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異世界労務物語 ―女神のオーダー  作者: 月守行


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第五話 別れにも、礼と理を(一)

 有給の町を越えると、風の匂いが変わった。


 石と鉄の匂いだ。街道の先に、灰色の城塞が幾重にも連なっている。国境の町。エルデン王国の、いちばん外側。剣を持つ者が、最も多く暮らす場所。春野灯は、旅人の茶色いフードを目深にかぶり直して、門をくぐった。


 守りは、たしかに固い。城壁は高く、見張りの兵は隙なく並んでいる。けれど――門の内側の空気が、どこかすさんでいた。路上に、膝を抱え、うつろな目で行き交う人を見上げている者たちが、あちこちに座り込んでいる。物乞いとも違う。身なりは、つい昨日まできちんと働いていた者のそれだった。


「……職を、失った人たち」


 灯の足が、止まった。座り込んだ男が、通りかかった女の背に、かすれた声で呼びかけている。


「なあ、どこか、人手の要る所を知らねえか。何でもやる。……何が悪かったのかも、わからねえまま、放り出されたんだ」


 女は答えず、去っていった。何が悪かったのか、教えてもらえないまま――前世で、幾度も聞いた声だった。灯の胸の奥が、しんと冷えた。


 ◇


「――そこの旅人。この町に、何の用だ」


 背後からの、低い声。反射的に振り返った灯は、思わず息を呑んだ。巨躯の騎士が、立っていた。広い肩。太い腕。絵物語の英雄そのものの体つき。だが灯が驚いたのは、その男を知っていて――そして、あまりに変わっていたからだ。


「ガウェイン、団長さま……?」


 目の下の、墨で塗ったような濃いくまが、消えていた。頬に血の色が差し、背筋はまっすぐ伸びている。ただ立つだけで、まとう空気が違う。研ぎ澄まされた刃のような、静かな圧。かつて糸の切れかけた人形のように疲れ果てていた、あの男と同じ人とは思えなかった。


「その声……」ガウェインの厳しい目が、ふ、とゆるんだ。「フードの旅人。エルデンに休みをもたらした――女神の、神官どのか」


「お、お久しぶりでございます」灯は慌ててフードを軽く上げ、頭を下げた。「お元気そうで、なによりでございます」


「おかげでな」ガウェインは、自分の腕を軽く叩いた。「よく眠れるようになった。兵たちも、笑うようになった。剣が、また軽い」


 たったひとりで百の兵を相手取ったという逸話が、この立ち姿には誇張に聞こえない。伝説は本物だったのだ、と灯は胸のうちで震えた。けれど――。


「団長さん。……お顔の色は、よろしいのに」灯は、目を細めた。前世で数えきれないほど見た顔だった。「目の、奥が。……お疲れでございますか」


 ガウェインの表情が、ぐしゃりと歪んだ。それは、体ではなく、もっと苦しい、心の疲れの顔だった。


「……見抜くのだな、あなたは」彼は低く言った。「天幕へ、来てくれ」


 ◇


 陣のいちばん奥、団長の天幕。ろうそくの灯りの下で、ガウェインは長いあいだ黙り、やがて、絞り出すように口を開いた。


「上からの命だ。……兵を、辞めさせている」


「辞めさせる」


「気まぐれに、だ」ガウェインの拳が、卓の上で固く握られた。「昨日まで肩を並べて城壁に立っていた男が、今日は理由も告げられず追われる。数を減らせと言われれば、王都から回ってきた名簿の、印のついた名から、切らねばならん。誰がその印をつけたのかは、俺にも知らされん。……その役目が、俺だ」


「残った兵も、笑わなくなった。明日は我が身だと、皆が思っている。……妙なものだ。よく眠れて体は強くなったのに、目に怯えが戻ってきた」ガウェインは、自分の大きな手を見つめた。「怯える兵は、剣を握る手が縮む。別れに、ルールが無い。それだけのことが、これほど陣を蝕むとは……思っていなかった」


 ――別れに、ルールが無い。その一言が、灯の胸の真ん中に、静かに刺さった。


「団長さんは……切る側に、立っておられるのでございますね」灯は、そっと言った。「つらい、役目でございます」


 ガウェインが、顔を上げた。意外そうな目だった。切る側の苦しみを言い当てられたのは、初めてだったのだろう。灯は、うつむいた。前世の、ある日のことが、胸によみがえっていた。


 ◇


 前世で、ある「面談」の席に、師匠のお供で同席したことがある。ひとりの従業員に、辞めてもらうと告げる場だった。告げる側の手は、机の下で震えていた。告げられる側の男は、青ざめて、ただ「なぜですか」とだけ繰り返した。直せるものなら、直したい。その問いに、誰も、うまく答えられなかった。切る側にも、切られる側にも、顔がある。どちらも、痛い。


 その帰り道、ずっと黙っていた灯に、隣にいた、あの――顔のよく思い出せない、けれど温かいあの人が、ぽつりと言った。


――別れの作法が要る。あるとないとで、人の痛みが、まるで違う。


 その手が、ぽん、と灯の頭に置かれた。手のひらの、あのぬくもり。


――民を思え。切るときこそ、な。


 顔は、見えない。声も、うまく思い出せない。ただ、その言葉と、手のぬくもりだけが、今も、はっきりと残っている。


(……先生。あなたの言った作法が、この世界には、まだ無いんです)


