第八話
人は醜い。
恐ろしい。
何を考えているのだか。
例えば誰かを傷つけ、あげつらい、いじめ、馬鹿にし、哄笑し、殴って、蹴って、燃やして、寄ってたかって人以下の扱いをして、そしてそれを何ということは無いという表情で見つめ、平気な顔をして生きている。
怖くはないのだろうか、自分の存在が誰かにとって抗いようがなく殺したい程の障害に、壁になっていて、実際に殺されるとは思わないのだろうか?
自分の行動によって後ろから刺されるということを全く配慮していない、そんな生き様を、皆が皆疑わずに繰り返している。
それこそが何よりも恐ろしい。
僕にはその感性が理解出来ないし、昔からその齟齬が、善性や悪性を超過して、善意や悪意を飛び越して、善行や悪行を過ぎ去って、僕を人間らしくない何かたらしめているらしい。
しかしそれは僕だって同じだ。
同じ生物という言葉は、未だに何か迷信、遠い世界の違う言語のように聞こえて信じられない。
結局分かり合えないのだろう。
どれだけ慈しもうとしても、それは本能や性能に隔たれる。
この「否定症候群」を抱く限り、きっと「彼女」以外に本当の意味での愛情は抱けない。
その愛情だって敬愛に近いし、真っ当な感性を持っているとは言い難い。
だから僕は、こんな僕だから、あの夜の思い出に縋って、一生を掛けて「彼女」を追い続ける。
そして殺すのだ。
この手で、必ず。
そう思って目を開けた。
天井だった。
視界に映ったのは、見知った天井。
黒い時計は午前九時を指している。
窓の向こう側は薄暗い。
朝は嫌いだ。
しかし冬の朝だけはなぜか嫌いになれず、不思議と心が躍る。
周囲が薄暗いからか、良い思い出と同着しているからか。
?いや、違う。僕は冬の朝なんか大嫌いだ。だって朝起きた時に、「彼女」はいなくて、僕を置いて行ってしまって、あの時の、心があるのかもしれない、胸、鎖骨の真下にある大切な場所にぼぐりと穴が空き、その穴にひゅうひゅうと冷たい液体が流れ込んで虚無を感じるのを加速させ、その虚空は何よりも鋭く感情を抉る。そんな記憶、嫌いになるに決まっている。
冬の朝なんて最低だ、あれ、でも、どうだっただろうか・・・。
置いて行かれた?
「先生?どうか、しました?」
部屋のドアが開いた。
そこに立っているのは、灰色の髪の毛を腰まで伸ばした、僕を「先生」と呼ぶ、白いワンピースを纏った少女。
「あ・・・。」
「?どうかしましたか?」
夜、共に歩いた。
明け方、隣を歩く約束をした。
僕の人生を百八十度捻じ曲げた、「彼女」が立っていた。
悠然と、自然と、漫然と、そこにあることこそが本当の意味で正しいと主張するように、恐らく世界で一番自信を持って、凛とした百合の花のように、咲き誇る花びらの先から朝露が垂れる、それを指先で受け止める、瞬間冷たさと同時に達成感、そして喜びを感じる、その喜びだ、それを視覚的に伝えるような立ち姿。
「あの、どうかしましたか?」
視界が歪む。
声が出ない。
喉の奥に何かが詰まっている。それが喉に嗚咽の形を取らせて、呼吸が浅く、薄い。
瞳から、眼球の奥から、涙がぼたぼたと流れていた。
「・・・あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよぉ・・・。」
「何です、そのおかしな話し方。昨日の夜から何かありましたか?」
む、とその端正な顔が僅かに歪む。
手の甲や掌で受け止めようとしても涙が溢れ出てくる。
そうだった、僕は敬語なんて使わない。
そんなもの使いたくもない、嫌いだ、だって気持ちが悪いから。
なのにどうして、「彼女」を思い出せるようにとか、心が折れないようにとか、真似をしたいとか、そんな馬鹿らしい感情が、感傷が心の片隅に湧き上がったのだろう。
不思議なことがあるものだ。
結局気持ちがすぐに落ち着いた。
時間が経てば経つ程乱れた感情は落ち着いていった。
自分でも不思議なくらい、熱が引くように引いていって、今では平静だけが残っている。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。ごめん、心配かけて。朝ご飯、食べる?」
「はい。オムレツが食べたいです。」
