幕間 線を引く手(二)
ガウェインは、新しい頁をひらき、筆をとった。
縦に、罫を引く。名の欄の隣に、まず一本。理由を書く欄である。その隣に、もう一本。告げた日を書く欄である。三十日を数えるには、告げた日が書いてなければ始まらない。その隣に、さらに一本。次の道の欄。行き先の当てと、渡した証しのことを書く。……たった三本の罫である。三本引くのに、ガウェインは三度しくじった。剣だこの手に、筆は小さすぎる。息を止めてひと息に引けば、線は走りすぎて頁の端を突き抜け、ゆっくり引けば、波を打った。四度めに、剣の構えを借りることを思いついた。切っ先を紙に置いて、手前へ引くのではなく、向こうへ押して進める。突きの要領である。ようやく、使える三本が引けた。
引きながら、三十日、という日数のことを考えていた。
三十日前に告げよというのは、切られる側に支度の日数をやるための決まりである。それは分かる。だが、引いてみて分かったことがもう一つあった。三十日前に告げるということは、切ると決めた男と、そのあと三十日、毎朝の並びで顔を合わせるということである。告げた口で号令をかけ、告げた目で教練を見て、告げた手で三十日ぶんの飯を食わせる。即日で追い出すやり方は、切られる側に酷なだけではなく、切る側にとって、楽だったのだ。告げたその日に顔が消えるから、切った痛みを翌朝に持ち越さずに済む。あの楽さの分だけ、こちらの心は錆びずに済んでいたつもりで、ほんとうは楽をした分だけ、別のところが腐っていた。三十日は、切られる側の橋であると同時に、切る側が自分の決めた線と三十日向き合わされる、その日数でもある。よくできた決まりだと、ガウェインは思った。楽をさせない決まりは、たいてい、よくできている。
引き終えて、しばらく眺めた。
妙なものだった。線を引くという同じ仕業で、これまでは名を消してきた。今夜の三本は、名を消さないための線である。名の隣に立って、名を守る柵のように並んでいる。同じ手で引いても、線というものは、引きようで、墓標にも柵にもなるのだった。
◇
それから、ガウェインは、控えの束を出した。
この幾月かに、印で切った者たちの控えである。焼き捨てる気になれずに、幕の櫃の底へ重ねてあった。一枚ずつ、卓に並べる。名を、新しい頁に書き写していく。線を引くためではない。今度は、理由の欄を埋めるためである。
埋まらなかった。
どの名の理由の欄も、白いままだった。当たり前である。理由を知らされずに切ったのだから、書けるはずがない。白い欄が縦に並ぶのを、ガウェインは長いこと見下ろした。まっすぐな線より、白い欄のほうが、よほどこたえた。線は、引いた覚えがある。この白さには、覚えすらない。覚えのないまま人の暮らしを断っていたということが、白い欄の数だけ、静かに並んでいる。井戸端の噂に聞いた、理由を知らされぬまま町を追われて街道の果てへ消えたという元衛兵のことも、思い出した。あの男が誰の帳面のどの行にいたのかすら、ガウェインは知らない。知らないということが、この幾月の切り方の、そのものの形だった。
一枚の控えの前で、手が止まった。
ブラムという兵の控えである。槍の型は正確で、力もあり、真面目さでいえば陣で三本の指に入る。ただ、隊で動かすと、いつも半歩遅れた。壁の上で横に薙ぎ払うとき、右隣との間合いが半歩ぶんだけ開く。開いた半歩に敵が入れば、右隣が死ぬ。見えていた。指揮の台から、何度も見えていた。見えていて、言わなかった。呼んで、見せて、直させるのは、暇のかかる仕事である。切るのに理由の要らない陣では、直させる暇より、切る早さのほうが上等とされていた。上等とした側に、自分もいた。
ガウェインは、ブラムの名の理由の欄に、はじめての文字を書き入れた。
連携、半歩遅れる。直せる。……書いてから、次の道の欄に、もう一言足した。探す。町の広場に、追われた者たちが身を寄せていると聞いている。子を二人抱えた男が、遠くへは行けまい。
書いてみて、気づいたことがある。
この三十幾年、ガウェインは、兵の悪いところを数えて生きてきた。型の崩れ、間合いの甘さ、夜番の居眠り。直させるために数えるのだから、それでよいと思ってきた。だが、証しを渡せという昨夜の掟を思い返しながらブラムの控えを眺めていると、この男について自分が言えることが、半歩の遅れのほかにいくらでもあることに気づいた。荷役の列を組ませれば誰よりも早い。若い兵の槍の稽古に、頼まれもせずに残る。雨の夜番を、三度、人と代わってやっていた。……どれも見て知っていて、どこにも書いたことがなかった。悪いところは直させるために数え、良いところは当てにするだけで数えない。それが陣の帳面というものだった。働いた証しというのは、つまり、良いところを書く紙のことである。書いたことのない種類の紙だが、書けないはずはない。材料なら、この目が三十年ぶん持っている。
探して、どうする。
