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異世界労務物語 ―女神のオーダー  作者: 月守行


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第五話 別れにも、礼と理を(二)

 夜。灯は、天幕にガウェインを訪ね、地面に小枝で線を引いた。前世で、何度も引いた線だった。


「団長さん。別れには、礼法が要るのでございます。守るべき、三つの決まりごとが」灯は、指を一本立てた。「ひとつ。人を辞めさせるなら、少なくとも三十日前に、告げること」


「三十日前」


「はい。ある日突然『今日で終わりだ』では、明日の暮らしを立てられません。三十日あれば、次の宛てを探せます。心の支度もできます。……もし、どうしても急に辞めさせるなら」灯は、二本目の指を立てた。「そのときは、三十日分以上の平均の稼ぎを、手当として払うのでございます。たとえば十日前にしか告げられなかったなら、足りない二十日の分を、お金で埋めます。突然の別れから、暮らしを守るための、橋でございます」


「ふたつめ」灯は、指を立て直した。「辞めさせる理由は、誰もが納得できる、まっとうなものであること。合理的で――世間の常識に照らして、なるほど仕方ない、と言えること」


「気まぐれでは、いかん、と」


「はい。気分や好き嫌いで人を切ることは、たとえ雇い主でも、してはならないのでございます。まっとうな理由を欠いた別れは……ただの追放。人を切る"権利"を振り回しているだけでございます。それは、権利の、濫用でございます」


 ――権利の、濫用。ガウェインは、その言葉を噛みしめた。


「そして、みっつめ」灯の声が、少しだけ低くなった。「辞めさせては、いけない時が、ございます。戦や仕事で傷を負って療養しているその間。女が、子を産む前と後の、休みの間。そして、それぞれの休みが明けてからの、三十日の間。……弱っている、その時にこそ、人を突き放してはならないのでございます」


「いちばん守られねばならん時に、いちばん、切られやすい」ガウェインは、深く息を吐いた。「たしかに、そうだ」


「それと、別れるときには、その人が確かにここで働いていたという証しを、求めに応じて渡してあげてくださいませ。次の勤め先で、まっとうに働いてきた者だと、胸を張れるように」


 ガウェインは、しばらく地面の線を見つめ、それから、ゆっくりと拳を握った。その拳が、震えていた。


「……俺は、昨日まで、並んで戦った仲間を、理由も言えずに、切っていた」彼は、絞り出すように言った。「別れの礼法を、知らなかった。だから――忠義が、恐怖に変わっていったのだ。いつ切られるかわからん陣で、誰が、心から剣を振るえる。怯えた兵の手が縮むのは、当たり前だった。……俺が、縮ませていた」


「団長さん」


「あなたの言う、その礼法。……欲しい」ガウェインは、顔を上げた。目に、力が戻っていた。「兵を安心させてやりたい。理由なく追われることは、もう無いと。……言ってやりたいのだ」


 ◇


 だが、その動きは、別の場所にも伝わっていた。人を気まぐれに追い出せる――その"自由"を手放したくない雇い主たちが、夜の酒場の奥に額を寄せていた。


「あの神官が、満月の夜に"お告げ"を授けるらしい」


「授けられちまえば、一年、破れねえ。気に食わん奴を切ることも、できなくなる」


「なら――授けさせなきゃ、いい」


 卓の下で、銀貨の袋が動いた。城下には、金で雇える荒くれ者が、いくらでもいる。灯は、それを知らない。ただ、満月が、近づいていた。


 ◇


 満月の夜。城塞のいちばん高い城壁の上に、祭壇はしつらえられた。かがり火が燃え、城下から集まった民が、壁の下の広場をびっしりと埋めていた。


 白い衣に着替えた灯は、祭壇の前に立ち、ひとつ、大きく息を吸った。いつものように、恐れが胸をよぎる。この一言が、一年、この国を縛る。切る側にも、切られる側にも、顔がある。その両方を思って、灯は、言葉を選び抜いてきた。


(……大丈夫。私は、実態を、この目で見た)


 その時だった。人垣が、どよめいて割れた。抜き身の刃を手にした荒くれ者が十数人、城壁の階段を駆け上がってくる。目指すのは、祭壇。灯だ。


「その"お告げ"、授けさせるかよ!」


 先頭の男の刃が、月光を弾いて、灯めがけて振り上げられた。灯の体が、とっさに動かない。刃が、届く――。


 その、刹那。


 風が、鳴った。


 灯は、何が起きたのか、わからなかった。ただ、目の前に、大きな背中が割り込んでいた。ガウェインだ。そして、次の瞬間には、もう、終わっていた。


 抜き打ちの一閃。だが刃は、まっすぐには当たらなかった。刃を返した、峰打ち。ガウェインの体が風車のように一度翻り、それだけで先頭の男が吹き飛び、二人目が崩れ、三人目の刃が宙を舞った。血は、一滴も流れない。ただ、荒くれ者たちが順に、糸の切れた人形のように、城壁の石畳へ倒れ伏していく。十数の影が地に伏すのに、瞬きひとつ分もかからなかった。


