第七話
ディエスちゃんに起こされ、瞼を開けて初めて自分が眠っていたことを自覚した。
胸に、不愉快、不快になるものを、入れられる限り目一杯詰め込まれた気分になった。
起きる時はいつもそうだ。
見ていた夢が最悪ならば尚更。
何だか昔の夢を見た気がする。
「彼女」との邂逅と別れを果たし、その後、「否定症候群」を自覚した直後での世界。
あれは地獄だった。
これでも「病院」での治療(それは大変な荒療治、荒治療であり、とても倫理というものを持ち合わせてはいなかった。)によって安定している方なのだ。
安定していない、不安定かつ不定形な世界は心底悍ましく、恐ろしく、何よりも触れたくないぬるりとした生暖かい気持ち悪さ、それを十全に近く出来る身近さを持ち合わせていて、不可解の逆、理解出来るからこその奇妙な視界だった。
二度と思い出したくもない。
いつまでも思考が纏まらなかった。
考えなくても良い、いつまでも答えの出ない何かをいつも思考していて、周囲との擦り合わせのしようの無い深刻なずれを自覚していた。
それでも死ななかったのは、自決に走らなかったのは、「彼女」の存在と、この病の重篤さ。
とても喜べるようなものでもない。
「・・・チッ。」
きっと今、酷い顔をしている。
舌打ちをして体を起こす。
ディエスちゃんが素早く距離を取り、アロト君が何か目を見開いて短刀を構えている。
?何だろうか。
「シャワー浴びますねぇ。」
「あ、ど、どうぞ・・・好きにして・・・。」
まだいつものようなテンションになれない。
髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回しながら備え付けのバスルームに向かう。
昨日学ランを脱いだだけでそのまま眠ってしまった。
衛生観念のある人間としてそのまま一日、あるいは半日動きたくない。
このままでは今日一日、最低な気分を引き摺ってしまうことだろう。
しっかり思考を分断して、目を覚ました方が良い。
服を脱いで、バスルームに入る。
そこには暮ちゃんがいた。
服を脱ぎ、その美しい肢体を、たおやかな腹を、貧相には思えないような肩を、曲がりきっていない背中を、真っ直ぐな足を、稜線を描く二の腕を晒し、生まれたままの姿を十二分に、これ以上無く清々しく空間に見せていた。
人がいるなんて音で気が付けないものだったか、まだ脳が覚醒しきっていなかったのかもしれない。
「・・・これは失礼しましたぁ。」
「お気になさらず。このまま入りますか?」
「あ、もう出るんですかぁ?」
「いえ、共に入ろうという意味ですが。私は特に気にしませんし。」
「それは・・・後で二人に怒られそうですねぇ・・・。」
断る理由も無いが、共に入る理由も無かったのでお断りすることにした。
浴槽に入る暮ちゃんはたっぷりと、不必要な程湯を入れていて、それは動く度に波打ち、床に落ちている。
見ていると、更に夢の出来事に引っ張られそうで、見ていたくなかった。
もう一度服を着て部屋に戻る。
二人は何てこと無い顔をしていた。
「あのぅ、暮ちゃん入ってたんですけどぉ。」
「そうでしょうね。」
「知ってる。」
「知ってるなら何故・・・?」
何故か目を逸らされた。
態度悪かったから怒っているのだろうか。
怒ったのならちゃんと伝えて欲しい所だ。
言われたなら直す努力が出来ない年齢でもないし、僕は行動をすると決めた相手ならばある程度の要求は受け入れられる自信がある。
しかし二人共何故か目が合わないので、また頃合いを見て聞いてみることにしよう。
「言っときますけど、僕はしつこいですからねぇ〜・・・?」
「ちょっと楽しそうにするのやめろ!」
「誰かに嫌がらせする時はこの陰惨な心情が和らぐ気がしますよぅ。」
「何で同情を誘うんだよ!!」
暮ちゃんはその後たっぷり十分入ってから出て来た。
「先生、どうぞ、入って下さい。」
