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坂の下の家  作者: 紙絵
野呂健 高校一年生

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2/6

赤い口紅

 笑い声が後ろから聞こえてくる。

 俺は振り返れなかった。死に物狂いで家に逃げ込む。震える手で鍵を開け、急いで鍵をしてチェーンもかける。

 手も足も、ずっと震えていた。自分の心臓の音が大きく聞こえる。


「健おかえり、どうかしたの?」


 俺がチェーンを閉めている音が聞こえたのだろう。母が玄関に出てきた。


「母さん…変な女が、俺の自転車を掴んできて……」


 高校生にもなって情けない。しかし、震えは中々治まらない。


「どこで? 女の人?」

 母が俺の背中をさする。俺は少しずつ先程の出来事を話した。

「警察に連絡するわ」

「いいよ、大袈裟にしなくても……」

「そう?」

 俺は深呼吸して息を整えた。


 部屋に戻り、クローゼットを開ける。

 部屋着に着替えていて、ふと口紅を置いた場所を見る。


 ない


 下に落ちたのか、見当たらない。俺はしばし呆然とした。ふと頭をよぎった。


 さっきの女、赤い口紅塗ってた


 ◇


「ただいま……」


 翌日はバイトがなかった。昨日の今日で、夜にあの交差点近くに行くのが不安だった俺はほっとしていた。

 時計は十六時。母は買い物だろうか、まだ帰っていないようだ。


 俺は、リビングのソファに座ってスマホを見る。交差点が近いから、車の通る音がする。しかしそれとは別に、何か物音がするのに気が付いた。

 浴室の方から、レジ袋をガサガサするような音がするのだ。

 家にいるのは自分だけで、何か機械が動いている様子はない。俺は音を確認しようと立ち上がった。


 間取りは、リビングを出て廊下を数メートル進むと、左側に洗面所があり、その奥に浴室がある。


 リビングを出た所で、車が停まった音がした。おそらく母だろう。

 廊下を進み洗面台へ入る。ガサガサの音は浴室から聞こえて来ている。浴室のドアは閉まっていた。


「ただいま〜」

 母の声が聞こえた。俺は浴室とドアに手をかける。


「健〜いるなら手伝って〜!」


 母が呼ぶ声が聞こえる。買い物の荷物を運んでほしいのだろう。母はまとめ買いをするので、あれは確かに重い。


「早く〜」

「もう、分かったよ!」


 大きな声で返事をして、俺は浴室のドアを開け放つ。

 特に何もない。いつもの浴室である。


 一体、何の音だったのだろう?

 俺は急いで玄関の母の元へと向かった。


 ◇


 今日はバイトだったが、交差点にあの女はいなかった。無事に帰宅すると、明かりはついているのに家の中がとても静かだった。


「母さん、帰ったけど」

 母はソファに座ったまま微動だにしない。スマホを握りしめている。


 どうしたのだろう?


「母さん?」

 リビングに入り、近くで呼びかけると、母がビクッと身体を震わせる。

「あ……健、おかえり」

「ただいま。母さん大丈夫?」

「うん。夕飯用意するね」

「……父さんは?」

「えっと、お風呂入ってるよ。あれ、そういえば長いかも?」

 母が時計を見る。

「どのくらいお風呂入ってるの?」

「えっと、一時間位かな……」

「俺見てくるよ」


 普段の父は烏の行水だ。長く入っているのは珍しい。廊下を出て洗面所に入り、風呂場のドアを開ける。

「父さん!」

 洗い場の椅子に座ったまま、父はうな垂れていた。思い切りドアを開けたのに、全くこちらを見ない。

「父さん?」

 もう一度声をかける。

 肩を叩くと、冷たかった。父は口から涎を垂らして意識を失っていた。首筋にアザがある。

「か、母さん!」

 俺は夢中で母を呼んだ。


 救急車が到着して、救急隊員が父を手際よく運んでいく。俺はその様子を呆然と見送った。なんだか現実味がない。夢を見ているみたいだ。

「父さん……」

「母さん病院に一緒に着いてくから、健は寝てなさいね。また連絡する」

 そう言い残して、母も救急車に乗り込んで行った。皆がいなくなると、さっきの騒ぎが嘘のように、途端に静かになった。


 夕飯を食べる気にならず、シャワーだけ浴びる事にした。

 一通り洗い終わると、床が水たまりのようになっているのに気付いた。水の流れが悪いようだ。排水口部分の蓋を開けてみる。

 そこには、黒くて長い髪が幾つも絡み合っていた。

「うわっ!」

 思わず声が出る。

 家族に長い髪の人物はいない。自分も父親も短髪だし、母さんは茶髪のショートカットだ。


 なんでこんなに長い髪の毛が?


