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坂の下の家  作者: 紙絵
野呂美恵子 パート店員

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7/10

ネクタイ

 玄関が勢いよく開いたのが分かった。鍵の音がいつもよりうるさい。息子が帰宅したようだが、焦っている?


「健おかえり、どうかしたの?」


 私は玄関へ様子を見に行った。玄関チェーンまで付けてある。


「母さん…変な女が、俺の自転車を掴んできて……」


 高校生の息子が怖いと言うなんて、よっぽどだ。


「どこで? 女の人?」

 私は息子の背中をさする。息子は少しずつ何があったかを話し出した。


「警察に連絡するわ」

「いいよ、大袈裟にしなくても……」

「そう?」

 私は心配だったが、息子の言う通りにすることにした。


 ◇


 翌日買い物から帰ってくると、息子の自転車があるのが分かった。今日はバイトが休みらしい。

「ただいま〜。健〜いるなら手伝って〜!」

 買い物の荷物を運んでもらおうと、私は息子を呼んだ。

「早く〜」

「もう、分かったよ!」

 息子の声が聞こえる。


 息子に荷物を運んでもらっている間に、手を洗おうと洗面所へ向かった。


 お風呂洗わなきゃ。


 思い出した私は、閉まっていた浴室のドアを開けた。湯船の中にパン屑のようなゴミが落ちていた。


 なんでこんな所に?


 不思議に思いながらも、私はお風呂掃除を始めた。


 ◇


 パート終わりでスマホを見ると、探偵社から着信が入っていた。メールも来ているようだ。

 私は急いで駐車場へ向かい、車内へ滑り込む。ドアを閉め、先にメールを開く。データも付いているようで、その一つをタップして開く。すると、知らない女と夫が写っている写真が現れた。


 ああ。やっぱり。


 そんな感想が頭の中で響いた。自分のことなのに、何故か俯瞰して見ている自分がいた。どこか上の空で探偵社へ電話をかける。


「もしもし、野呂様ですね。報告のメールお送りしました。そちらはご覧いただきましたでしょうか?」

 業務的な対応に、自分もどこか業務的に受け答えする。

「はい。今見ました」

「もし、その先の事を考えるようでしたら、弁護士のご紹介もできますので、一度ご検討ください」

「その先……」

「はい。数十年に渡る不倫ですし、証拠もございます。それに、退職金を受け取らなかったのは別れ話で揉めた可能性が高いです。慰謝料はおそらく取れるでしょう」

「はぁ。まだ詳しく見ていないので、またご連絡します」

 電話を切って、ぼーっとしながら帰宅した。今は不倫をしていないという事か、しかし退職金はこの女のせいで……?



 自宅へ戻り、私は探偵からの報告書に目を疑った。

 夫は浮気していたのだ。しかも、何年も。何十年も。

 写真に写っている女は、全て同じ女だった。化粧の濃い、赤い口紅で夫の隣で腕を組み、笑っている。

 同じ会社に勤めていた。しかもこの女は二重に不倫をして、夫を会社から追い出したらしい。


 私は、何十年も裏切られてきたのか……


 ガチャ

「ただいま」


 鍵が開く音、夫の声。いつもの音に、私は悪寒がした。手が震える。おかえりの声が出ない、出せない。


「どうした?」

「ううん。は、早かったのね」

 自分の口から言葉は出ているのに、どこか遠くから聞こえてくるような感覚だ。

「ああ。先に風呂入ってくる」


 浴室のドアが開き、閉まる音がする。

 私は自分の部屋へ向かった。


 一旦、頭を冷やそう。


 夫の部屋のドアが開いていた。いつも閉まっているのに? 私はドアを閉めようと部屋に近付くと、クローゼットも開いているのが目に入った。夫は細かい性格だ。クローゼットを開けたままなんて、ありえない。


 クローゼットの中で、ネクタイが一つだけ落ちていた。それは、あまり夫が選ばない柄だと思った記憶のあるネクタイだった。


 そうか、これはあの女のプレゼントだったんだ……


 何年も目を瞑ってきた違和感の、点と点が繋がる。しかしそれは、気持ちのいいものではない。私の中で何かが切れた。私はそのネクタイを持って走る。


 浴室のドアを思い切り開ける。夫は洗い場で顔を洗っていた。

 私は感情のままに、ネクタイを首に巻きつけて思い切り引っ張った。くぐもった声がする。私は頭がだんだん冴えていくのがわかった。

 夫の力が抜けたのがわかり、私は手を離した。

 椅子に座ったまま項垂れている夫を残し、ネクタイを回収して二階に駆け上がる。急いでクローゼットの中へネクタイをしまい、ドアを閉めた。


 私は濡れた服を着替えた。自分の部屋に湿った服をそのままに、私はゆっくりリビングへ降りて、ソファへ座った。


 何も浮かばない。罪悪感も、達成感も。


 机に置いてあったスマホを手に取り、ホテルから出てきた二人の写真を眺める。

 私はソファに座ったまましばらく動けなかった。スマホを強く握りしめる。一体どのくらいそうしていたのだろう……

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