「あ、どうもぉ。」
シャワーを浴びるとすっきりとした。
朝から僅かに尾を引いていた苛立ちも、完全に消え失せた。
出た後に着替えて、朝食を取って、宿を出る。
昨日の騒動は知られているようで、街は騒然としていた。
昨日とは少し、重要な部分が食い違ったような雰囲気。
それでも新聞は手に入るし、誰かが泣くようなことも無い。
世界というのは、結局そういう風に、誰かがいなくなろうが、捻じ曲がらず、ひん曲がることも無く、直線的に、そして一方通行に、通常的に、平常的に、恒常的に回り、巡るようになっている。
それを僕は知っているし、知り尽くしていると言っても良い。
「「地図無用」によると、この道を直進すると街を出て、暫くは森が続くようです。」
「森・・・やっぱりですかぁ。」
「はい。」
途中で髪の毛の染め粉を見付けたので買っておいた。
使い方は説明されたけれど、未だに理解出来ない文法などもあるので適当に使うことを決意する。
「森っていうと、やっぱし脅威になるのは・・・。」
「人間ですよねぇ。」
「魔獣だろ!」
「え、でも森ですよぅ?どんな悪漢が居ることか。強姦とか、強盗とか。魔獣が居る以上行方不明で処理できますしぃ・・・あ、おじさん、この毒護身用にひと瓶下さぁい。」
近くの露店で草や花と同じ棚に置かれている薬の瓶を手に取る。
ラベルにはストレートに『毒』と記してある。
一応くるりと回転させてみると、裏に薬効や原材料、効果が出るまでの時間が三カ国語くらいで懇切丁寧に記してある。
店主らしい気の良さそうなおじさんは快活に笑う。
「護身用か。そりゃ無理だろうね。護身用にってったってそれは人に使うには駄目よ。魔獣もころっと逝くくらい強力なもんだからね。人殺しになっちまう。」
「成程ぉ。では一つ。」
「話聞いてたかい?」
この人もどうやら、僕らが理解出来る言語を話してくれるらしい。
日本語として入ってくるし、やはり翻訳は便利だ。
どうしてこの世界全域の言語を翻訳できるようにしてくれなかったのだろうか。
結局その毒の瓶を三つ購入する。
掌サイズで可愛らしい。
「他に購入するべきもの、ありましたっけぇ?」
「必需品ならば大抵揃っていると思いますが・・・。」
「うーん、それはそうなんですけどぉ・・・。」
必需品だけの旅というのも、何だか随分味気ない話だ。
この街は随分栄えているようだし、何か余分な物の一つや二つ、買って行っても良いだろう。
「何か少しくらいなら無駄遣いしても良いですけど、欲しい物、あります?」
「え、でも悪いわよ。私とアロトなんて、元々お金貰う予定だし。」
「お前に借りとか作ったら後が怖いんだけど。」
「君達僕のこと本当に信用してないんですねぇ〜。暮ちゃんはどうします?」
「あの髪留めが気になります。」
「それでこそ暮ちゃん!深謀遠慮なんて要りませんからねぇ!」
お金を出して、その髪留めを暮ちゃんにほいっと投げる。
それを両手で受け止める。
「ありがとうございます。」
「あ、本当に善意なの?」
「だからそうだと・・・。」
「じゃ俺あの屋台の飯。」
「私あの服。」
「では私はあそこの露天を見たいです。」
堰を切ったように要望が出て来た。
それぞれが三方向に服を掴んで引っ張ってくる。
「ちょっ、一気に言われても・・・。」
「先生こちらへ。」
「先にあっち行くわよ。」
右へ行ったり、左に行ったり。
体は一つしか無いというのに、遠慮が無くなったらこれなのだから。
「あーはいはい、こっちですか?」
「はい。気になっていまして。」
「違うわよ、こっち。」
「なぁ俺あれ食いたいんだけど。」
船頭多くして船山に登る、という言葉を初めて聞いた時、いまいちどのような状況に瀕した際使うべきなのか悩んだけれど、こういう時に使うのか。
服が伸びる。
周囲の喧騒が僕らに集まっている気がするし、道の邪魔になっている気もするし。