「昨日オムライス作ったよね?』
卵残っていたかな。
両親はまだ帰ってきていないらしい。
仕事が忙しいのだろうし、何も言うまい。
もう見慣れて日常になっている自宅の中を歩いてキッチンへ向かう。
「着替えはしないんですか?」
「後でするよ。座って待ってて。」
キッチンは昨日使った食器がシンクに置かれている。
冷蔵庫を開けて材料を取り出す。
卵はまだ残っていたので、それと、バター、それとひき肉を取り出す。
卵だけのオムレツも好きだけど、あの子は栄養が足りないように思える。細過ぎる。
カロリーを摂らせたい。
まずはひき肉を焼く。
いい感じに焼けたら一旦皿に移す。
鼻腔をくすぐる匂いにささやかな空腹が主張させられる。
食べ物というのは、調理過程が一番空腹になるのではないかと思う。
出来上がってしまうと、疲労と、達成感からか、もう食べ終わったような気分になり食べるのが億劫になってしまう。
だから自分の必要は無く、「彼女」の分だけ作れば良い。
幸田文も言っていたけれど、空腹の時は味付けがくどくなり、満腹の時は味が薄くなる。今は丁度良い空腹なので「彼女」も満足させられるだろう。
余計なことを考えながら次に卵を割る。
それを泡立て器を使って丁寧に混ぜていく。
バターをフライパンに溶かし、卵を焼く。
そこに肉を入れてくるんと回す。
それを皿に乗っけて完成だ。
「出来たよー。お箸出してー。」
「はい、あ、先生の分は必要無いのですか?」
「うん。今日はあんまり食欲無いし。ていうか朝は食べたくないし。」
「いけませんよ。しっかり食べなければ。思春期なんですから。」
「君はいつから僕の母親枠を取ったの・・・。」
お皿を片手で渡すと、それを両手で受け取ってぱたぱたとした足音を鳴らしながらキッチンから出ていく。
ダイニングに座らせて、僕はその向かい側に座る。
嬉しそうな雰囲気を滲ませながら手を合わせる。
「いただきます。」
「はいどうぞ。」
湯気の立つ黄色のオムレツを、躊躇なく口に運んでいる。
冷ます必要も無いのだろう。
僕だってそうだ。
一度も箸を止めること無く食べ進めていく。
「弟さんはどちらに?いらっしゃるとお聞きしましたけど。」
「合宿中。サッカーの。明日には帰ってくるよ。」
「ご両親はお仕事でしたっけ。」
「うん。二人共忙しいみたいでね。繁忙期だって。」
「もうすぐ年末ですからね。」
人の営みが活発になる年末年始は、昔から好きじゃない。
人がめでたいと思うことが既に嫌で、めでたいことが騒ぐ口実、何かの言い訳に見えてきて、お前達は素直に騒ぎたい、喚きたい、皆で全てをほっぽって遊びたいです、と自分の欲望に正直にすらなれないのか、そんなにも脆弱で臆病で、他人のことばかり気にするのに、結局その臆病に誠実にならずに言い訳と御託を並べて騒ぎ喜ぶのか、と捻くれたくなる。
実際、とっくに捻くれているのだろう。
「では先生はもう冬休みの真っ只中、ということですか?」
「いや、冬休みは来週から。言ってなかったっけ?」
「何も。」
「君、学校には通ってたんだよね?覚えてないの?」
「小学校三年生の段階で辞めました。そもそも日付だって曖昧ですから。」
そう言っているけれど、あまり気にしている様子は無いので、昨日と同じように適当なことを言っているだけだろう。
オムレツはすぐに無くなった。
「ひき肉、美味しかったです。」
「良かった。朝からよく食べられるね。」
「美味しいものに時間は関係ありません。」
お皿を、ひょいと取り上げて、昨日と同じようにシンクに置く。
昨日の食器とまとめて洗う。
ばちゃばちゃと音を立てながら、皿を洗っていく。
昔からよく家事を手伝っていた。
人に対する信頼が無いというのは、つまり親に対する信頼が、安心が無いことを意味していて、僕は昔から両親からの愛情が一時的な、一過性のものにしか思えず、だから愛想を尽かされないようにと必死で、取り繕おうと、手間がかからぬようにと、しかしその癖大したことは出来なくて、子供の手伝いの枠を出なかった。
僕は大庭葉蔵にはなれなかった。
逆に言えば、こんな僕が幼い頃そう思えるくらいには良い親、好感が持てる親だったということだけど・・・。
「?親“だった“?」
何故過去形?
