承認欲求
いつか、息子に見つかりそうになった事がある。浴室の空の湯船の中で、菓子パンを食べていたのだ。まだ家人のいない時間帯で、まさか帰ってきた来ているとは思わず、天井から降りて来ていた。
足音が聞こえ、まずいと思った時には浴室のドアが開かれた。咄嗟に湯船の中に寝転んで隠れたが、ギリギリだった。
しばらくは天井の上で静かにしていた。
◇
事件の日、私は天井の上で寝ていた。
あの男が浴室へ入って来た。湿気がすごいが、それはいつもの事だ。すると突然浴室のドアが開いた。少しして再びドアが閉まる。遠ざかる足音。
私はそっと点検口を持ち上げ、下を見た。あの男が座っている。しかし、微動だにしない。私は下に降り、野呂の様子を見る。首を絞められているようだ。これは、奥さんが……
私は彼を寝かせ、心臓マッサージを始めた。息を吹き込み、再びマッサージをする。何度か繰り返すと、「うっ」と声が聞こえた。
よかった!
外から何やら声がする。私は急いで彼を座らせ、自分は点検口に戻る。
足音が大きくなり、ドアが開く音。
「父さん!」
しばらくすると、救急車のサイレンが聞こえた。バタバタと人が走る音、叫ぶ声……
何故私は彼を助けてしまったのだろう。
静かになったのを見計らって下に降りた。誰もいないようだ。リビングに向かうと、玄関のドアが開いた。私は急いでソファの影に隠れる。息子が家に戻ってきた。シャワーを浴び始めたようで、私は天井に戻れない。リビングに潜み、ここに来ないことを願った。
もし見つかったら……
どうしよう。怖い。
私はキッチンから包丁を見つけ、護身用に持つことにした。
息子は二階の自室へ向かっていった。私は息を吐いた。これで一安心だ……いや、寝ているのを確かめるまで安心できない。
立ちあがろうとして、ふらついた。立ちくらみだ。机に手をつく、リモコンに触ってしまいテレビがついた。慌てて消そうとするが、焦っているからか中々消せない。やっとテレビを消し、私は二階へと向かった。
暗い階段をゆっくり登る。静かな家に、私の足音が響かないように。
ドアノブに手をかけ、音が鳴らないように開いていく。部屋の中は暗く、静寂で満ちている。
寝ているようだ。
私はまた扉をゆっくりと閉め、そして浴室の天井へと戻った。
緊張が続いたからか、私は倒れるように眠り、起きた時は何の音もしない。おそらく無人だ。私は下へと降りた。
あの人の病院へ向かう。途中、黄色のバラと花瓶を買った。親戚だと伝えたら、面会はすんなりできた。意識は戻っていない野呂は、眠っているようだ。
『嫉妬』『あなたしかいない』その花言葉を思って飾った。
家に戻り、購入した菓子パンを食べ、ゴミを捨てようとリビングのゴミ箱を見た。何か光ったのがわかり、中を漁ってみると私が奥さんの机に置いたピアスだった。それを自分の耳につける。
冷静に考えられると、捨てられるのは分かっていたのに、私は頭に血が昇った。
天井へ戻り、回収してあった口紅を塗る。
玄関を開ける音がする。誰か帰ってきたようだ。奥さんか息子だろう。
私を探す人はいない。
親しい友人も、パートナーも、家族もいない。私がいなくなっても、誰も悲しまない。その事実に今更打ちのめされた。
考え込んでいると、時間が経っていた。
私は浴室からリビングの方へ向かう。キッチンに息子の姿がある。スマホを見ているようだ。私は息子に近づいて行く。
こんなことをしたら気付かれてしまうのに、私は私の事を知って欲しいし、この先も忘れないでほしいのだ。
息子は悲鳴をあげて逃げていく。私はシンクの下から包丁を取り出して、息子を追いかける。なるべく怖く。息子からの印象に、記憶に残ればいいと、
「待てーーー!」
大きな声で、叫ぶ。
怖がれ、私を忘れないように、記憶に残るように。自転車はどんどん遠ざかっていく。すると、坂の上の家に逃げ込んだのが見えた。
もうあの家には戻れない。
私は包丁を投げ捨て、思いつくまま、近所のコンビニへと向かっていった。