「三人共一旦離しましょうかぁ。お小遣い制にしましょう。三十分経ったら戻ってくる。それで良いですかぁ?」
「良いわよ、それで。置いてかないでよね。」
「何だと思われてます?僕。置いて行きませんよぉ。ここで待ってますから。」
三人にそれぞれお金を渡す。
一人一万くらいで良いだろう。
大抵の物は買える筈。
足りなくなったら戻ってくるだろうし、あまり深く考えなくても良さそうだ。
手渡すと、アロト君はホットドッグに近い形状のご飯の屋台へ、ディエスちゃんは色鮮やかな布が店先を飾る露店へ。
暮ちゃんだけはその場に残った。
「?どうしました?行って良いんですよぅ?」
何だか子供三人を相手にしている気分になってくる。
その内の一人が残った。
暮ちゃんはそっと僕の服の裾を掴む。
「先生、共に行きましょう。」
共に行く。
その言葉は、多分、僕がずっと聴きたい言葉だ。
あの夜、「彼女」に希った言葉、あの時、確かに「彼女」が賛同し、そして叶わなかった事柄。
それを、「彼女」そっくりな暮ちゃんが言ってくれるというのは、どうにも、むず痒く、地に足つかない心地になる。
「・・・良いですよぅ。」
「どうもありがとうございます。」
ふと、過去の憧憬が蘇る。
お小遣いを渡して買い物をするというのは、弟と出掛けた時によくやっていた。
弟は非常に可愛らしい子だった。
聖人君子と言うべきなのか、どう表現すれば良いのか、とにかく、天真爛漫、天衣無縫、純粋無垢、他人の痛みを自分の痛み、苦痛として感ぜられる子だった。
僕とは、良くも悪くも正反対だった。
危機管理が出来ないというか、悪と善の区別が正しく付いていないというか、とにかくそういう、人の善性を無条件に信じている、よく言えば純粋、悪く言えば迂闊な少年だった。
だから一人で外に出るのは心配で、両親もそれは分かっていたのか、出掛けるなら陽一と行きなさい、陽一は優しいから一緒に出掛けてくれる、だから遠慮せず言いなさい、そう言い聞かせていた。
お小遣いを僕が預かって、買いたい物があったらほいと渡す。
それだけの作業が、色々、他にも、生活習慣とか、行きつけの場所とか、口癖とか、あった筈なのに、その記憶ばかりが先行する。
どうせもう居ないのに。
この世界から帰った所で、弟はもう居ないのに。
二度と会えない。
弟だけでない、尊敬出来ていた、きっと僕が「否定症候群」を抱えながらも、小学校、中学校に通うことが出来ていたのはその献身と愛情のお陰だろう、そう断言出来る両親だって。
皆死んでしまった。
僕を知る人は、僕が正常だった、少なくとも正常のふりが出来ていた時代を知る人は、もう殆ど居ない。
それは紛れも無く僕のせいなのだ。
真っ直ぐに向かったのは小物や雑貨が置いてある、可愛らしい、ファンシーな、女性が好きそうと言っては差別になるのだろうか?そういう、丸っこい品物が多い店だった。
外にある露天ではなく、きちんとした店舗を構える店。
硝子のはめ込まれたドアを開けて、何だか場違いだな、そぐわない、僕という存在はここには不必要だと思う雰囲気だ。
「暮ちゃん、何か欲しいです?」
「今の所は、ありません。見たかっただけです。」
「そうですかぁ。ところで、僕に何かいて欲しいことがあったのでは?値切って欲しいとか、店主と話したいから翻訳して欲しいとか?」
暮ちゃんは顎の下に手を持って行く。
く、と目元を細め、微かに眉を顰める。
閉じた唇の隙間から呻き声に近い音が漏れ出る。
「・・・あの、暮ちゃん?いきなりどうしました?大丈夫です?」
「・・・先生に付いて来て欲しかったのは本音ですが、何故かは分かりません。何故でしょう・・・。」
その視線は店の品物を捉えている。
しかし手元はうろうろとしていて覚束ない。
冗談でも何でもないらしい。
忘れてしまったのだろうか?それとも、共に買い物をして欲しいというくらいの信頼関係は、築けているのだろうか?