今もそうだというのに、何だろうか、この感覚。
もう会えないような、この世にいないという確信が、心の内側に巣食っているような。
「・・・?変なこともあるものだなぁ。」
お皿の水を切る。
食器も同じようにして、置いておく。
「私、荷物を纏めておきますね。」
「荷物?君身一つで来なかったっけ?」
「えぇ、ですから先生の荷物です。必要そうな物を見繕っておきますね。」
「何をしているんだ君は。僕の荷物は僕が纏めるよ・・・。」
そうは言ってみたものの、どうやら無駄だったようで、すたすたと僕の部屋に歩いていく。
本気で荷物を纏めるつもりだろう。
まぁ良い。
どうせ着替えくらいしか荷物にはならないだろうし、物に執着は無い。
物の取捨選択は苦手だ。
いっそ「彼女」が決めてくれた方が早いかもしれない。
「終わりっと・・・。」
両親に一応メールを送ってみる。
いつ帰ってくるのか、と送ってみると、すぐに返信が返ってきた。
帰るのは昼過ぎになるらしい。
むしろ夜でないだけ早いだろう。
今日は学校だけど、行く気は無い。
多分一生、学校の敷居を跨ぐ気もない。
そんな面倒なものも、社会性も、周囲の空気も、何もかも、世間を切り離して、そうやって遠くへ行くのだ。
世間が僕らを切り捨てるのではない。僕らが世間を切り捨てるのだ。
何てことはない顔をして、涼しい表情で、至極一般的なことのように片手間に、お前達なんてどうでも良いと捨ててやるのだ。
それは心が躍るだろう。
それを許してくれるのは、他でもない「彼女」なのだから。
今まで世話になった家というのもあるので、恩返しの意味も込めて掃除機をかける。
床を綺麗にして、壁も綺麗にして、ゴミを捨てて。
窓も磨いて、かなりさっぱりとした空気になった。
掃除機をかける時はイヤホンをつけた。うるさいからだ。
するとリビングに「彼女」がひょっこりと出て来た。
「終わりましたか?うるさかったですよ。」
「ごめん。そっちはどう?するべきこととか、残ってない?」
「はい。何なら本棚の本を読み漁っていました。」
こっくり、と独特のリズムで頷くその手には、我が家に大量にある本の一冊が抱かれている。
抱えているのは佐藤春夫の小説だけど、どちらかと言えば読み始めようとして手に取ったまま来たのだろう。
ちらちらと本の方を見て、先を読みたいという欲求を感じる。
ならば何故読み切る前に来たのか・・・と思ったけれど、それを待っていたら数時間かかるのは違いない。
「そっか。何を読んだの。」
「坂口安吾の「夜長姫と耳男」と、中原中也の「詩論」です。」
本棚のある廊下を一瞥する。
あの短時間でよく読んだな、詩集と短編小説。
「あぁ。「芸術とは、自我を愛することの、誠実であることの、褒賞である!」」
「「生きるとは、自我を愛することである!」・・・ですよね?」
「僕は中原中也よりも太宰治が好きなんだけどね。」
「あの人は詩人で、太宰治は小説家です。土俵が違います。」
「それもそうだ。」
あぁは言ったけれど、僕も詩人に限れば中原中也は結構好きな部類なんだよなぁ・・・。
でも昨日か、もっと前は、別の人、島崎藤村とかの方が好きだった気がするけど・・・。
何故だろう?