 ガウェインは、静かに剣を鞘に納めた。ふう、と軽く息を吐いただけ。呼吸すら、乱れていない。


「……つ、強い」灯は、ぽかんと口を開けていた。噂は、本当だった。「団長さん……! なんて、お強い……!」


 ガウェインは、肩越しに振り返り、白い歯を見せて、静かに笑った。


「なに」


 彼は、剣の柄を、ぽん、と叩いた。


「――よく、休んだからな」


 その一言に、灯は、胸がいっぱいになった。強さは、休むことから始まる。あの日の言葉を、この背中が証明していた。


「さあ、神官どの」ガウェインは、祭壇の灯を振り返った。その目は、もう荒くれ者ではなく、壁の下の民を見ていた。「授けてくれ。この国に、まだ無い、別れの礼法を」


 灯は、うなずいた。もう、震えていなかった。祭壇の前で、月に向かって、両手を掲げる。


「――女神のお告げを、授けます」


 城壁の上に、しんとした静けさが降りた。


「人を辞めさせるなら、少なくとも三十日前に告げるか、さもなくば手当を払いなさい。足りない日数は、その分を、お金で補いなさい。辞めさせる理由は、誰もが納得できる、まっとうなものにしなさい。気まぐれや、好き嫌いで、人を切ってはなりません。そして――傷を負って療養している者、子を産む前後の者を、その弱っている時に、追ってはなりません。別れるときには、その人が働いた証しを、渡しなさい」


 光の文字が、ひとつ、またひとつと、月光の中に浮かび上がった。


 壁の下から、不安げな声が上がる。それでは雇い主が困る、気軽に人を雇えなくなる――。灯は、語りかけるように続けた。


「別れにも、礼と、理が、要るのでございます」


 ざわめきが、やんだ。灯は、人垣の中に、子を抱いたブラムの顔を見つけた。


「別れの礼法は、追う側を縛るためではございません。追われる側を――明日の暮らしを奪われる、弱いほうの人を、守るためのものでございます。次の暮らしへの、橋を架けるためのもの。そして」灯は、隣に立つガウェインを、ちらりと見た。「切る側にとっても、理由を言えるということは、直す道を示せるということ。別れが、暴力でなくなるということ。それは、切る人の心も、救うのでございます」


 ガウェインの目が、かすかに潤んだのを、灯は見た。


 ◇


 数日後。国境の陣。


 灯が旅人のなりで訪れると、陣の空気は、すっかり変わっていた。兵を辞めさせるには理由と予告が要るようになり、明日を怖がらなくなった兵たちの、剣を握る手に、力が戻っていた。


 不思議なことが、ひとつだけあった。あれほど続いていた「上からの命」は、あの満月の夜を境に、ぱたりと止んだのだという。誰が、どう取りなしたのか。理由を知る者は、陣には、ひとりもいなかった。


 訓練場の隅に、見覚えのある中年の男がいた。ブラムだ。若い兵に、槍の構えを教えている。


「ブラムさん……! 陣に、戻れたんですか」


「神官さま」ブラムは、照れくさそうに頭を下げた。「……団長さまが、あらためて俺の働きを見直してくださって。隊の連携で、いつも半歩遅れていたと。直しました、がむしゃらに。そうしたら、団長さまが、もう一度機会をくれた。教えてくれれば、直せた。……ほんとうに、その通りだった」


 彼の目に、涙がにじんでいた。そして、はにかむ。


「上の娘に、言えました。父ちゃんは、また、お城を守るんだって。……あいつ、飛び跳ねて、喜んで」


 灯の目から、こらえきれずに、涙がこぼれた。もう、堪えなくていい。ここには、守れた未来が、立っている。


 ◇


「元気そうだな、旅の人!」


 明るい声に振り向くと、若い兵が、白い歯を見せて手を振っていた。あの、リオだ。剣も持ち上がらなかった少年は、今は頬に赤みが差している。ガウェインの部下として、この陣にいるのだという。


「あの日、剣が持ち上がったの、俺、今でも忘れません!」リオは、腰の剣を、ぽんと叩いた。「ここは、いい陣です。ちゃんと休めて、追われる心配もない。だから、みんな、強い」


 そのとき、柵につながれた一頭の軍馬が、ぶるる、と鼻を鳴らし、灯のほうへ首を伸ばした。艶やかな黒鹿毛の、賢そうな目。灯には、見覚えがあった。かつて団長の天幕の外で、律儀に自己紹介をした――あの、賢い馬だ。馬は、覚えている、とでも言うように、鼻先を、こつん、と灯の額に押しつけた。


「わ、覚えて……! 覚えていてくれたんですか!」


 灯は、思わず馬の首に両手を回した。感激のあまり、背筋が、ぴんと伸びる。


「その節は、突然のご挨拶を失礼いたしました。あの折お伝えした通り、働く時間の上限は、原則、一日八時間、一週間で四十時間で――そして本日、あなたのご主人さまが、別れの礼法を、この国に――」


