを、また忘れてしまうことだ。
灯は、涙を拭って、立ち上がった。
「……先生。私、やります」
◇
満月の夜。
建設現場の広場に、白い衣の灯が立った。集まった民の中に、監督の姿もあった。職人たちも、ネルも、幼子を抱いて、いた。松明の火が、静かに揺れている。
灯は、大きく息を吸った。
「――女神のお告げを、授けます」
広場が、しんと静まりかえった。
「働く人の命を、何より先に、守りなさい。危険を防ぐ備えを、決して省いてはなりません。命綱を、囲いを、正しい教えを。……そして万一のときは、皆で支える備え――労災で、その人と、その家族を、支えなさい」
光の文字が、広場の上に、ゆっくりと浮かびあがった。
民が、ざわめいた。工期は。間に合うのか。そんな手間をかけて。――不安の声が、さざ波のように広がる。灯は、その一人ひとりに語りかけるように、続けた。
「速く造ることより、大切なことがございます」
ざわめきが、やんだ。
「それは、造る人が、みんな、無事に、家に帰ることでございます。急いで造って、人が死んで、崩れて打ち捨てられた水路を、わたくしは見ました。……速さのために命を削る道は、結局、水路も、人も、失うのでございます」
灯は、崩れた大水路のある、丘のほうへ、目を向けた。
「守れたはずの命を、もう、失わせない。……それだけは、この町から、始めさせてください」
監督が、うつむいて、拳を握るのが見えた。ネルの腕の中で、幼子が、小さく声をあげた。
◇
数日後の朝。灯は、また旅装のなりで、現場を訪れた。
そして、その光景に、思わず立ちすくんだ。
足場の外側には、しっかりとした囲いが張られている。高いところで働く職人たちの腰には、一人残らず、命綱がつながれていた。乾いた縄は取り替えられ、危ない作業のまえには、慣れた者が若い衆に、手取り足取り、やり方を教えている。工期より、命が、先に置かれていた。
持ち場へ向かう職人たちが、朝日の中で、声をそろえていた。
「――全員で、家に帰るぞ」
「おう!」
それが、この現場の、新しい合言葉になっていた。誰ひとり欠けず、みんなで家に帰る。ひとりの命を、駒とは呼ばない。代わりのきく者でもない。――ひとりの人間として、その帰りを、家族が待っている。
現場の隅で、脚に添え木をあてたヨナスが、杖をついて、みんなを見送っていた。まだ働けはしない。けれど、その顔には、血の気が戻っていた。労災の支えで治療を受け、稼ぎの八割が届いて、ネルと子は、飢えずにすんでいるのだという。
灯に気づくと、ヨナスは、まぶしそうに笑った。
「神官さま。俺、あと少しで、戻れそうです。……戻ったら、今度は、若い奴らに教える側になる。命綱は、外すもんじゃねえって。……あんたが、教えてくれたことを」
灯の目から、こらえきれずに、涙がこぼれた。
もう、堪えなくていい。ここには、守れた未来が、朝日の中で、歩いている。誰も欠けずに、水路は、また、少しずつ、伸びはじめていた。
◇
夕暮れ。灯は、丘の上から、伸びゆく水路と、その向こうの崩れた古い大水路を、並べて眺めていた。
崩れた大水路の、灰のような沈黙は、まだ、そこにある。けれど、もう、忘れられた痛みではない。あの骨のような石組みが教えてくれたことが、いま、新しい水路の、一本一本の命綱に、姿を変えている。
(痛みは、忘れるためじゃなく、繰り返さないために、覚えておくもの)
安全とは、事故が起きてから嘆くことではない。先に手を打つこと。そして、それでも起きてしまう万一を、倒れたひとりに、まるごと背負わせないこと。
エルデン王国の周りに、また一つ、灯がともった。灯は、赤く染まる水路の道を見つめて、静かに息をついた。
丘を下りるとき、風が、新しい水路の縁を渡っていった。掛け渡された命綱が、いっせいに、細く鳴った。
■今回のオーダー
雇う人には、働く人の命と体を守る義務があります。命綱や囲いを備え、危ない作業には、ちゃんとやり方を教えてから。危ないと分かっている仕事を、危ないまま人にやらせないで。事故は、起きてからでは遅いのです。
それでも、万一のときのために、労災という盾があります。仕事や通う道での、けがや病気を、みんなで支える仕組み。治療のお金が届き、働けない間も、稼ぎのおよそ八割が支えられます。掛け金は、働かせる側が払う。ひとりの不運を、その家に、まるごと背負わせないためです。
そして、事故が起きたら、必ず原因を調べて、二度と繰り返さないこと。傷が残れば、その後の暮らしを支える給付もあります。守れたはずの命を、嘆いて終わりにせず、次の誰かの命に、生かしてください。
◇
■今回の学び(社労士試験対策)
・労働契約法5条(安全配慮義務): 使用者は労働者の生命・身体の安全に配慮する義務を負う。
・労働安全衛生法: 危険防止の措置・保護具・安全衛生教育。危険業務には特別教育や資格が必要。
・労災保険: 業務災害・通勤災害を広く補償。療養(補償)給付、休業(補償)給付は給付基礎日額の約8割(特別支給金含む)。原則すべての事業が強制加入、保険料は全額事業主負担。障害が残れば障害給付(等級による)、死亡時は遺族給付。
関連判例: 川義事件・陸上自衛隊八戸車両整備工場事件(安全配慮義務の確立)
◇
■一問一答(社労士試験の頻出論点から)
【問】労働契約法第5条の安全配慮義務は、労働契約書や就業規則にその旨の定めがある場合に限り、使用者が負うものである。(◯か✕か)
(答えは、次の話の一回めの後書きで)
◇
次回予告:第七話「明日の担い手」——坑道の入口に、小さな靴が並んでいた。年少者と母性を守る掟の話。