そうだ、「彼女」が、中原中也が好き、と言うから、好きになったのだった。
「彼女」が好きな物を好きでいることで「彼女」と会った時に、今まで忘れなかったよ、と、君のせいで好きな詩人すら変える羽目になったんだよ、と、皮肉を交えて笑ってやろうと。
そうやって、なじってやろうと。
思った気がしたけれど、どうにも思考が方向を失っている気がして振り払う。
何なんださっきから。
何かがおかしい。
どこかが食い違っている。
思考、意思、感覚、そういう大切な、自己の上で成立している行動が食い違い、違っているような。
けれども違和感を覚えた頃にはその理由や違和感の正体は記憶からすり抜けている。
とろとろと粘性のある水が、いつまでも僕の脳味噌、そして脊髄へ、後を引くように流れ続ける。
そういう感覚。
僕は何を忘れているんだろう?
何を勘違いしているのだろう?
この限りなく何も無いに等しい虚無感。
吐き気すら催すこれは何なんだろうか?
「彼女」に関係している気がする。
「彼女」という存在が、この違和感の、世界に対する不和の起点になっている気もする。
しかしそんな思考すらもすぐに流れていく。
「先生?どうしたんです黙りこくって。」
そう言って「彼女」は手を繋いでくる。
冷たい。
普通の人よりも体温が低いように感じる。
「具合でも悪いのですか?」
「いや、違うよ。頗る快調。ただ・・・何か、君に聞きたいことが、あった気がして。」
「そうですか。それで何を?」
「忘れちゃったんだよ。おかしいな、あんまり物忘れはしない方だと思ってたんだけど。過信だったかな・・・。」
「過小評価よりは過大評価の方が人生は楽に生きられますよ。」
玄関を見る。
掃除も終わって、ご飯も食べて、もうここを出る支度は出来た、と言いたいのだろう。
着替えそっちのけだったので、一旦断りを入れて部屋に戻る。
鏡には黒髪の、普通の、どこにでもいる少年が映っている。
世の中を忌み嫌う、捻くれた少年。その面影。
病名をもらってからは、自分だけが異質なのではなく、この、生まれついて背負ってきた精神の疾患によるもので、人間を外れた思考回路を抱く、人間ではない何かなのではないかというひっそりとした恐怖から解き放たれることができた。
だから面影だ。
もうその憂い自体は無くなっている。
昨日の夜に何故か来た学生服、学ランから着替える。
外観に興味を持たないせいでおしゃれな私服なんてものは持っていない。
だから本当に単純というか、シンプルな白いシャツと黒いズボンという、どこにでもある服装。
まぁそれを気にするような子でもないだろう。
部屋を出る。
廊下の本を眺めていると、何冊か持って行きたい気持ちもあるが、荷物を増やすのも嫌だ。
後で読みたくなったら買えば良いだろう。
そう思ってリビングに戻る。
「彼女」は既にリビングには姿が無く、玄関の前を陣取っていた。
僕が昨日貸したコートを着込んでいる。
外はまだ寒いからだろう。
僕に気が付いて、玄関の扉に手をかける。
鍵を開ける。
「先生。行きましょう。」
その言葉は、僕の過去の人生のどんな経験、言葉よりも大きな喜びを与えてくれた。
ずん、と腹の奥に響き食い込むような多大な喜び。
僕はそれに従う。
ドアを開けようと力を込め、そして無言で僕に代わる。
「?どうしたの?」
「・・・重たい。」
「あぁ。」
気温差でドアが重たくて、開けられなかったのだろう。
「昨日は普通に開けてなかった?」
「昨日はドアを開けようという確固たる意欲がありましたから。」
「要は面倒だと。」
