傍観者
坂を下った先にある交差点。
その側には川が流れている。一昨年の台風で、坂の下一体は浸水した。それだけではない。数百年前には甚大な被害があったそうで、川を見下ろせる坂の上には犠牲者の鎮魂を願い『祠』が建っている。
最近、田んぼと畑だけのその土地に、一軒家が建った。
どこの業者があんな土地に?
地元住民は気が気ではない。あんな所に建てて、大雨が振ったら浸水してしまうに決まっている。
しばらくすると、女性が坂を歩いている姿を時々見かけた。荷物を持って、あの家に入っていく。この距離でも髪の毛が長いのがわかる。
この田舎で車がないのは不便だろうに。
四月になり桜が川沿いに咲き始めると、車が二台停まるようになった。
洗濯物を干す時に、どうしても坂の下のあの家が目に入ってくる。あの家を見る事が、いつの間にか毎朝の日課のようになっていった。
まず、一台の白い車が家から走り去る。おそらくご主人だろう。
その後、自転車で走る高校生を見る。あの制服は近くの進学校だ。あの家の息子なのだろう。
次にもう一台の黒い車が出ていく。おそらく、奥さんだ。
最後は、徒歩で坂の上に歩いてくる女性だ。彼女は娘なのか、叔母なのか、遠目からではわからないが、長い髪を靡かせて、いつでもワンピースを着ている。
◇
何か急病だろうか、深夜に家の近くに救急車が通った。私は窓から救急車を見ていた。
あの家だ。
あの家の誰かが、ストレッチャーに乗って運ばれていくのが見えた。
「何事だ?」
夫が騒ぎに驚いている。
「救急車が来たみたい。ほらあの家に」
カーテンからそっと坂の下を伺う。
翌日も洗濯物を干しながら、あの家を見る。救急車で運ばれたのは、ご主人か奥さんのどちらかであろう。車が二台とも停まったままだからだ。
買い物から帰って来ると、お昼前だった。外は黒い雲が覆い、少しポツポツと雫が落ちている。これから本格的に降りそうだ。
急いで洗濯物を取り込もうと、ベランダへ出る。
よかった。間に合った。
全部取り込み、何気なくあの家の方を見ると女性が歩いていた。傘を持って坂の上に登ってくる。
雨なのに車を使わないのか?
少し不思議に思いながら、私は家の中に戻った。
◇
事件が起きたその日。
私は洗濯物を干しにベランダへと出た。あの家は、今も車が二台停まったままだ。息子の姿も見えない。
お昼、テレビでバラエティーを見た後、洗濯物を取り込みに、ベランダへと出た。
何か叫び声が聞こえた気がして、辺りを見回す。あの家に目をやると、自転車で走る後ろを女が追いかけているのが見えた。
え……
髪の毛を振り乱し走っているのは、あの家の女性だ。何か持っているようだが、遠くて見えない。
自転車に乗っているのは、あの家の息子か。
ただならぬ雰囲気に、ベランダから目を凝らす。二人が坂を登って来ると、だんだん見えてきた。女性が持っている物が光った。
包丁!
私はスマホを取り出す。
「警察ですか! 包丁を持った女性が人を追いかけていて、えっと、ここは……」
電話をしながらも、私は目が離せなかった。平凡な田舎で、こんな修羅場を目撃することになるとは。不謹慎だと思いながらも、私は興奮していた。早口で捲し立てている私に、包丁を持った女性が気が付いた。
見られた。
ずっと安全な家の中、外から観察に徹していた私は、急に渦中へ放り込まれた。
急いで家に入り、玄関のドアを開ける。
「早くこっちへ!」
自転車に乗った少年は自転車を乗り捨てると、必死になって逃げ込んできた。彼を家に入れ、鍵をかける。
「警察に連絡したから、きっとすぐに来てくれるわ! あなた大丈夫?」
「は、はい! ありがとうございます……」
しばらく家でじっとしていると、外からサイレンが聞こえてきた。警察が到着したようだ。
私はほっとした。
あの不審者は結局見つからなかった。
どうも、あの家は三人家族だったらしい。私は四人家族だと思っていた。そのくらい、あの女は当たり前のように、あの家に住んでいるように見えたから……
◇
私は、今日もベランダで洗濯物を干しながら、あの家を見ている。
あの女性は、一体誰だったのか?
あの家族は、今もあの家に住んでいる。私に見られている事も知らずに。