 脳裏に交差点にいた女が浮かぶ。が、そんなはずはない。何も考えないようにして、排水口の髪の毛を捨てた。


 早く寝よう。


 ドライヤーを鏡の後ろ収納から取り出す。開いた鏡を閉じると、後ろに誰かが通った。

 父も母も病院にいる。家には俺しかいないはずだ。


 気のせいだ


 目の錯覚か何かのはずだ。無意識に後ろに神経を集中させて、素早く髪を乾かす。逃げるように自分の部屋へ急ぐ。部屋のドアを閉め、布団へ入る。

 緊張していたが、同時に疲労もあり、すぐに眠りについた。


 何故か目が覚めた。


 時計を見ると夜中の二時。その時、階下から音がするのに気付いた。


 これは……テレビの音だ。


 布団の中でぼんやりしていると、音が消えた。

 階段を登ってくる音がする。


 母さん帰ってきたのか……


 もう一度眠りにつこうとした所で、ドアノブがガチャリと音を立てた。部屋のドアがゆっくり開いていく。

 薄目で入り口を見ると、ドアの開いた隙間から覗いていたのは母ではなかった。俺の心臓は大きく脈打っている。

 部屋の小さな灯りが、人間の輪郭を浮き上がらせる。

 そこには長い髪の女が立っていた。


 え?


 俺は一気に目が覚めた。恐怖で体が動かない。ドアがゆっくり閉まっていく。

 それは一瞬の事だったが、とても長く感じられた。


 どうしよう……あれは交差点で、俺の自転車を掴んだ女だ。一瞬しか見えなかったけど、間違いない。


 この部屋のドアに鍵はない。音を立てないよう、入り口に本棚を置き、部屋のドアを開けられないようにした。


 警察に連絡しよう!

 スマホは……ない?


 枕の下、鞄の中、机の上……この部屋にはない。もしかしたら洗面所か? リビングかもしれない。

 俺は絶望した。


 ドアを開けるのが怖い。


 もし、今ドアを開けた時に、目の前にあの女が立っていたら?

 赤い口紅を塗った口が、弧を描いて笑う姿を想像し、俺は立ちすくむ。窓の外はまだ暗い。

 朝まで待とうか……母さんの帰りを待ってから……


 その時、また音が聞こえた。

 俺のスマホが鳴っているようで、一階から聞こえてくる。やはり、どこかに置き忘れたようだ。俺は意を決して本棚をずらし、一気にドアを開けた。

 あの長い髪の、ワンピースを着た女は……いない。


 ほっと息をつき、俺は階段を駆け降りる。

 スマホは玄関の下駄箱の上にあった。震える手で電話に出ようとして、落としてしまった。玄関ドアの前に。落ちたスマホが鳴っている。


 しゃがんでスマホを拾う際に、玄関のカギが閉まっているのが目に入った。


「もしもし! 母さん?」


「もしもし健、ごめん、寝てたよね? 父さん一命は取り留めたんだけど、まだ意識は戻ってなくて……」


「そっ……そっか。あの、母さん」


「健、ごめん母さん、警察に行く事になって、父さん誰かに首を絞められた可能性があるみたいなの。あの時、家にいたのは母さんだけだったでしょ? 疑われちゃって……」


「そんなこと!」


「事情聴取だってさ。終わったら帰るけど、いつ帰れるか……健、ごめんね」


「母さん! 俺、多分犯人分かる!」


「え、どういう事? あ、もう電話切らないといけないみたい……」


「もしもし、息子さんですね。警察の金城です。ご用のある場合は警察署へ」


「え!」

 シン……切れた。


 俺は部屋に戻って扉を閉める。


 あの女のこと、言えなかった。父さんは病院、母さんは警察署。俺は容疑者の息子、俺の言うことを警察が聞いてくれるとは思えない。


 ん?


 不意に思い出す。首筋に冷たい汗が流れる。


 カギ、かかってたよな?


 今、玄関のカギを見た。しっかりかかっていたのを確認した。


 ってことは、あの女は今この家の中にいるってこと……?

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