「流石先生察しが良い。さ、開けて下さい。」
僕は片手でぐっと力を込め、ドアを開ける。
外は室内よりもずっと寒かった。
人通りはあるものの、学生や会社員の姿は無い。
まぁ、もう九時過ぎているから当然か。
まばらに人通りがあるけれど、思ったよりは閑散としている。
「どこに行く?」
「どこに行きましょうか。一先ず電車に乗るとか?」
「ごめん、ここ田舎だから駅無い。まずバスに乗らないと・・・。」
「彼女」は歩いて来たと言っていたし、バスには乗ってきていないだろう。
昨日の夜に教えてくれた通り、僕らのような患者達はとても人とは思えないような体力や筋力を発揮できるようだ。
鬱病なんかは、逆に脳の機能が落ちることによる思考力、集中力の低下なんかが起きるようだけど、逆なんだなぁと思う。個人差あるらしいけど。
「じゃあバスにしましょう。何時に来るんです?」
「十時半・・・、だった筈。僕あんまりバス乗らないから、よく覚えてないけど。」
「学校まで何時間歩いているんですか?」
「そこまで僻地じゃないよ。普通に歩いて四十分くらいの所にあるの。」
バス停に迷いそうになりながら辿り着き、少しの間待つ。
スマホは家に置いてきた。
本も、リュックの中に残っていた文庫本一冊だけ。
それを二人で読んで時間を潰す。
太宰治の短編集。
「次のページへ。」
「まだ読んでるんだけど。」
「一度読んだことがあるでしょう。次へ。」
「傲岸不遜め・・・。」
そう言いながら、穏やかに二人で待つ。
バスが来るとまた、やれ後ろだ前だと座る所で揉め、結局後ろの席に二人並んで腰を下ろした。
行き先は決めていなかった。
財布に入っているお金が足りなくなったら、その時はその時だから、逃げて仕舞えば良いとすら思った。
心が躍る。
こんなにも先のことが楽しみだなんて他に、嘗てのどんな場面だって無い。
言いようのない多幸感だけがある。
ふと見れば、「彼女」が微笑んでいる。
昨夜見せたような微笑。
はにかむような、謙虚な、控えめな、美しい微笑。
「・・・ねぇ。」
「何です?」
隣にいてくれて、嬉しい。
君と一緒にいられて、嬉しい。
目的が一致していて、その為に行動していて、全てを捨て去れるのが、今、とても嬉しい。
このまま、誰もいないような遠くへ、悪も善も正常も異常も人間も動物も臓器も決まりも制約も空気も雰囲気も縛りも躊躇いも何もかもから解き放たれたような場所へ二人で行って、そしてそのまま二人で消えようね。
そう言おうと思った。
けれども少し待って、先に気になっていることから言葉にしようと決めた。
「君、名前は何て言うの?教えてよ。」
昨日はただ一晩泊めるということだけだったから、訊こうという発想すらも無かった。
一種のタブーのようになっていた。
しかしもう良いだろう。
僕らはこれから、運命共同体のように、互いが互いを支えにする、果てに共に死ぬ、行き摺り成り行きだけではとても収まらない関係性になったのだ。
「彼女」は一瞬驚いたような表情をして、僕の顔をじっと見つめて、ふと口を開ける。
それはきっと、何かを言おうとして。
腹に、重たい、ずん、という衝撃が走った。
「・・・?何だ、これ?」
見れば、じわじわと腹部から血液が染み出している。
かなりの出血量だ。
痛みは無い。
しかし感覚から、かなり深い位置、下手をすれば内臓まで穴が空いていることが分かる。
刺されているのだ。
しかし凶器は見えない。
視界が霞む。
「彼女」の姿がぼやけて、滲んで、遠ざかっていく。
声が出なくなっていく。
手を伸ばす。
