第六話 守れたはずの命(一)
その音を、灯は一生、忘れないだろうと思った。
乾いた木が裂ける音。縄がぶつりと切れる音。そして、高いところから、重いものが落ちる音。
国境の町を越え、灯が巨大な水路を築く建設の町に着いたのは、朝もやのまだ晴れきらない時刻だった。天を裂くように組まれた足場の上で、大勢の職人が汗を流している。その光景に見とれていた、まさにその瞬間だった。
足場の一角が、ぐらりと傾いだ。
「――上っ、崩れるっ!」
誰かの叫びと、板の裂ける音が重なった。組み上げたばかりの足場が、内側から折れるようにたわみ、そこに立っていた人影が、宙に投げ出された。命綱は、なかった。落ちていく体を、受け止めるものは、何もなかった。
地面が、鈍く鳴った。
灯は、考えるより先に走り出していた。旅装のフードが風にはためく。人だかりをかき分けて、崩れた足場の下へ滑り込むと、石屑と木片の中に、ひとりの男が横たわっていた。若い。まだ二十代だろう。土埃にまみれた顔から、血がひとすじ流れている。
「動かさないでください! 首と背中に、触れないでください!」
灯の声が、現場に響いた。前世で、労災の現場に何度も立ち会った。倒れた人を下手に動かせば、助かる命も助からない。それを、体が覚えていた。
「息はある。……息はあります。誰か、板を! 平らな板を持ってきて、そっと、体の下へ!」
男の胸が、浅く、けれど確かに上下していた。灯は震える指を、その手首に当てた。脈が、ある。弱いが、ある。
(生きてる。……お願い、このまま、生きて)
やがて数人がかりで男が運ばれていく。その背を見送りながら、灯は膝から力が抜けそうになるのを、こらえた。もやの晴れた青空が、何事もなかったように、広がっていた。
◇
男は、命を取り留めた。
脚を折り、肋骨を傷め、頭を強く打っていたが、町の癒し手の見立てでは、いずれ歩けるようになるだろうという。その報せに、現場のあちこちで、詰めていた息が漏れた。
けれど、灯の胸は晴れなかった。
崩れた足場を、灯はもう一度、下から見上げた。組んだ丸太を縛る縄は、乾ききって、ささくれ立っている。足場の外側には、落下を防ぐ囲いが、どこにもない。高いところで働く者の腰に、命綱の一本もつながっていない。
「……これは」
灯は、そばにいた年かさの職人に、そっと尋ねた。
「あの方、命綱は、着けておられなかったのですか」
職人は、気まずそうに目をそらした。
「着けてたよ、朝は。……けど、外させられた。命綱は動きが鈍る、邪魔だってな。この工期じゃ、そんなもん着けてたら間に合わねえって、上が」
「邪魔、だから、外した」
灯は、その言葉を、口の中で繰り返した。喉の奥が、ひやりと冷たくなる。
「囲いも、ないのでございますね」
「金と手間がかかる。あとで付ける、あとで、って言われて、あとが来ねえのさ」
無理な突貫。安全の軽視。命綱も、囲いも、足りていなかった。危ないと分かっていて、誰も止められなかった。――事故は、起こるべくして起きたのだ。
落ちた男の名は、ヨナスといった。年かさの職人が、ぽつりと教えてくれた。二年前に所帯を持ったばかりで、去年、子が生まれたのだと。
「いい奴だよ。……あいつ、命綱を外せと言われたとき、渋ってた。うちにゃまだ乳飲み子がいるからって。それでも、逆らえなかった。逆らえば、明日から仕事がねえ」
灯は、何も言えなかった。ただ、握った拳の中に、爪が食い込んでいた。
◇
現場監督の詰所は、資材の積まれた小屋だった。
監督は、恰幅のいい中年の男で、灯が神官だと名乗っても、面倒そうに眉を寄せただけだった。事故のことを問うと、彼は帳面から顔も上げずに言った。
「運が悪かったのさ。ああいうのは、ある」
「命綱を、外させたと伺っております」
「工期があるんだ、神官さま」男は、さも当然という顔をした。「上からは、月が満ちるまでに水を通せと言われてる。命綱だ囲いだと手間をかけてたら、間に合わん。多少の無茶は、しかたない」
「多少の、無茶」
「倒れたら、代わりを入れればいい。手の空いた男は、いくらでもいる。ひとり欠けたくらいで、水路は止まらんのだ」
灯の中で、何かが、音を立てて冷えていった。
倒れたら、代わりを入れればいい。――人の命が、積み上げた石より軽く扱われている。ヨナスの手首で、たしかに脈打っていた、あの弱い鼓動が。乳飲み子の待つ家が。それらのすべてが、この男の帳面の上では、「代わりのきく駒」の一つでしかなかった。
(……前世で、いちばん憎んだ言葉だ)
