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坂の下の家  作者: 紙絵
野呂美恵子 パート店員

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8/11

「ただいま〜」

 息子が帰ってきたのにも気が付かず、私は報告書を再び凝視していた。


「母さん、帰ったけど」

「母さん!」

 息子が呼ぶ大きな声に驚き、私はビクッと身体を震わせた。全く気が付かなかった。


「あ……健、おかえり」

「ただいま。母さん大丈夫?」

「うん、何が? 夕飯用意するね」

「……父さんは?」

「えっと、お風呂入ってるよ。あれ、そういえば長いかも?」

 時計を見ると、どのくらい呆然としていたのか分かって驚いた。


「どのくらいお風呂入ってるの?」

「えっと、一時間位かな……」

「俺見てくる」


 浴室へ向かう息子を見送り、自分の父親の死体を見つける役目にしてしまって……悪い事をしたと罪悪感が押し寄せる。


「父さん?」

 息子が驚いて叫ぶ声が聞こえる。

「父さん!」


「か、母さん!」

 息子が私を呼んだ。私は救急車を呼ぶ準備をする。それが今の私の役目なのだろう。


 救急車が到着して、救急隊員が夫を手際よく運んでいく。

「父さん……」

 息子が呆然と救急車を見つめている。

「母さん病院に一緒に着いてくから、健は寝てなさいね。また連絡する」

 私も救急車に乗り込むと発車した。夫は寝かされたまま動かない。しかし、まだ生きていたのか……私の心はそれしか思わなかった。


 病院に運ばれて、処置される夫を冷たい目で見ていると、警察がやってきた。


「野呂美恵子さんですね。警察署までご同行願えますか」

「……警察」


 私は捕まるのか。


 頭になかったが、人を殺そうとすれば捕まるに決まっている。家には私と夫しかいなかったのだから、当たり前である。


「旦那様は首に絞められた後があります。詳しくお話しを聞かせてください」

「……息子に連絡させてください」

「はい。少しならいいですよ」


 私は息子へ連絡をする。こんな時間に起こしてしまうのは可哀想だ。

「もしもし! 母さん?」

「もしもし健、ごめん、寝てたよね? 父さん一命は取り留めたんだけど、まだ意識は戻ってなくて……」

「そっ……そっか。あの、母さん」

「健、ごめん母さん、警察に行く事になって、父さん誰かに首を絞められた可能性があるみたいなの。あの時、家にいたのは母さんだけだったでしょ? 疑われちゃって……」

「そんなこと!」

「事情聴取だってさ。終わったら帰るけど、いつ帰れるか……健、ごめんね」

 私は心から息子に謝った。


「母さん! 俺、多分……」

「美恵子さん、そろそろ」


 息子が焦って何か言っているが、警察が割ってきてよく聞き取れなかった。


「え、どういう事? あ、もう電話切らないといけないみたい……」

 警察官は電話を受け取り、息子に簡潔に伝えた。

「もしもし、息子さんですね。警察の金城です。ご用のある場合は警察署へ」

「え!」

 電話を切って、スマホを私に返す。

「ご協力ありがとうございます。では、参りましょう」



 警察の取り調べ中、不意に息子が言っていた不審者の情報を思い出した。

 その女の特徴に、私は冷や汗が出ていた。


 写真で見た、夫の不倫相手に似ていないだろうか……


 もしそうだったら、あのピアスも、ネクタイも、あの女の仕業かもしれない。家に忍び込んでいた?

 今も家の周辺にいるのだろうか……


 ◇


「野呂美恵子さん、家へ帰っていただいて結構です。ご協力ありがとうございました」


 唐突に帰宅を言い渡され、私は戸惑った。


「息子さんから通報がありました」

「え?」

「家に侵入していた者に襲われたと、怪我はないようです」

「家に侵入!」

 もしや、あの女では?

「それと、ご主人の意識が戻ったそうです」

「あぁ」

 これで私は捕まる。夫が私がやったと証言するだろう。病院へ到着すると、意識が戻った夫がベットで横になっていた。


「美恵子……」

「意識、戻ったのね」

「あぁ」

「……犯人、本当に見てないの?」

「あぁ」

 私は答えた。


 私は自宅へ戻ることができたのであった。


 ◇


 ガチャ

「ただいま」


 夫が帰ってきた。


 今日も三人で食卓を囲む。

 鍵も変えて、この家にいるのは三人だけだ。そのはずである。もうあの女はいない。いつもの日常が戻ってきたのだ。

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