その手を、夢の中で握られた手よりも、ほんの少し暖かな、華奢でやわい手が包み込んだ。
「先生。」
口の中で、嗅ぎ慣れた匂いと味を感じた。
血液。
それが僕を囲っている。
腹部を見れば細身のナイフが突き刺さっていた。
上からもう見慣れてしまった少女が覗き込んでいる。
「暮ちゃん・・・?」
「そうです。おはようございます。良い朝ですね。起きて下さい。その身を起こして早急かつ迅速に立ち上がり武器を持って私達に危害をなそうとする輩に鉄拳制裁、血を伴うような痛覚に訴える応報を見せてやって下さいさぁ早く。」
「ちょっと待って、どういうこと・・・。」
「何をそんなおかしな口調で。いつもの先生はどうしたというんですか。上から目線で捻くれ者、良識なんて期待出来ない人格破綻者の先生、早く立ち上がって。」
「良識は理解しているつもりですよぅ・・・何、どうなってるんです・・・?」
視線を暮ちゃんから別の場所に移してみると、アロト君とディエスちゃんも寝こけている。
ベットで、実を寄せ合うように、しかし体は一切緊張していなくて、実にリラックスをして眠っている。
そして部屋の入り口に、妖艶な女性が立っている。
豊満な肉付きに、美しい朱色の髪の毛、それを一つに纏めたお団子のヘアスタイル、唇は色っぽく厚く、肌は日焼けを知らぬ白さと滑らかさ、足なんてのは最もその美しさが現れていて、太もも、それは適当に立っているだけに過ぎないというのにそれはたっぷり、とっぷりとした柔らかさを帯びていて、その下はきゅ、と細くなり対極的な美麗さを持っている。
鼻や目なんかの配置も、どこをとっても違和感や醜悪さを感じさせない美貌で、爪先までもが煌びやかに映る。
その耳は通常の形とは違って先が尖っていて、作り物にも見える。
けれども見える範囲で血管が透けて見えるし、作り物だとすれば高度過ぎる。
そんな彼女は目を見開いて驚きを隠さない。
ふるふる、と体が微弱に震えを起こしている。
「どうして・・・何でこんなに早く起きたのよ・・・!そんな簡単には起きられない筈・・・!!」
その片手には硬く握り込められた鉈のような武器がある。
時計を見れば二時。
しかしカーテンの向こう側は光を発している。
昼の二時。
ただでさえ睡眠を取らない僕が二時?
未だに朧げな記憶を探ってみても十二時には眠りについていて、午後二時に起きるなんて考えつかない。
そして刺してまで起こされたのだ。
あの知らない女性が僕達に何かしらの行動を起こし、そして鉈で切り刻みに来た、と見ても問題無い。
ここは僕が気まぐれに、格安で購入した森の中の小屋だ。
一度街に着いた後、良い所があるな、と店頭に貼られた案内から内見も行かずに購入してまた森に戻った。
地下室があり、上も古い家具が置かれた小屋。
薪を切ってそれを売る商売をしていた人が建てたらしいが、危険極まりない森の中にあるということで相当な安値で売られていた。
なので買った。
こういうことがあると思ったから。
意図が理解出来ないアロト君には思いっきり眉根を顰められ、ディエスちゃんには罵倒され、それを暮ちゃんに慰められた。
腹部のナイフを引き抜く。
血が噴き出て、止まる。
とりあえず針を構えて飛び掛かる。
睡眠から目覚めた直後にこんな動き出来る人間、あまりいないだろう。
僕も見たことが無い。
飛び掛かり、押し倒し、うん、やはり綺麗だ、艶やかだ、こっちに来てから美人さんばかり見ている気がする、と一人満足しながら針を関節に刺していく。
一本、刺す度に悲鳴が上がる。
しかしここは森で、人が来ないような小屋で、届かない。
美しい顔は苦痛に歪む。
