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異世界労務物語 ―女神のオーダー  作者: 月守行


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幕間 線を引く手(一)

 夜の陣は、音で守られている。


 柵の外を回る歩哨の足音がふた組、拍子を違えて重なり、篝火が爆ぜて、馬柵のほうで馬が藁を踏み直す。厨の裏で水甕の蓋が鳴り、遠くの城壁の上を、交代の兵の靴音がゆっくり渡っていく。

ガウェインは、天幕の卓についたまま、それらの音をひとつずつ耳で数えた。数え終わって、どの音にも欠けがないことを確かめてから、ようやく目の前のものに向き直る。若いころからの習いである。陣の音の勘定を済ませないうちは、飯を食っていても、剣を研いでいても、半分は上の空になる。音の欠けた夜は、どこかで何かが起きている夜だと、最初の戦役で体に教え込まれた。


 卓の上には、名簿があった。


 昨夜、城壁の上で刃を振り上げた者どもは十幾人、ひとり残らず峰で打ち伏せて、衛兵に引き渡した。体は、何ともない。息も乱れなかった。よく眠り、よく食っている体は、あれしきのことでは減らないのである。減らない体で天幕に戻り、この名簿をひらいたとたん、肩のどこかがずしりと重くなったのだから、疲れというものは、剣のまわりよりも、筆のまわりに多く棲んでいるらしい。


 ◇


 名簿の扱いは、若いころに教わった。


 はじめての戦役の、引き揚げの晩である。先の団長が、幕の隅にガウェインを呼んで、革表紙の帳面をひらいて見せた。並んだ名の幾つかに、まっすぐな線が引かれていた。歩いた道のりと、立てた武功と、それから、戻らなかった者の名の上の線である。団長は、まだ二十歳前だったガウェインに筆を持たせて、こう言った。


 兵の名簿は、死んだ者に線を引くためのものだ。


 引くために、書くのだ、と。だから線は、まっすぐに引け。ふるえた線を引かれて、喜ぶ死者はおらん。悼むのは酒の席でやれ。帳面の上では、まっすぐな一本が、いちばんの手向けである。……はじめて任された線は、無様にふるえた。並んで飯を食った男の名の上だったからである。団長は何も言わず、反故の紙を一枚寄越して、そこへ引かせた。百本近く引かせて、ふるえの抜けたころに、ようやく本物の帳面へ引かせてくれた。あの晩の反故は、いまも櫃の底のどこかにあるはずである。捨てる気になれたことが、一度もない。


 それからの三十幾年で、幾本引いたかは、数えている。


 数えるのをやめなかったのは、やめたら最後、線が軽くなると思ったからである。引いた線の数だけ、戻らなかった兵がいる。その勘定を手放した団長に、兵は命を預けない。線の重さを量り続けることまで含めて、教わった名簿の扱いだった。定規は、いまも使わない。使えばまっすぐにはなるが、手向けにならない気がするからで、息を止めて、ひと息で引く。剣の抜き打ちと同じである。ためらった刃が人を余計に傷つけるように、ためらった線は、死んだ者をもう一度死なせる。


 ◇


 この幾月か、ガウェインは、別の線を引かされていた。


 王都から回ってくる名簿には、あらかじめ印のついた名があった。誰がつけた印なのかは、問うても知らされなかった。数を減らせという命と、印のついた名簿。それだけが来て、あとはこちらの仕事だった。印の名を呼び出し、明日から来なくてよいと告げ、名簿の名の上に、線を引く。理由は、告げなかった。告げなかったのではない、告げられなかったのだ。こちらも、知らされていないのだから。