筆を置いて、自分に問うた。切った男をもう一度呼び戻すなど、聞いたことがない。だが、昨夜の神官は言っていた。理由を言えるということは、直す道を示せるということだ、と。理由が、いま、はじめて書けた。書けた理由は、直せる理由だった。ならば、道は示せる。聞いたことがないのは、誰もやらなかったからにすぎず、やってならぬという決まりは、どこにもない。明日の朝の教練が終わったら、町へ人をやる。ガウェインは、そう決めて、控えの束を櫃へ戻した。戻す手が、来たときより軽かった。
◇
夜半に、従卒が王都からの文袋を届けに来た。
「団長。王都より、定めの袋にございます」
「置いていけ。……ご苦労だった。もう休め」
紐を解く前に、ひと呼吸置くのが、この幾月の癖になっていた。印つきの名簿は、いつ入っているか分からないのである。月に二度続いたこともあれば、ひと月あいだの空いたこともある。入っているかどうかは、袋の外からは分からない。だからこの袋の紐は、いつからか、いくさの朝の胴締めと同じ手ざわりになっていた。
ひらくと、兵糧の割符と、工事の沙汰書だけが入っていた。名簿は、入っていなかった。ガウェインは、袋を逆さにして一度振り、それから畳んで櫃の上に置いた。今夜が空でも、次の袋のことは分からない。分からないが、来たときにどうするかは、もう決めてある。理由の書けない線は、二度と引かない。命とぶつかるなら、ぶつかった先で、この帳面をひらいて見せるまでである。三本の罫は、そのために引いた柵でもあった。
◇
見回りに、天幕を出た。
当番の刻ではないが、今夜は歩きたかった。兵舎の並びの端で、灯りがひとつ、まだ点いている。覗くと、あの若い兵が、寝床の脇で剣の柄を布で拭いていた。リオという。かつては剣も持ち上がらなかったという細い体に、いまは薄く肉がついて、拭く手つきに慣れが出ている。ガウェインに気づいて、慌てて立ち上がりかけるのを、手で制した。灯りを落とせよ、とだけ言うと、はい、いい陣ですから、と、問いと嚙み合わない返事が戻ってきた。嚙み合っていないのに、妙に得心のいく返事だった。明日を怖がっていない者の返事は、こういう音がするのである。この音を、幾月ぶりに聞いたのかと、暗い通路を戻りながら思った。
夕餉の火の跡のまわりで、遅番の兵がふたり、小声で話し込んでいた。
耳をそばだてる気はなかったが、聞こえてしまった。休みの日に町の市で何を買うかという、それだけの話である。それだけの話を、兵が火のそばでできるようになったということが、昨夜からの、いちばん大きな変わりようだった。明日の話は、明日があると思っている者にしかできない。この幾月の陣で、火のまわりの話といえば、次は誰か、という囁きばかりだったのである。
馬柵の前で、あの黒鹿毛が首を伸ばしてきた。
いつぞや、天幕の外で、旅人のなりをした神官に頭を下げられて、長々と条文とやらを聞かされていた馬である。馬に向かって働く刻の上限を説く神官というものを、ガウェインは生まれてはじめて見たが、笑う気にはならなかった。ああいう人間の授ける掟だから、切る側の胸にまで届くのである。鼻面をひとつ叩いてやると、黒鹿毛は、分かっているのかいないのか、ぶるると鳴いて藁へ戻った。
◇
天幕へ戻る前に、ガウェインは、櫃の底を探った。
あった。はじめての戦役の晩の、あの反故である。黄ばんで、端が欠けて、それでも百本近い線は、若い手の力任せの跡ごと残っていた。前半のふるえた線と、後半のまっすぐになっていく線が、一枚の紙の上で地続きになっている。ふるえが抜けていく道筋というものを、こんなにはっきり残した紙も、そうはあるまい。ガウェインは、その反故を、今夜の三本の罫の頁に、しおり代わりに挟んだ。死んだ者への線の覚えと、生きている者のための欄とを、同じ頁で隣り合わせにしておきたかった。どちらかを忘れた日に、もう片方が思い出させてくれる。帳面の使い方として正しいのかどうかは知らないが、陣の帳面の使い方を決めるのは、いまのところ、この陣ではガウェインである。
天幕へ戻り、寝る前に、もう一度だけ帳面をひらいた。
三本の罫は、灯りの下で、まだインクの匂いをさせていた。波を打った線である。先の団長が見たら、なんという線だと嘆くだろう。まっすぐ引けと教えた人である。……だが、と、ガウェインは思う。あの教えは、死んだ者の名の上の話だった。生きている者の隣に引く線なら、多少波を打っていても、誰も死なせはしない。まっすぐさで手向ける線と、書き足すために空けておく欄と、線には二通りあるのだと、あの人に教えてやりたかった。教わることばかりだった人に、はじめて、教えたいことができた。
守れなかった者の顔は、消えない。