それならば嬉しいけれど、どうなんだろう、それは自覚しない所で芽生える物なのだろうか?
何かしらの用事を忘れてしまっただけだろうか?
「まぁ、分からないならしょうがないですねぇ。あ、これどうです。」
「良いと思います。」
「ですかぁ。」
三十分間、二人で品物の海を漂いながら、あぁでもない、こうでもないと持ち上げ、手に触れ、そして戻した。
これはどうでしょう、え、よく似合いますよ、どうです、君が持っていると、何だかこれが引き立て役のようで、僕はなりませんよぅ。あぁ、元々引き立て役というか、主役では無いですよねぇ、だって人間が主導権を握るべきですものねぇ。それにしたって妙に様になる、ねぇ、どうです、ちょっと持ってみて。あぁ、ほら、とても良い。これは、これは?
そんな、冴えないような会話ばかりをして、僕ばかりが一方的に話して、暮ちゃんはそれに答えて、応えて。
時間を潰して。
結局触れた品物は鑑みず、何も買わずに店を出た。
「何も買わなくて良かったんですかぁ?」
「はい。充分に満ち足りた時間でした。わざわざありがとうございます。」
「・・・はぁ・・・。」
何故だか今まで見た中で一番嬉しそうな雰囲気を纏っている。
表情こそあまり変わっていないけれど、声色が少し違う。
上ずっているとまではいかないけれど、少し高いというか、平常的な感情では出ないような類のものというか。
「お待たせ。悪かったわね。」
「いえいえ。」
「何だよ、クラシ、早かったのな。待たせたか?待たせたよな、ほら、これ。お菓子。」
「今来たばかりですので、必要ありません。お気になさらず。」
首を横にふるふると動かす。
実際本当に、比喩ではなく今戻った。
かなり充実した時間だったと言えるだろう。
「じゃ、早速向かいましょうかぁ。疲れてませんよねぇ?」
三人は頷く。
「はい。」
「こっちはオーケイよ。」
「早く行こうぜ。」
街を突っ切るとすぐに、鬱蒼とした、人がこれから足を踏み入れることなんてまるで想定されていないような、自然としてあるべき姿を剥き出しにした、どこまでも深く続く森が見えて来た。
「いかにも何かいそうですねぇ。」
「実際居るのよ。魔獣はあんまり見たこと無いけど、かなり怖いからね。頭から手が出てたり、胴体の下に頭があったりするし。」
「え、怖ぁ・・・そんなの僕らの世界にはいませんでしたよぉ?」
「そうでしょうね。物理攻撃効かない奴多いらしいわよ?」
「それ先生どうにか出来そうですか?私は攻撃が通じないだけで、攻撃自体はとても出来ませんよ?これでも運動神経悪いですし。」
「まぁ何とか抜けられるでしょう。」
ポケットから瓶を出して握り締める。
最悪これを使う。
そう思いながら森に足を踏み入れる。
他三人も納得しているのかしていないのか、それでも後に続いてくる。
強靭な木の根によって盛り上がった土、その上に生えた苔、遮られる日光、絨毯のようにはらはらと広がる木の葉。
僕らの世界とそこまで変わらないような光景だ。
しかし木には見たことがないサイズの傷が付いているし、薙ぎ倒された木の残骸もある。
魔獣がいることを疑っていた訳ではないけれど、実際にいるのだろう、しかもかなり近くに。
下手をしたら縄張りだ。
「っ!」
アロト君が瞬時に後ろを振り向く。
「どうしたのアロト!」
視線の先を一斉に見る。
そこは僕らが踏み荒らして作った道に近しいもの、そこの真ん中で、小さな、青いリスがちょこんと立っている。
「・・・リス?」
「ですね。こちらでどう呼ぶのかは謎ですが。」
「リスで合ってるよ・・・悪い、気配がしたと思って・・・。」
