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坂の下の家  作者: 紙絵
野呂岳志 会社員

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4/10

あの女の影

 私が彼女と最初に出会ったのは、都心の会社に勤めている時だ。彼女は同僚だった。


 私は営業、彼女は事務員。

 とても仕事ができる彼女だったが、反面、とても細かかった。同じ事務員の同僚からは怖がられている存在だった。

 すでに既婚者で子供もいる私に、彼女は猛烈にアプローチしてきた。

 会社の飲み会の時、不意に隣に座り、手を絡ませてくる。


「酔ってるの?」

 女性にそんな事をされ慣れていない私は、焦って彼女に訪ねた。

「酔ってますけど、野呂さんこの後時間ありますか?」


 私も酔いが回っていた。

 いや、今思えば言い訳にしかならないが……


 それが最初に妻を裏切り、道を踏み外した日だ。それからは、家族には残業と嘘をつき、週二回彼女と会っていた。


 私は外見が良いわけでもないし、仕事ができるわけでもない。

 こんなおじさんに何故か、何か裏があるんじゃないかと、最初こそ思っていたが、次第に、私も案外捨てたものじゃないのだと調子に乗っていった。


 家族に対して、裏切っているという罪悪感もあったが、関係を続けていくうちに、それも薄れていった。


 ◇


 いつものホテルで言い合いになった。原因は私が別れを切り出したからだ。

 最近、妻に何か勘付かれているような気がするのだ。今更ではあるが、この関係も終わりにした方がいいのではないか。


「いいわ。私達の関係、会社にばらすから! そしたら、アンタなんか会社にいられなくなる」


 彼女は思った以上に頭に血が登っていた。


「そんなことしたら、君だって会社にいられなくなるぞ?」

「私は大丈夫!」

「大丈夫って……もしかして、私以外とも関係を? 飯島専務か!」

「そうよ! 会社で私が何をしたって守ってもらえるのはそうゆう事よ」

「くっ!」


 彼女は私だけでなく、私より上の立場の社員とも不倫をしていたのだ。彼女が会社で大きな顔をできる意味がようやく分かった。


 私は何年も騙されていたのか!


「辞表でも持ってきたら? 明後日まで言うの待ってあげるから」


 私が勤めた四十年。あと少しで定年というこの時期に、この仕打ちはないだろう。

 自主退職で退職金は貰えただろうか? 私は頭を抱えた。


 ◇


 私は結局、辞表を出した。

 皆に驚かれた。しかし、会社や家族に不倫がバレるのは耐えられなかった。

 しかし退職までの何日間か、私は社内で不倫をしていたのではないかとの噂が回った。せっかく言われた通りに自主退職したのに、私は薄ら笑いを貼り付けて、何とか残りの日を乗り切った。


「野呂さん、長い間お疲れ様でした」

 最終日当日、彼女は何事もなかったかのように微笑み、私に花束を渡してきた。


 移住を決めた理由は、この出来事がきっかけだった。地方の、私の事を知らない場所へ逃げたかった。

 妻には最後まで反対されたが、都心よりもお金がかからない場所で、ゆっくり畑仕事をするのが夢だったと押し切った。


 ◇


 ガチャ

「ただいま」


 私は鬱々としながら帰宅した。

 もう妻も息子も寝ているのだろう。室内は暗く、とても静かだ。

 移住は案外大変だった。今までの生活を変える事は、体力を使う。

 なんとか就職した職場。上司は私より年下だ。無性に前の職場が良いものに思えてきた。


 一体どこで間違えたのだろう? 彼女と出会ったあの時か……それとも別れを切り出したあの時か……


 私は重い足取りで風呂場へと向かった。

 洗面台の鏡を何気なく見た時、何か影が通った気がした。


 疲れてるんだな。


 そのまま風呂へ入り、倒れるように眠りについた。


 ◇


 ガチャ

「ただいま」


 美恵子が階段を急いで降りてきた。

「ちょっと、あなた」

「どうした?」

 妻の剣幕に気押され、私は驚きの表情で妻を見る。

「ねぇ、何か私に隠してる事ない?」

 その問いに、心臓が大きくはねた。

「何のことだ?」

 私はソファに座って動けなかった。シラを切り倒すしかない。

「私の部屋にピアスが落ちてたの。ほら、これ」

 ティッシュに包んだピアスを私に見せる。

「そんなの知らな……」

 私はそのピアスを見て、顔色を変えた。それは昔、私があの女に送った物だ。

「これは、何でここに、今更、俺に付き纏っているのか?」

 つい口をついてしまった。

「あなた、誰か連れ込んでるんじゃないでしょうね?」

 妻が軽蔑の眼差しで見てくる。

「そんな事するわけないだろ? むしろ健じゃないのか、高校生ならなくもない……」

 健には悪いが、罪を被ってもらおう。

「健だとしたら私の部屋には入らないでしょ! 何よこれ、本当気持ち悪い!」

 妻が珍しく声を荒げている。そしてピアスをゴミ箱に捨てて、二階の部屋へと行ってしまった。

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