ネクタイ
玄関が勢いよく開いたのが分かった。鍵の音がいつもよりうるさい。息子が帰宅したようだが、焦っている?
「健おかえり、どうかしたの?」
私は玄関へ様子を見に行った。玄関チェーンまで付けてある。
「母さん…変な女が、俺の自転車を掴んできて……」
高校生の息子が怖いと言うなんて、よっぽどだ。
「どこで? 女の人?」
私は息子の背中をさする。息子は少しずつ何があったかを話し出した。
「警察に連絡するわ」
「いいよ、大袈裟にしなくても……」
「そう?」
私は心配だったが、息子の言う通りにすることにした。
◇
翌日買い物から帰ってくると、息子の自転車があるのが分かった。今日はバイトが休みらしい。
「ただいま〜。健〜いるなら手伝って〜!」
買い物の荷物を運んでもらおうと、私は息子を呼んだ。
「早く〜」
「もう、分かったよ!」
息子の声が聞こえる。
息子に荷物を運んでもらっている間に、手を洗おうと洗面所へ向かった。
お風呂洗わなきゃ。
思い出した私は、閉まっていた浴室のドアを開けた。湯船の中にパン屑のようなゴミが落ちていた。
なんでこんな所に?
不思議に思いながらも、私はお風呂掃除を始めた。
◇
パート終わりでスマホを見ると、探偵社から着信が入っていた。メールも来ているようだ。
私は急いで駐車場へ向かい、車内へ滑り込む。ドアを閉め、先にメールを開く。データも付いているようで、その一つをタップして開く。すると、知らない女と夫が写っている写真が現れた。
ああ。やっぱり。
そんな感想が頭の中で響いた。自分のことなのに、何故か俯瞰して見ている自分がいた。どこか上の空で探偵社へ電話をかける。
「もしもし、野呂様ですね。報告のメールお送りしました。そちらはご覧いただきましたでしょうか?」
業務的な対応に、自分もどこか業務的に受け答えする。
「はい。今見ました」
「もし、その先の事を考えるようでしたら、弁護士のご紹介もできますので、一度ご検討ください」
「その先……」
「はい。数十年に渡る不倫ですし、証拠もございます。それに、退職金を受け取らなかったのは別れ話で揉めた可能性が高いです。慰謝料はおそらく取れるでしょう」
「はぁ。まだ詳しく見ていないので、またご連絡します」
電話を切って、ぼーっとしながら帰宅した。今は不倫をしていないという事か、しかし退職金はこの女のせいで……?
自宅へ戻り、私は探偵からの報告書に目を疑った。
夫は浮気していたのだ。しかも、何年も。何十年も。
写真に写っている女は、全て同じ女だった。化粧の濃い、赤い口紅で夫の隣で腕を組み、笑っている。
同じ会社に勤めていた。しかもこの女は二重に不倫をして、夫を会社から追い出したらしい。
私は、何十年も裏切られてきたのか……
ガチャ
「ただいま」
鍵が開く音、夫の声。いつもの音に、私は悪寒がした。手が震える。おかえりの声が出ない、出せない。
「どうした?」
「ううん。は、早かったのね」
自分の口から言葉は出ているのに、どこか遠くから聞こえてくるような感覚だ。
「ああ。先に風呂入ってくる」
浴室のドアが開き、閉まる音がする。
私は自分の部屋へ向かった。
一旦、頭を冷やそう。
夫の部屋のドアが開いていた。いつも閉まっているのに? 私はドアを閉めようと部屋に近付くと、クローゼットも開いているのが目に入った。夫は細かい性格だ。クローゼットを開けたままなんて、ありえない。
クローゼットの中で、ネクタイが一つだけ落ちていた。それは、あまり夫が選ばない柄だと思った記憶のあるネクタイだった。
そうか、これはあの女のプレゼントだったんだ……
何年も目を瞑ってきた違和感の、点と点が繋がる。しかしそれは、気持ちのいいものではない。私の中で何かが切れた。私はそのネクタイを持って走る。
浴室のドアを思い切り開ける。夫は洗い場で顔を洗っていた。
私は感情のままに、ネクタイを首に巻きつけて思い切り引っ張った。くぐもった声がする。私は頭がだんだん冴えていくのがわかった。
夫の力が抜けたのがわかり、私は手を離した。
椅子に座ったまま項垂れている夫を残し、ネクタイを回収して二階に駆け上がる。急いでクローゼットの中へネクタイをしまい、ドアを閉めた。
私は濡れた服を着替えた。自分の部屋に湿った服をそのままに、私はゆっくりリビングへ降りて、ソファへ座った。
何も浮かばない。罪悪感も、達成感も。
机に置いてあったスマホを手に取り、ホテルから出てきた二人の写真を眺める。
私はソファに座ったまましばらく動けなかった。スマホを強く握りしめる。一体どのくらいそうしていたのだろう……