 切ると告げる場は、いつも、この天幕だった。


 朝の教練が終わったころに呼び出すのが常で、呼ばれた男は、たいてい戦支度の埃を払う間もなくやって来る。褒められると思って来る者が半分、悪い報せだと察して来る者が半分で、察して来る者のほうが、幕をくぐる足音が静かである。告げるのは、ひと息で告げた。長く引き延ばすのは、峰を返さずに浅く何度も斬るのと同じで、かえってむごい。それだけが、切る側にいて自分に許した、たった一つの手心だった。告げられた男が幕を出て、兵舎まで歩いて戻るあいだ、陣じゅうが手を止めずに、しかし誰ひとりそちらを見ずにいる。あの見ないふりの静けさを、ガウェインは、この幾月で幾度も背中で聞いた。


 呼び出された男たちの顔は、みな同じ順に変わった。


 はじめは、聞き違いの顔をする。それから、理由を探す顔になる。何が悪かったのでしょうか、と、ほとんどの者が訊いた。直しますので、と言った者もいた。その問いに、ガウェインは一度も答えられなかった。答えられないまま、行け、とだけ言った。ひとり、深々と頭を下げて、長らくお世話になりました、と礼を言って出ていった年かさの兵がいた。あれが、いちばんこたえた。詫びられるより、詰られるより、礼を言われるのが、いちばん重かった。


 陣は、目に見えて変わっていった。


 朝の並びで、兵たちが名を呼ばれるたびに、肩が跳ねるようになった。呼ばれることが、恐ろしいのである。教練で、若いのが妙に張り切り、張り切りすぎて型を崩した。目に留まろうとしているのだった。留まらなければ切られると思い込んでいる目は、こちらを見ているようで、こちらを見ていない。忠義が恐怖に変わっていくのを、ガウェインは、指揮の台の上から毎朝見ていた。怯えた兵の手は縮む。縮んだ手の剣は、届くはずの間合いに届かない。守りの固いはずのこの陣が、内側から柔らかく腐っていくのが、誰よりもよく見えた。見えていて、線を引き続けた。命であったからだ。


 線は、いつもどおり、まっすぐに引いた。


 ひと息で、ふるえずに。教わったとおりの、良い線だった。……昨夜、白い衣の神官が城壁の上で掟を授けるのを聞きながら、ガウェインの頭にあったのは、その線のまっすぐさである。死んだ者のための引き方で、生きている者の名に、線を引いていた。同じ手で、同じ筆で、同じ息の止め方で。あの引き方は、死者への手向けだから許されるのだ。生きて、明日も飯を食い、子を抱く者の名に使ってよい引き方では、はじめから、なかった。


 ひとつだけ、昨夜から喉の奥に引っかかっている顔がある。


 峰で打ち伏せた十幾人の中に、見覚えのある顔があった。三月ほど前、印の名簿で切った男である。槍を持たせれば並みだが、荷駄の差配をさせると誰よりも手際のよかった男で、切ると告げた日、何がいけなかったのでしょうかと三度訊いて、三度とも答えをもらえずに陣を出ていった。その男が、昨夜は銀貨で雇われた側にいて、抜き身を提げて城壁を駆け上がってきた。打ち伏せる瞬間まで、向こうはこちらに気づいていなかったと思う。気づいていたのかもしれない。どちらでも、同じことだった。理由も告げずに暮らしを断たれた男が、三月後に、銭で刃を売る側へ流れていた。それだけのことである。それだけのことが、どういう順で起きるのかを、ガウェインは昨夜、自分の峰の先で確かめてしまった。

斬らずに済んだのは、峰があったからで、そもそもあの男があそこに立っていたのは、こちらの線の引き方のせいである。切り捨てた男が、刃になって戻ってくる。荒れた町が店の客を奪うという神官の言い方の、あれが陣の側の姿だった。


 ガウェインは、下唇を、一度嚙んだ。


 誰も見ていない天幕で、それでも音を立てずに嚙むのは、これも古い癖である。剣で届かないものの前に立つたび、この癖が出る。斬れるものが相手なら、嚙む前に抜けばよい。嚙むのは、抜いても仕方のないものの前だけだった。