「……神官さま。また、馬に、条文を」


 リオが、生温かい目で見ていた。通りかかった兵たちも、足を止めて、にこにこと見守っている。


(――出た。緊張すると、条文が漏れる癖)


 灯は、こほん、と咳払いをして、乱れてもいない襟を正し、凛とした神官の顔をつくった。


「……女神との、対話の作法でございます。皆さんには、まだ早うございます」


 馬が、あきれたように、ぶるる、と鼻を鳴らした。


 ◇


 その夜、灯は、宿の窓辺で正座した。女神像の代わりに、まだ丸みの残る月へ、深く一礼する。


「本日の、業務報告を申し上げます。国境の町にて、別れの礼法――解雇の予告、正当な理由、および解雇の制限を、無事に授けました。追われていたブラム殿は、理由を得て陣に復帰。次の暮らしへの橋が、架かりましてございます」


 深く、頭を下げる。


「なお、特筆すべき一件。騎士団長ガウェイン殿、十数名の乱入者を峰打ちにて瞬時に一掃。無血」


 灯は、月を見上げ、しみじみと付け加えた。


「あの夜、伝説は、本物でした。以上、よろしくお願いいたします」


 ――ぐう、と、お腹が鳴った。


 灯は、傍らの兵糧堅パンを手に取った。かちんかちんの、乾ききった黒パン。かじろうとして、歯がまったく立たない。あの石工の町の堅焼きパン以来の、強敵だ。灯は、両手で堅パンを捧げ持ち、目を閉じて祈った。


(この一片に宿りし、麦の恵みと、兵たちの日々に、感謝を。……どうか、私の歯が、勝てますように。いただきます)


 ◇


 翌朝、灯が旅立とうとすると、城壁のバルコニーに、ガウェインが立っていた。満月の夜の騒ぎが嘘のように、国境の町は朝日の中で静かに息づき、市場には、少しずつ人が戻りはじめていた。


「兵の目に、また信頼が戻った。安心した兵は、強い」ガウェインは、町を見渡して言った。「俺は、もう迷わぬ。切らねばならん時は、必ず理由を告げ、予告をし、次の道を示す。……それが、切る側の、義務だ」


 彼は、ふっと笑った。灯は、うなずき、それから、丘の向こう――噂の元衛兵が去ったという街道の果てに目をやった。その痛みには、間に合わなかった。けれど、これから追われる誰かには、もう、橋が架かる。


(……いつか。あなたにも、支えが届きますように)


 エルデン王国の周りに、また一つ、灯がともった。


「団長さん。わたくし、次の町へ参ります」


「――行くのか」ガウェインは、名残惜しそうに、けれど力強く、うなずいた。「あなたの旅に、女神の加護を。この国境は、俺が守る。……よく休んで、な」


「はい。団長さんも、よくお休みください」


 灯は、フードをかぶり直し、街道へ歩き出した。背中で、軍馬が、見送るように、ひとつ高くいなないた。灯は振り返り、小さく手を振って――強さと優しさの両立したあの背中に、もう一度だけ、そっと頭を下げた。

■今回のオーダー


人を辞めさせるときは、少なくとも三十日前に告げるか、三十日分以上の平均の稼ぎを手当で払うの。足りない日数の分だけ、お金で補うこともできます。突然の別れから、暮らしを守るための、橋なんです。


辞めさせる理由は、誰もが納得できる、まっとうなものであること。合理的で、世間の常識に照らして相当だといえること。気まぐれや好き嫌いで人を切ったら、それは権利の濫用。まっとうな理由を欠いた別れは、無効になります。


そして、辞めさせてはいけない時があります。仕事の怪我で療養している間、子を産む前後の休みの間と、それぞれその後三十日の間。弱っている時にこそ、人を突き放してはいけないの。別れるときは、求めに応じて、働いた証しを渡してあげてね。別れにも、礼と、理が要るのだから。


◇


■今回の学び(社労士試験対策)


・労働基準法20条(解雇予告): 少なくとも30日前の予告、または30日分以上の平均賃金(予告手当)。予告日数は手当で短縮可。

・労働契約法16条(解雇権濫用法理): 解雇には客観的に合理的な理由と社会通念上の相当性が必要。欠く解雇は無効。

・労働基準法19条(解雇制限): 業務上の傷病による療養休業中+その後30日/産前産後休業中+その後30日は解雇不可。22条: 退職時は求めに応じ証明書を交付。


関連判例: 高知放送事件(解雇権濫用の具体的判断)/東洋酸素事件(整理解雇)


◇


■一問一答(社労士試験の頻出論点から)


【問】産前産後の女性が労働基準法第65条の規定によって休業する期間及びその後30日間であっても、天災事変その他やむを得ない事由のために事業の継続が不可能となった場合において、行政官庁の認定を受けたときは、使用者はその女性を解雇することができる。(◯か✕か)


(答えは、次の話の一回めの後書きで)


◇


次回予告:第六話「守れたはずの命」——巨大水路の建設現場で、朝、足場が崩れた。※少し重い回ですが、必ず“守れた未来”に着地します。

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