危ないと分かっていて、誰も止めなかった。倒れても、代わりがいる。その理屈が、どれだけの人を、静かに壊してきたか。灯は、それを知っていた。「大丈夫です」と笑っていた人。「代わりはいる」と言われ、使いつぶされていった、たくさんの背中を。
灯は、拳を握った。けれど、ここで声を荒らげても、この男の帳面は書き変わらない。灯は奥歯を噛んで、詰所を出た。
◇
その足で、灯は町の外れへ向かった。人に道を尋ねると、みな一様に、少しだけ顔を曇らせて、丘の向こうを指さした。
そこに、それはあった。
崩れた、古い大水路。
いま築いているものよりずっと古い、けれど同じように壮大だったであろう水路の跡が、なかばまで崩れ落ちて、草に埋もれていた。石組みは無残に裂け、渡された橋げたは折れて、谷の底へ突き落ちている。夕暮れの光の中で、それは、巨大な獣の骨のように見えた。
その崩れた石の上に、ひとりの老人が腰かけていた。日に灼けた、皺だらけの顔。土に汚れた手。長く石を積んで生きてきた者の手だと、灯にはわかった。
「あの水路のことを、ご存じですか」
老人は、しばらく答えなかった。それから、崩れた石を、しわだらけの手でそっと撫でて、低い声で語りはじめた。
「……わしが、まだ若い時分の話でさ。この水路も、急いで造られた。水を早く通せ、通せと、上が急かしてな。足場は粗く、命綱もろくにない。危ないと言う者もおったが、工期が、工期が、とそればかりで」
老人の目が、遠くを見た。
「ある日、大きな足場が、崩れました。一度に、大勢が落ちた。……助かった者も、おりました。けれど、多くは、還らなんだ。若い衆が、多かった。みな、家に、待つ者がおったろうに」
風が、崩れた石の間を、ひゅうと吹き抜けた。
「そうして造りかけた水路は、崩れて、こうして打ち捨てられました。急いだあげく、水も通らず、人だけが死んだのです。……痛みは、忘れられました。誰も語らんようになった。そうして今、また、同じことが、繰り返されようとしておる」
灯は、崩れた大水路を見上げた。灰のような沈黙が、その骨のような石組みの間に、静かに漂っていた。ここで倒れた人々の痛みは、語られることもなく、ただ石の下に埋もれている。そして、その痛みが忘れられたから、また、ヨナスが落ちた。
「……忘れては、いけなかったんです」
灯は、つぶやいた。倒れた人たちの痛みは、忘れるためにあるんじゃない。二度と繰り返さないために、覚えておくためにある。
◇
翌朝、灯はもう一度、監督の詰所を訪ねた。
「事故の原因は、はっきりしております」灯は、静かに言った。「命綱がございませんでした。囲いがございませんでした。乾いた縄で足場を組ませました。……防げた事故でございます。天災ではございません」
監督は、鼻で笑った。
「神官さま。あんた、現場を知らんな。危ない仕事に、事故はつきものだ。石を積む男は、そういう覚悟でここに来てる。いちいち泣いてたら、水路なんぞ、いつまでたっても造れんよ」
「事故は、つきもの」
「そういうもんさ」
灯は、監督の目を、まっすぐに見た。声を荒らげはしなかった。むしろ、その声は、これまでよりずっと静かだった。だが、静かだからこそ、その底で燃えているものが、はっきりと伝わった。
「――防げる事故を、つきものと呼ぶのは、おやめください」
監督の笑いが、止まった。
「危ない仕事だからこそ、備えるのでございます。危ないと分かっているものを、危ないまま人にやらせて、落ちたら『つきもの』と言う。それは、覚悟ではございません。ただの、見殺しでございます」
灯は、崩れた大水路のほうへ、手を向けた。
「あの丘に、崩れた古い水路がございます。昔、同じように急いで、同じように安全を省いて、大勢が死んだ跡でございます。あなたが今、繰り返そうとしておられるのは、それでございます。……もう一度、あの骨の山を、増やすおつもりですか」
監督は、何かを言い返そうとして、口を開き――そして、閉じた。灯の背後に、いつのまにか、大勢の職人たちが集まっていた。みな、じっと監督を見ていた。その目に、これまで押し殺してきた声が、はじめて宿っていた。
■前の話の一問一答・答え合わせ
【問】労働者が退職時の証明書として使用期間と賃金のみを請求した場合であっても、解雇された労働者については、使用者は証明書に解雇の理由を記入しなければならない。(◯か✕か)
【答】✕ 退職時等の証明書には、労働者の請求しない事項を記入してはならない(労基法22条3項)。解雇の理由も、労働者が請求した場合に限って記入する。
※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。