どうやら平然を保ちながらも怯えていたらしい。
リスの気配を察知して、魔獣か何かかと思ったのだろうか。
「意外と臆病なんですねぇ?盗みに不法侵入は犯せるのに。」
「あほ、あほ、このあほ野郎が。それは別の土俵だろうが。同列にすんな。あと、魔獣かどうかは流石に見分けられるからな。見分けるってか、感じ分けるって言った方が良いか。とにかく、俺は人間だと思って・・・。」
「リスと人間間違えたんですかぁ?」
「うるせぇな、これでもちゃんと、お前が言った通りに人間を警戒してるんだよ。」
アロト君の気配察知は随分便利らしい。
精神の面をもっと鍛えれば有用性は増すだろう。
そういえば名前を訊いていなかった。
後で聞こう。
「でも意外と見ないんですねぇ?」
見るのはリスや兎ばかり。
魔獣の魔の字も無い。
「狩人が結構狩ってるのかもな。」
「狩人。冒険者みたいな感じですかね?」
「?冒険者?何だそれ。」
「え、いないんですかぁ。」
てっきりよくあるなろう小説とか、そういう物語みたいにあるものかと思っていたけれど、冒険者という単語は無いらしい。
「じゃあダンジョン?とかも無いんですかぁ。」
「ダンジョン?何だそりゃ。聞いたことも無い。」
「えー・・・それも無いんですかぁ・・・。これが小説だったら、多分読者がっかりしてますよぅ?」
「マジで何言ってんだ?」
魔王は居るのにそれは無いのか。
魔術も、魔獣も存在するというのに。
しかしどうやら話を聞く限り、迷宮という、魔王と同じ種族である魔族、と呼ばれる陣営の拠点は存在するらしい。
罠があり、防具や武器もある。
そして最奥の巨大な魔石、と呼ばれるエネルギーを供給する物質を壊すと、その迷宮は消滅する、というよりも爆発に近い形で全てが崩れ、封鎖されるらしい。
魔族がいることもあれば、魔獣が放し飼いされていることもあるという。
何故、何故ダンジョンと呼ばないのか・・・!!
それはもうダンジョンで良いんじゃないのか・・・!!
そう思ったけれど、自然発生する訳ではないようだし、やっていることは単なる強盗や不法侵入だし、ダンジョンと形容する方がおかしいのか。
「・・・そういう呼び方も、あるんですねぇ。何で迷宮なんです?」
「迷いやすい構造になってるらしいからじゃない?結構な頻度で行方不明者が出るらしいし。」
「中の罠よりも入り口の警備を強化するべきでは・・・?」
そんなに人間が入れるような構造になっていて、しかも度々武器や防具を取られているならば、宿敵にただ武器や防具をほいほいと与えるだけの施設な気もするけど。
もしかして魔王という人は案外頭が足らないのではないのか。
「ちなみに魔獣ってやつもその魔族っていう種族の亜種だったりするんです?」
「それは違うわよ。多分。魔族は魔族、魔獣は魔獣。まぁ魔族からしたら家畜も同然なんじゃない?少なくとも人間からしたら違う。」
「そういうものですかぁ。」
足元から、木の葉を踏み抜く小気味良い音が繰り返し聞こえる。
森は歩いても一日か、半日そこらで抜けられるらしい。
暮ちゃんのおかげで迷わないし、手ぶらで済むのはありがたい。
木陰だけを通る遊びなんかを勝手にしながら前に進む。
ふと、後ろの方で、アロト君の足が止まる音が聞こえる。
「?どうしました?」
その表情は何だか引き攣っている。
恐怖だ。
恐怖の表情だ。
恐怖と、失念、油断に気が付き、それが悪い結果となり自分の身に突き返された時、人はそういう、怯えた表情をする。
その震える口、唇、はくはくと虚無を吐き続けながら、その言葉にならない言葉を口ずさみ続ける。
