プライドの崩壊
野呂というその男は、特別なものなど何もなかった。一般的で、普通で、どこにでもいる男。
自分の会社での評判は知っている。
お局、怖い、行き遅れ……
私は、それを気にもとめないフリをして過ごしてきた。私は強くて、美人で、仕事ができる。結婚はできたけど、しない事を選択した。
そう思い込み、日々をやり過ごしてきたのだ。しかし、野呂に別れ話をされた時、私は自分の中の全てが崩れていくのが分かった。
自分よりも遥かに下に見ていた、あの平凡な男に振られるなんて、私はそれ以下という事なのか。
思えば、幼い時に父親の不倫で一家離散。私は祖父母に育てられた。しかし二人とも厳しい人で、甘える事は許されず、なにか気に食わない事があるとぶたれたり、ご飯を貰えなかったりすることは日常だった。
小学校一年生の運動会、私はかけっこでビリだった。それを見た祖父母は、家に入れてくれなかった事がある。一人で泣き続けていたら、近所の人が通報したようで、そこからはあからさまな虐待はなくなったが……
無性の愛というものを、私は知らないのだ。
体の中の怒りとプライドがどっと湧き出し、それを発散しきれずに、内側へ溜まっていく。本音が溢れ出し、止められなくなった。
野呂の最終日、私はぬいぐるみが付いた花束を贈った。ぬいぐるみには盗聴器を仕込んでおいた。あの男は、律儀にそれを家に持ち帰ってくれた。
盗聴していると、野呂は会社を辞めて、移住するという事が分かった。私は移住先の住所を調べるために、アパートへ忍び込んだ。盗聴していれば、家にいるか不在なのかがわかる。
玄関横の窓を破ろうとすると、鍵が開いていた。私は、侵入した事を気付かれる事なく、移住先の住所を調べる事ができた。
◇
私は移住先へ向かう。駅からタクシーに乗り、家の住所で降りる。
家はほとんど完成していた。作業している人がいる。
「こんにちは。お疲れ様です」
「こんにちは。こちらの家の方ですか?」
「そうです」
「じゃあ、中見て行きますか?」
「いいんですか! ありがとうございます」
「見終わったら、あの重機の中に鍵入れといて下さい。じゃあ」
そう言うと、工事業者は帰って行った。
私は家の中を一通り見た。潜めそうな場所に目安をつける。
鍵は三つ付いている。一つを拝借し、合鍵を作ることに成功した。
◇
「もうすぐ引っ越しだね」
「健、ちゃんと荷物まとめるのよ」
「分かってるよ」
「新しい家楽しみだな!」
盗聴器から聞こえる楽しげな会話に、自分も家族の一員になったかのような錯覚を覚えていた。そして、我に帰り絶望する。あの男は私と別れたのに、会社を追い出されたのに、なぜ笑っているのだろう?
私は会社を辞め、自分のアパートを退去し、持ち物を殆ど処分した。残したのは、洋服を少しと、野呂から貰った『口紅』と『ピアス』だ。
◇
私の野呂家での暮らしが始まった。
天井の上は、意外と広い空間だった。慣れればすぐ登れるし、降りられる。
家人がいなくなると、私は天井から降りていく。冷蔵庫の食べ物を漁り、リビングでテレビを見る。もちろんシャワーも浴びるし、買い物も行く。
近所の人はいないし、たまに坂の上の住民と出くわす事もあるが、会釈して通り過ぎる。
とてつもない虚無感に襲われる事が度々あった。そう言う時は、自分の存在を認めてほしくて、家具をずらしたり、カーテンを開けたり……私物を分かりやすい所に置いたりした。
しかし、もちろん気付かれるはずもない。
まさか、家の中に勝手に他人が住み着いているなどと思わないだろう。
夜に外に出ていたら、息子が目の前を自転車で通り過ぎた事があった。私は何故か、とても嬉しくなって自転車を掴んで笑ってしまった。
しかしその日は、チェーンまでかけられてしまったので、家の中に入れなくて大変だった。近くのコンビニへ行き、祠の前でじっとしていた。坂の上から、家人がいなくなるのを見届けてから家に戻った。




