赤い口紅
笑い声が後ろから聞こえてくる。
俺は振り返れなかった。死に物狂いで家に逃げ込む。震える手で鍵を開け、急いで鍵をしてチェーンもかける。
手も足も、ずっと震えていた。自分の心臓の音が大きく聞こえる。
「健おかえり、どうかしたの?」
俺がチェーンを閉めている音が聞こえたのだろう。母が玄関に出てきた。
「母さん…変な女が、俺の自転車を掴んできて……」
高校生にもなって情けない。しかし、震えは中々治まらない。
「どこで? 女の人?」
母が俺の背中をさする。俺は少しずつ先程の出来事を話した。
「警察に連絡するわ」
「いいよ、大袈裟にしなくても……」
「そう?」
俺は深呼吸して息を整えた。
部屋に戻り、クローゼットを開ける。
部屋着に着替えていて、ふと口紅を置いた場所を見る。
ない
下に落ちたのか、見当たらない。俺はしばし呆然とした。ふと頭をよぎった。
さっきの女、赤い口紅塗ってた
◇
「ただいま……」
翌日はバイトがなかった。昨日の今日で、夜にあの交差点近くに行くのが不安だった俺はほっとしていた。
時計は十六時。母は買い物だろうか、まだ帰っていないようだ。
俺は、リビングのソファに座ってスマホを見る。交差点が近いから、車の通る音がする。しかしそれとは別に、何か物音がするのに気が付いた。
浴室の方から、レジ袋をガサガサするような音がするのだ。
家にいるのは自分だけで、何か機械が動いている様子はない。俺は音を確認しようと立ち上がった。
間取りは、リビングを出て廊下を数メートル進むと、左側に洗面所があり、その奥に浴室がある。
リビングを出た所で、車が停まった音がした。おそらく母だろう。
廊下を進み洗面台へ入る。ガサガサの音は浴室から聞こえて来ている。浴室のドアは閉まっていた。
「ただいま〜」
母の声が聞こえた。俺は浴室とドアに手をかける。
「健〜いるなら手伝って〜!」
母が呼ぶ声が聞こえる。買い物の荷物を運んでほしいのだろう。母はまとめ買いをするので、あれは確かに重い。
「早く〜」
「もう、分かったよ!」
大きな声で返事をして、俺は浴室のドアを開け放つ。
特に何もない。いつもの浴室である。
一体、何の音だったのだろう?
俺は急いで玄関の母の元へと向かった。
◇
今日はバイトだったが、交差点にあの女はいなかった。無事に帰宅すると、明かりはついているのに家の中がとても静かだった。
「母さん、帰ったけど」
母はソファに座ったまま微動だにしない。スマホを握りしめている。
どうしたのだろう?
「母さん?」
リビングに入り、近くで呼びかけると、母がビクッと身体を震わせる。
「あ……健、おかえり」
「ただいま。母さん大丈夫?」
「うん。夕飯用意するね」
「……父さんは?」
「えっと、お風呂入ってるよ。あれ、そういえば長いかも?」
母が時計を見る。
「どのくらいお風呂入ってるの?」
「えっと、一時間位かな……」
「俺見てくるよ」
普段の父は烏の行水だ。長く入っているのは珍しい。廊下を出て洗面所に入り、風呂場のドアを開ける。
「父さん!」
洗い場の椅子に座ったまま、父はうな垂れていた。思い切りドアを開けたのに、全くこちらを見ない。
「父さん?」
もう一度声をかける。
肩を叩くと、冷たかった。父は口から涎を垂らして意識を失っていた。首筋にアザがある。
「か、母さん!」
俺は夢中で母を呼んだ。
救急車が到着して、救急隊員が父を手際よく運んでいく。俺はその様子を呆然と見送った。なんだか現実味がない。夢を見ているみたいだ。
「父さん……」
「母さん病院に一緒に着いてくから、健は寝てなさいね。また連絡する」
そう言い残して、母も救急車に乗り込んで行った。皆がいなくなると、さっきの騒ぎが嘘のように、途端に静かになった。
夕飯を食べる気にならず、シャワーだけ浴びる事にした。
一通り洗い終わると、床が水たまりのようになっているのに気付いた。水の流れが悪いようだ。排水口部分の蓋を開けてみる。
そこには、黒くて長い髪が幾つも絡み合っていた。
「うわっ!」
思わず声が出る。
家族に長い髪の人物はいない。自分も父親も短髪だし、母さんは茶髪のショートカットだ。
なんでこんなに長い髪の毛が?