 ◇


 翌日。灯は旅人のなりのまま、城下を歩いた。陣で聞いた話が、そのまま町にもあった。いや、もっとひどかった。


 布地屋の軒先で、若い店員が、震える声で主人にすがっていた。


「旦那さま、今日でって……そんな、明日から俺はどうすれば。次の宛てなんて、何も」


「知らんな」布地屋の主人は、そっぽを向いた。「雇うのも辞めさせるのも、こっちの勝手だ。お前が気に食わん。それだけだ。荷をまとめて出ていけ」


 予告もなく、その日で終わり。次の暮らしの当てもなく、放り出された者たちが、路頭に迷っている。


 路地の井戸端では、水を汲む老女たちが、ひそひそと話していた。


「……そういえば、あの元衛兵。あの人も、理由を知らされないまま、追われたそうだねえ」


「ああ。真面目な、いい人だったのに。何を咎められたのか、本人にもわからずじまいでね。どこへ行ったやら……」


「なんでもねえ、国庫が傾いてるんだと。だから兵を減らすんだ、なんて話も聞くけど……ほんとうかねえ」


 灯が続きを聞こうとすると、老女たちは水桶を担ぎ、それきり口をつぐんで去ってしまった。誰も、その理由を知らない。ただ、噂だけが、井戸端に澱のように残っている。


 ◇


 町の広場の隅に、追われた人々が、身を寄せ合っていた。灯が水と乾いた食べ物を分けると、彼らは少しずつ口を開いた。中に、ひときわ肩を落とした中年の男がいた。手のひらに剣だこがある。元は、兵だったのだろう。


「ブラム、といいます。陣を、追われました。……理由は、聞いていません」男は、力なく名乗った。「何が悪かったのか、教えてくれと何度も尋ねました。そうしたら『お前は要らん』と、それだけで」ブラムの、膝の上の拳が震えた。「上の娘が、七つ。下は、まだ乳飲み子で。妻は、体が弱い。……怒っているんじゃ、ないんです。俺だって、至らんところは、あったでしょう。でも、教えてくれれば、直したのに。それさえ、わかれば。直して、また、働けたのに」


 灯の喉が、詰まった。この人は、追われた怒りではなく、直す機会すら与えられなかったことを嘆いている。前世の、あの「なぜですか」が、ブラムの声に重なった。灯は、ぐっと奥歯を噛んだ。


「ブラムさん。あなたは、何も、間違っていません。……間違っているのは、理由を告げない、別れのやり方のほうです」


 ◇


 その足で、灯は、人を追い出していた雇い主のもとを訪ねた。布地屋の主人は、腕を組んで居直った。


「何度でも言うぞ。雇うも辞めさせるも、こっちの自由だ。神官さまだろうと、口を出す筋合いはねえ」


「……たしかに、雇い主には、雇い主の自由がございます」灯は、フードの下から、まっすぐに主人を見た。「ですが、その自由には、限りがございます。そのひとりの向こうに、今日の飯が、明日の宿が、幼い子の明日が、かかっているからでございます。その人が路頭に迷えば、町が荒れます。荒れた町は、あなたの店の客も奪ってまいります。この町の市場が、なぜこんなに静かなのか。お考えになったことが、ございますか」


 主人は、答えなかった。ただ、ふん、と鼻を鳴らして、そっぽを向いた。言葉だけでは、この壁は崩れない。灯には、わかっていた。


 ◇


 その帰り、荷揚げ場の角で、灯は、思いがけない顔を見た。


 荷車の脇で、人足たちに混ざって麻袋を担いでいる、上背のある優男。フードを目深にかぶっているが、あの整いすぎた横顔は、見間違えようがなかった。


「……ルシアン、殿下?」


「しっ」王子は、袋を降ろして、唇に指を立てた。「お忍び。ここでは、ただの気のいい人足ってことになってる」


「なぜ、国境の町に」


「そりゃあ、君こそ」


 王子は、いつもの調子で笑った。――けれど灯は、笑い返さなかった。この町で見たものが、聞いた声が、胸の中で渦を巻いていた。目の前にいるのは、軽薄で、務めを放り出して遊び歩く、けれど、まぎれもなく王家の人間だ。


「殿下。……ひとつだけ、お教えください」


 灯は、まっすぐに王子を見上げた。


「陣で、兵が切られています。王都から、印のついた名簿が回ってくるそうでございます。町では、国庫が傾いているからだという噂まで。……なぜ、国は、人を切るのでございますか。あの印は、誰がつけているのでございますか。あなたなら、ご存じのはずでございます」


 王子の顔から、すっと、笑いが消えた。


 初めて見る顔だった。軽さも、甘さもない、どこか遠くを見る目。


「――君に、伝えられることは、ない」


 声まで、別人のように冷たかった。王子は麻袋を担ぎ直すと、それきり灯を見ずに、荷車の列の向こうへ歩き去った。


 灯は、その背中を、しばらく見送った。


(……なんですか、あれ)


 腹が立った。腹が立ったのに――突き放したあの一瞬の目が、怒りよりも先に、胸のどこかに、小さな棘のように残った。

■前の話の一問一答・答え合わせ


【問】年次有給休暇の付与要件である出勤率の算定に当たっては、業務上の負傷により療養のために休業した期間は、出勤したものとみなされる。(◯か✕か)


【答】◯ 業務上の負傷・疾病による療養のための休業期間、育児休業・介護休業の期間、産前産後の休業期間は、出勤率の算定上、出勤したものとみなされる(労基法39条10項)。


※本試験で繰り返し問われる論点をもとにした、本作オリジナルの問題です(過去問の文をそのまま載せたものではありません)。


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