「どうしましたぁ?」
「魔獣だ!!!」
悲痛な声だった。
その直後に、丁度僕のすぐ先にある、荘厳さと生きてきた年代を物語る巨木。
その陰。
その物陰から、ぬ、と、ぬるりとした緩慢な動きで、その魔獣が姿を現した。
それは狼に近い姿だった。
しかしその牙は剥き出しで、その歯茎や顎の骨が一部露出している。
足は三本、そういう椅子のような、円形を描くような配置で生えた足で立っている。
その体は大きく、その巨木の三分の二を超えていて、二メートルは余裕で超えている。
皮は分厚く、目と思われる部品は四つ見える。
涎が常にだらだらと垂れ流されていて、大変気持ちが悪い。
嫌悪感が無条件で湧き上がる。
「・・・あれが、魔獣。大きいですね。」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!!何とか出来ないのか!?あんな自信満々で入るんだから何かあるんだろ!?」
「え、あぁ、あるにはありますけどぉ、そんなに真面目に考えてませんでしたぁ。あんなに大きいとは。」
「ばっかじゃねーの?!!」
「あんた餌にするわよ!?」
大声を出しているからかあまり積極的には近付いて来ないが、それでも距離は詰めて来ている。
こちらを「敵」或いは「食料」として認識しているのだろう。
「・・・あんまりしたくはないんですけどねぇ・・・。」
壁も門も無かったので、街に来る危険性が無い、森だけ十分食料が賄える、または積極的に人間を襲わない、それくらいの危険度だと思っていた。
そこそこ大きくて驚いたし、敵対的に見えるのも新たな発見だ。
とても僕の針もナイフも通じないだろう。
だから。
「よっ。」
毒薬の瓶を投げる。
口元目掛けて。
魔獣に効くと言っていたし、即効性であることはラベルの裏に書いてある。
皮膚が禿げて口の一部が剥き出しになっているので、そこを狙えば入ると踏んだ。
それくらいの投擲は出来る。
これでもそこそこの修羅場はくぐっているのだ。
ゆるい円を描きながら、しかし並大抵以上の速度を持って瓶が舞う。
多分弓矢か銃弾くらいの速度はあると思う。
「先生」がそう言っていたから間違い無い。
振れ幅やばいけど。
瓶は魔獣の口元に飛んで行く。
このままなら間違い無く口に入る。
そう思った。
しかしそれは弾かれた。
ばりん、というガラスの割れる音が甲高く響く。
頭を振り回し、晒されている牙に当たって砕けたのだ。
異物を排除する脳味噌は動物らしくあるらしい。
生存本能の成せる業か。
「ど、どうすんのあれ!」
「大声出さないで下さいよぉ。」
もう一つ手に取る。
やりたく無かった方法はこっちだ。
良い気分になれるとはとても言い難いし、成功率は高くとも、腕を失うことが確定している以上森に誰もいないとは言えないからこそ、失った部分が再生出来る「自己再生」を見られるリスクは侵したくない。
他にも何かしら方法はあるだろうけど、僕ではこれしか思い付かない。
僕は跳躍する。
魔獣の口元目掛けて。
高く飛び上がり、この腕を突き出す。
誰かが息を呑む音が聞こえた。
魔獣が大きく吠え、その口が開く。
飢えているのだろう。
腕は消えた。
食い千切られたのだ。
血液が噴き出る。
そのまま、跳躍した分だけ落下する。
流石に空中で姿勢を崩し、無様に床に転がり落ちる。
受け身は取れた。
しかし打撲は確実にしただろう。
全身が打ち付けられる。
痛みは、当然のように無い。
それもすぐに無くなる。
数秒も経たずにいつも通りの感覚が、体全体に戻ってくる。
「よっと・・・。」