白い欄の男たちの幾人かは、もう行方も知れない。守れん、と、ガウェインは口の中で、その言葉をひとつ転がした。長年、剣の届かないものの前で転がしてきた言葉である。いちばん忘れられない顔は、若い。稽古場で自分と並び、剣聖と呼ばれていた者の顔である。牢が燃えた夜を境に、その顔は、もうどこにもない。あの夜、剣は届かなかった。届かなかったあの日の命は、もう戻らない。
転がして、いつもなら、そこで終いだった。今夜は、その先があった。守れんかった。だが、明日から切る者は、この帳面の上で切る。理由を書き、日を書き、次の道を書き、証しを渡す。書く欄のある切り方は、もう追放ではない。……剣に峰があるように、筆にも峰があるのだと、昨夜からこちら、ガウェインはそのことばかり考えている。峰を返した刃は、人を打っても、命までは奪わない。切らねばならん日は、これからも来るだろう。来た日には、峰で切る。
勘定を、ひとつ増やすことにした。
死んだ者に引いた線の数は、これまでどおり数え続ける。あれを手放す気はない。その隣に、今夜からもう一つ、埋めた欄の数を数える。理由を書けた数、告げた日を書けた数、次の道まで書けた数である。線の数は、増えないことがいちばん良い勘定だった。欄の数は、増えるほど良い勘定である。増えない勘定と、増える勘定を、同じ帳面の上で両方持つ。今夜のところ、埋めた欄は一つきりで、白い欄のほうがはるかに多いが、勘定というものは、始めた晩がいちばん少ないと決まっている。
灯りを消して、寝台に横になった。
剣は、寝台の右。名簿は、卓の上。置き場所の決まったものがひとつ増えただけで、天幕の闇の据わりが、昨日までと違った。あの神官は、発つ朝にもきっと、よく休めと言うのだろう。ならば、休む。守る者は、よく休まねばならん。強さは、休むことから始まる。それも、あの人に教わったことの一つである。
目を閉じる前に、ガウェインは、卓の上の帳面を、闇の中でもう一度だけ思い浮かべた。
名を消してきた手が、明日から、名の隣を埋めていく。線を引く手は、同じ手である。引きようだけが、今夜、変わった。
■今回の学び(社労士試験対策)
今回のテーマ: 切る側の作法(第五話の振り返り)
この幕間に、新しい条文は出てきません。第五話で学んだ別れの礼法を、今回は切る側の手元から振り返ります。
まず、解雇の予告。少なくとも三十日前に予告するか、三十日分以上の平均賃金を解雇予告手当として支払う。この二つは組み合わせられます。たとえば十日前に予告したなら、足りない二十日分以上の手当を払えばよい。予告の日数は、手当を払った日数だけ短縮できるのです。そして例外もあります。天災事変その他やむを得ない事由で事業の継続が不可能になった場合と、労働者の責めに帰すべき事由による解雇の場合は、予告なしの即時解雇ができますが、どちらも使用者の判断だけでは足りず、行政官庁の認定を受けなければなりません。切る側が自分で「やむを得ない」と言うだけでは、例外の扉は開かない仕組みです。
次に、証明の話。ガウェインが「働いた証しというのは、良いところを書く紙のことである」と気づく場面がありました。現実の労働基準法では、労働者が退職の場合に、使用期間、業務の種類、その事業における地位、賃金、退職の事由について証明書を請求したときは、使用者は遅滞なく交付しなければなりません。大事なのは、労働者の請求しない事項を記入してはならないこと。証明書は働いた事実を持ち運ぶための紙であって、使用者が言いたいことを書く紙ではないのです。解雇の予告をされた労働者が、退職の日までの間に解雇の理由について証明書を請求できることも、あわせて覚えておいてください。理由を紙で確かめられるからこそ、争うことも、直すことも、納得することもできます。
そしてもうひとつ。誰がつけたのか分からない印で人が切られていく、あの名簿の不気味さには、現実の条文がまっすぐ対応しています。使用者は、あらかじめ第三者と謀り、労働者の就業を妨げることを目的として、労働者の国籍、信条、社会的身分、労働組合運動に関する通信をし、または退職の証明書に秘密の記号を記入してはならない。いわゆるブラックリストの禁止です。表向きの紙の裏に、本人の見えない印を仕込むこと。それは百年以上前から、労働法がいちばん警戒してきた手口のひとつなのです。
別れの礼法は、切られる側を守る決まりであると同時に、切る側の手を、暴力から書きものへ移すための決まりでもあります。理由を書き、日を書き、次の道を書く。書く欄のある切り方は、もう追放ではない——ガウェインの三本の罫は、そのことを言っています。
◇
■一問一答(社労士試験の頻出論点から)
【問】労働者が退職時の証明書として使用期間と賃金のみを請求した場合であっても、解雇された労働者については、使用者は証明書に解雇の理由を記入しなければならない。(◯か✕か)
(答えは、次の話の一回めの後書きで)
◇
次回予告:第六話「守れたはずの命」――朝もやの建設の町。組んだばかりの足場が、音を立てて傾ぐ。命綱は、なかった。