脳裏に交差点にいた女が浮かぶ。が、そんなはずはない。何も考えないようにして、排水口の髪の毛を捨てた。
早く寝よう。
ドライヤーを鏡の後ろ収納から取り出す。開いた鏡を閉じると、後ろに誰かが通った。
父も母も病院にいる。家には俺しかいないはずだ。
気のせいだ
目の錯覚か何かのはずだ。無意識に後ろに神経を集中させて、素早く髪を乾かす。逃げるように自分の部屋へ急ぐ。部屋のドアを閉め、布団へ入る。
緊張していたが、同時に疲労もあり、すぐに眠りについた。
何故か目が覚めた。
時計を見ると夜中の二時。その時、階下から音がするのに気付いた。
これは……テレビの音だ。
布団の中でぼんやりしていると、音が消えた。
階段を登ってくる音がする。
母さん帰ってきたのか……
もう一度眠りにつこうとした所で、ドアノブがガチャリと音を立てた。部屋のドアがゆっくり開いていく。
薄目で入り口を見ると、ドアの開いた隙間から覗いていたのは母ではなかった。俺の心臓は大きく脈打っている。
部屋の小さな灯りが、人間の輪郭を浮き上がらせる。
そこには長い髪の女が立っていた。
え?
俺は一気に目が覚めた。恐怖で体が動かない。ドアがゆっくり閉まっていく。
それは一瞬の事だったが、とても長く感じられた。
どうしよう……あれは交差点で、俺の自転車を掴んだ女だ。一瞬しか見えなかったけど、間違いない。
この部屋のドアに鍵はない。音を立てないよう、入り口に本棚を置き、部屋のドアを開けられないようにした。
警察に連絡しよう!
スマホは……ない?
枕の下、鞄の中、机の上……この部屋にはない。もしかしたら洗面所か? リビングかもしれない。
俺は絶望した。
ドアを開けるのが怖い。
もし、今ドアを開けた時に、目の前にあの女が立っていたら?
赤い口紅を塗った口が、弧を描いて笑う姿を想像し、俺は立ちすくむ。窓の外はまだ暗い。
朝まで待とうか……母さんの帰りを待ってから……
その時、また音が聞こえた。
俺のスマホが鳴っているようで、一階から聞こえてくる。やはり、どこかに置き忘れたようだ。俺は意を決して本棚をずらし、一気にドアを開けた。
あの長い髪の、ワンピースを着た女は……いない。
ほっと息をつき、俺は階段を駆け降りる。
スマホは玄関の下駄箱の上にあった。震える手で電話に出ようとして、落としてしまった。玄関ドアの前に。落ちたスマホが鳴っている。
しゃがんでスマホを拾う際に、玄関のカギが閉まっているのが目に入った。
「もしもし! 母さん?」
「もしもし健、ごめん、寝てたよね? 父さん一命は取り留めたんだけど、まだ意識は戻ってなくて……」
「そっ……そっか。あの、母さん」
「健、ごめん母さん、警察に行く事になって、父さん誰かに首を絞められた可能性があるみたいなの。あの時、家にいたのは母さんだけだったでしょ? 疑われちゃって……」
「そんなこと!」
「事情聴取だってさ。終わったら帰るけど、いつ帰れるか……健、ごめんね」
「母さん! 俺、多分犯人分かる!」
「え、どういう事? あ、もう電話切らないといけないみたい……」
「もしもし、息子さんですね。警察の金城です。ご用のある場合は警察署へ」
「え!」
シン……切れた。
俺は部屋に戻って扉を閉める。
あの女のこと、言えなかった。父さんは病院、母さんは警察署。俺は容疑者の息子、俺の言うことを警察が聞いてくれるとは思えない。
ん?
不意に思い出す。首筋に冷たい汗が流れる。
カギ、かかってたよな?
今、玄関のカギを見た。しっかりかかっていたのを確認した。
ってことは、あの女は今この家の中にいるってこと……?