 ◇


 そもそも昨夜、祭壇のすぐ脇に立っていたのは、半分は約束のためだった。


 前の日の昼、城下の道で、荷役姿の男が音もなく隣に並んだ。人足の形はしているが、横目に顔を見て、ガウェインは危うく足を止めかけた。王都の城で、幾度も遠目に見てきた顔である。声を出しかけたところを、手ぶりひとつで制された。あの御方は、悪びれもせずに笑って、こう言った。今夜の神官のお告げ、一緒に拝見しようじゃないか。祭壇のすぐ脇がいい、あそこがいちばんよく見える、と。返事も待たずに、荷の列へ戻っていった。


 わけの分からない誘いだったが、断る筋もなかった。もともと、あの礼法は欲しいと、自分の口から神官に言った身である。半分は自分のため、半分は約束のため、ガウェインは夜、言われたとおり祭壇の脇に立った。


 殿下は、来なかった。


 人垣を幾度見渡しても、あの整いすぎた顔は、どこにもなかった。気まぐれな御仁だ、と思った。王都でも、そういう噂しか聞かない御方である。誘っておいて、忘れる。忘れたことも、忘れる。……そう思った矢先に、人垣が割れて、刃が駆け上がってきたのだった。


 考えてみれば、妙な晩ではあった。


 約束の場所に約束の相手は来ず、代わりに刃が来て、こちらは約束のおかげで、神官のいちばん近くに立っていた。間に合ったのは、腕ではなく、立ち位置である。気まぐれに付き合って得をしたのは、生まれてはじめてだった。礼を言う筋の話でもないが、今度お目にかかることがあれば、酒の一杯くらいは注いでもよい。約束をすっぽかした御仁に注ぐ酒というのも、妙なものではあるが。


 ◇


 昨夜の掟を、ガウェインは、諳んじられる。


 人を辞めさせるなら、三十日前に告げるか、足りない日数を銭で埋めること。理由は、誰もが得心するまっとうなものであること。傷の療養の間と、子を産む前後は、切ってはならないこと。別れるときは、働いた証しを渡すこと。……耳で聞いただけの文言が、ひと晩たっても一語も薄れないのは、あの言葉が、切られる側と切る側の、両方の顔を知っている言葉だったからだと思う。切る側に立つ者のつらさを言い当てられたのは、生まれてはじめてだった。理由を言えるということは、直す道を示せるということ、別れが暴力でなくなるということ、それは切る人の心も救うのだと、あの神官は言った。

あのとき、目の奥が熱くなったのを、暗がりに助けられて誰にも見られずに済んだ。武人が掟ひとつで潤むところを、兵に見せるわけにはいかない。見せるわけにはいかないが、あれは、赦しに近い言葉だった。


 だが、掟は、授かっただけでは陣を守らない。


 それも、ガウェインは知っている。剣と同じである。良い剣を授かっても、構えを覚えなければ振れないし、振れても、続けなければ腕は錆びる。掟の構えとは何か。ガウェインは、篝火の爆ぜる音を聞きながらしばらく考えて、それから、いちばん手前の答えに手を伸ばした。帳面である。

三十日前に告げよという。告げた日を書く場所が、いまの名簿にはない。理由を告げよという。理由を書く欄が、ない。書く場所のない決まりは、三月で忘れられる。それも、長年の陣で覚えたことである。

■前の話の一問一答・答え合わせ


【問】産前産後の女性が労働基準法第65条の規定によって休業する期間及びその後30日間であっても、天災事変その他やむを得ない事由のために事業の継続が不可能となった場合において、行政官庁の認定を受けたときは、使用者はその女性を解雇することができる。(◯か✕か)


【答】◯ 解雇制限期間中でも、天災事変その他やむを得ない事由で事業の継続が不可能となった場合は解雇できるが、その事由について行政官庁(所轄労働基準監督署長)の認定を受けなければならない(労基法19条1項ただし書・2項)。


※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。


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