立ち上がれば、僕と入れ違うように魔獣が崩れ落ちる。
巨体が倒れたものなので、ずん、と周囲に轟く酷い音が鳴る。
木々が、枝が、葉が揺れる。
醜かった巨体は更に醜く、長い舌がだらりと力無く投げ出され、その瞳はそれぞれが別の方向を見ていて、小さく痙攣している。
時折痙攣と共に真っ黒な液体を地面に流す。
そのまま暫く経てば動かなくなる。
数分待てば単なる肉塊に成り果てた。
こうなってしまえば無様なのはあちらだ。
一応触れて心拍を測ってみたけれど完全に止まっていた。
「・・・そろそろ慣れなくちゃなのは分かってるけど、それでも驚くのは仕方ないと思う訳。」
「俺も悪くないと思う。事前に相談しない方が悪いだろ。」
暮ちゃんに至っては無言で僕を睨め付けている。
「そんなに驚くことでもないでしょぉう。たかだか腕一本。」
「行動の突飛さに驚いているんです。あまり私達の心臓に負荷を掛けないで頂きたい。」
「それは申し訳無いことを。でもこれで当面の危機は乗り越えられましたよぉ。」
「それもそうですね。偉そうに申し訳ありません。」
「そこで引いちゃ駄目よクラシ!!」
服に付いた砂埃を払う。
学ランの袖がもう完全に引き千切られている。
これは修繕の必要があるだろうけど、同じ色の布地ってあるのかな・・・。
僕が服ばかり見ていると、ディエスちゃんが「また来るんじゃないの?」と言う。
「多分近くには居ないでしょう。あの巨体です。それを維持して、日々生きるにはそれなりの糧が必要な筈。ここはあまり木に花が咲いていませんから果実も暫く生らないでしょうし、動物も見当たりませんでした。そんな中で生息地が集中するとは思えません。骨の太さに反して肉付きが良くありませんからね。相当食料が無いようです。」
「寧ろ人間が主な食料なのではぁ?」
「そんなに頻繁に人間が食べられていては通行禁止ですよ。少なくとも人里に出てくるはずです。」
「この魔獣一匹の話が語られまくっているんですねぇ。」
只でさえ珍妙に見られる服が、片腕を食い千切られたことによってもっと珍妙なことになってしまった。
再生するとはいえ、衣服までは再生してくれないのが痛い所だ。
「じゃ、先を急ぎましょうかぁ。魔獣は倒したとはいえ、残る毒薬は残り一つ、他の魔獣がいる可能性も、限り無くゼロに近いとはいえ無いと言い切る要素がありませんしぃ。」
「そうですね。」
「おぅ。てかよ、マジで大丈夫なのか?自分で自分の体の欠損を選ぶってのは、喰われて、千切られるってのは、実はとんでもない苦痛なんじゃ無いのか?」
心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
素直に僕の精神を案じているらしい。
「そんな殊勝かつ立派な感性は持ち合わせていませぇん。今回は非常事態でしたしぃ。」
「・・・俺、前もこんな会話したな。」
「あんたいい加減に諦めて受け入れて開き直りなさい。」
「そうする。」
森は続いている。
しかしあの程度ならば対処出来ることが分かった。
他の魔獣も、きっと何とかなる。
毒薬はばっちり効くことが証明できたし、致死量も推察できる。
その量に目分量で分けていけば手数も増やせる。
瓶は残念ながら数があまり無いけれど、大丈夫だろう。
騒然としていた森は再び静寂に近い静けさを見せ、その奥に小さな音が鳴り続け、それは他の音に掻き消される弱い生活音だ。
小動物は本当に少ないらしい。
そう思いながら、スプーン、出来れば鉄製の杭、鋼鉄の鎖、それに繋ぐ手錠、食事、服、細長い布、と次の街で買うべき物を頭の中でリストアップし始めた。