それでも構わない。
そのまま後ろ手にしてしまう。
「暮ちゃん。ロープを。」
「はい。すぐに。」
暮ちゃんが持ってきてくれたロープで縛っていく。
すぐに身動きが出来ない状態になった。
惨めったらしい。
「よっし、これで良いでしょう。で、誰です、貴方は?まさか鉈を持っただけの通りすがり、とか言うつもりは無いでしょうね?」
美女さんは僕を不自然な体勢ながら睨みつける。
「意味が分からない!あんなに早く目が覚めるだなんて聞いてないわ!どういうこと!?転移者だからって・・・!!」
「ん?転移者?あと目が覚めるってどういうことです?僕があんなに寝こけていて、ナイフで刺されて起こされたことにも関係が?」
「ナイフで刺したことについては私の独断です、先生。あまりに起きてくれないものだったので。」
「乱暴ですねぇ。」
調子が戻ってきた。
これでこそ僕だ。
「というか質問通じてませんよねぇ?誰かって訊いたんですけどぉ。魔王の部下だったり?」
軽口叩いてみる。
あんなにも重っ苦しく、陰惨な、凄惨な、酸鼻で惨烈な心境は似合わないしそぐわない。
今の僕にそんなものは必要無いのだ。
あれはたらればの夢で、だからこその、常識的な思考に近い数々の行動だった。
「先生、何を言うんですか。魔王さんがどうして私達を狙うんです?」
「そりゃあ転移者って言ってましたしぃ、きっと何らかの方法で僕達を捕捉したんですよぅ。」
「別に、正規の方法で魔王城を目指している彼等の元へ戦いを求めれば良いのでは?」
「それは本人に聞きましょうよぉ。」
とは言ったものの、本気で魔王さんの部下だとは思っていない。
耳は確かに少しおかしいが、民族的な装飾だと思って仕舞えばそれまでだし、特に強いとも感じないし。
まぁ人間だとしたらそれこそ、魔王の部下と思われるのは酷い侮辱だろうと・・・。
「私は!魔王軍先遣隊が隊長のホルへよ!!」
「え、本当に魔王さんの部下なんですかぁ?しかも先遣隊って・・・。」
軍という単位で活動しているのか。
成程?
「まぁ、詳しいことは後から聞きましょうかねぇ?丁度、地下室もありますしぃ・・・。」
眠っていた二人が起きてくる。
流石の暮ちゃんも、「自己再生」を持たない二人を刺すことは憚られたようだ。
しかし起きてくれたのならそれで良い。
色々手伝ってもらえるし。
「地下室に運びましょう。暮ちゃん。鍵を持ってきて下さぁい。」
「・・・。」
「暮ちゃん?」
「先生。」
動かない。
直栗不動で、僕の方を見ている。
僕から答えが得られるまで動かないという意思を感じる。
「どんな夢を、何の夢を見ていたのですか?」
泣いていたようですが。
そう付け加えられた言葉を聞いて、僕は口角を上げる。
記憶が蘇る。
あの日の続き、僕の人生の転換点、そのあったかもしれない、たらればの、穏やかな、幸福を噛み締めざるを得ない夢。
どんな夢?決まっている。
「最低な夢でしたよぉ、とても。考えられないよな、杜撰で、お粗末で、あってはならない夢。酷いものでしたぁ。」
その答えに、納得したのかしていないのか、兎にも角にも、地下室の鍵は開かれる。
この人の素性も、目的も、何もかも割らなくてはいけない。
通常、それには多大な労苦が必要になるだろう。
しかし僕はそれを感じることは無いだろうと断言出来る。
何故なら僕は「否定症候群」だし、その労苦の種類は、肉体的なものではなく、精神的なものだからだ。
拷問。
人を傷付ける葛藤と躊躇、そして倫理を超える苦痛。
それを積極的に受け入れる僕にとって、壁にもならないのだから。




