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第六話

外国に出たことは無い。

なので外国の言語を積極的に学ぼうと思ったことも無い。

しかしどうやら、人生には何かしらを、例えば勉学だったり、常識や文化だったり、気が向かなくても学ばなければならないこともある、と、僕は短い人生の間に学んだ。

その学びは生かすべきなのだ。

そう痛感させられる出来事が、今目の前に起こっていた。

景色や街並みが変わったものの、具体的には、建物の高さや外壁の色、窓の形状や看板の文字、あらゆる、街というものを構成する部分が食い違っているようで、見える限りの範囲で個人に見えるような人間はおらず、全てが全て、「群体」の一部にしか見えず、個人として過去がある人間として見ることなんて不可能だと思える。

しかしそれは僕だけがそう感じられるという訳ではなく、それは多くの人間がそうだろう。

誰もすれ違う奴が、人間として尊重されているとは思わず、ただその時会っただけの何かだと感じ、忘れるだろう。

それはどこでも不変の認識だ。

寄り道が済んだ後に国を出て、この国に来るまで二週間。

歩きだったから想像以上に時間がかかった。

途中で暮ちゃんがおんぶを要求して無理矢理乗っかってきたり、三人が変わるがわる道すがらの気になる物品を強請ってきたり。

色々あったが何とか到着した。

が。

「・・・これ、何て言っているんでしょうねぇ?」

「全く分かりません。」

隣国というのは当然言語が違う。

僕達は知らなくても理解できるので、翻訳に近い何かが及んでいると思っていたけれど、あくまでもあの国限定のものだったらしい。

人生で初めて、まともに英語を聞いた日を思い出す。

洋楽だったけれど、全て英語で、呪文かお経を聞いている気分になったあの幼い日。

喧騒の中、耳を、理解不能な言語がすり抜けていく。

文字も当然読めない。

完全に言語が違うのだ。

「何、転移者って隣国の言葉は分かんないの!?」

「そうみたいですねぇ・・・どうしましょうかこれ・・・。」

「本屋かどこかに行けば、教本か何かあるんじゃないか?俺達は本屋行ったこと無いから知らないけど。」

「それは国を出る前にしておくべきでしたね・・・。先生、悩んでいても仕方がありません、探してみましょう。」

捻くれた僕も流石にそれは肯定し、本屋らしき建物を探す。

言語が分からないから誰かに尋ねることも出来ないし、完全に足で探さなければならなかった。

「参りましたねぇ・・・髪の毛の染め粉を探したかったんですけどぉ・・・。」

「染め粉?」

「はい。僕ってば白髪でしょう?これ、染めてるんですよぅ。「彼女」がそうだったものでぇ。」

「「彼女」?恋人?」

「あ、そういえば言ってませんでしたねぇ・・・。」

看板の文字も読めないので、店の中を覗きながら道を進んでいき、その道中で「彼女」の話を軽くした。

かなり簡潔に話しながら、「彼女」を美化しながら、神聖化しながら神格化しながら、煌びやかに彩り、豪奢に、豪華に、「彼女」との思い出を、赤裸々に。

楽しい時間になった。

「彼女」について語る時間は心地が良い。

しかし同時に、そんな「彼女」が、隣にいないという事実は、胸を強く強く締め付け、重苦しく、泥を、澱を詰めるような息苦しさと閉塞感、平衡感覚を失うような渇望に近い絶望を、じんわりと穏やかに感じ、それは心をがざりがざりと侵食している。

本屋は二時間程で見付かった。

中身は当然この国の言語ばかりだったけれど、隣国、しかも協力体制にあるということもあり、ちょくちょく読める言語もあった。

これなら割とすぐに覚えられる。

辞書も買ったし、これで一安心だ。

ちなみに貨幣は同じだった。

喧騒の中で辞書を引きながら当てはまりそうな単語や文法を擦り合わせていく。

中学校のテスト前でもこんなに必死に言語習得に精を出した事は無かった。

学校を辞めた後だって、「彼女」はパスポートを持てる立場でも状況でも無かったから、外国に出ることは無いだろうと思って、日本を探すことに注力していたから当然のように英語だって真面目に勉強していなかった。

それが今はこれだ。

「あ、三人は先に宿を取っていても良いですよぅ。今日はこの街に一泊しましょう。」

「宜しいのですか?」

「色々買い出ししなくちゃいけませんからねぇ。」

言語が分からない中で部屋を取れるかは謎だけど、多分暮ちゃん達なら大丈夫だろう。

何より「地図無用」があるし。

僕は一人街中に残り、店の中に入って会話を聞いたり、話し掛けたりしてみた。

「こんにちはーぁ。」

「・・・?・・・!!」

「何て?」

相手はきちんと挨拶を返しているのかもしれないが、本当に意味が分からなかった。

とはいえ数十分、教本や辞書と睨めっこをしていれば大抵はどうにかなるものだ。

特にこの脳味噌は通常的な脳に比べて機能が高い。

身体能力と同じく、際限を知らない無秩序な、自分を顧みない運用。

「あ、しまった、暮ちゃんに地図を見せてもらうの忘れてた。」

うっかりうっかり。

歩いて探しても良いが、それだと時間もかかるし、部屋でいつまでも僕を待ってじっとしているのも退屈だろう。

練習がてら話しかけてみる。

「宿はどこにあります?」

なるだけ嫌悪感の湧く、会話したくもない、善性と勧善に満ちた人間として尊敬されるであろう人に問うてみる。

「アソコ・カド・ミギ・・・チョクシン・・・・・・・。」

単語だけ拾えるようになった。

予定通りに宿へ向かう。

その間、周囲の人間の発音を真似したりしてみる。

この後二つ、更に国を越えなければいけないというのに、どちらの国も言語が通じないとなると、想像以上の時間を食うことになる。

今だって、会話が辛うじて成立しているだけで、僕はまだ挨拶くらいしか出来ない。

時間がかかると例の二人、アリョーシャとコーリャが追いついてくる可能性がある。

そうなると手持ちの資金だけで旅が出来なくなった場合の資金調達が難しくなる。

何よりこの国でも追われている可能性があるのだ。

道で疲れたように俯き、新聞を売っている少年が居たので、その新聞を買う。

その時気まぐれに多めの小銭を握らせてやった。

少年は喜んで、満面の笑みを浮かべながら去っていった。

この世の穢れを知らないような、そんなふりをしているような、必死に、食らいつくように清純であろうとするような、子供特有のいじらしさ、特性に近い笑顔。

子供の笑顔は、それはどだい本物の笑顔ではない。

本物の笑顔とは、全てを知った上で浮かべられる、微笑に近い、悟りに近いはにかみのことなのだ。

とはいえ子供は僕のチップで一気に僕への心象が良くなったらしく、スキップなんてしていた。現金な子供だ。

頭の中で辞書を引きながら新聞を読み進める。

新聞によると、王様の崩御が盛大に報じられていた。

王城に居た全ての人間が殺されたとして、犯人を国際的な指名手配犯にする、というものだ。

法律は僕の知っているものとは大きく変わらないようだ。

予想通り、だけど、想定よりもやや遅い。

金品を盗まれた事は報じられていない。

なので罪状は、紙面では大量殺人だ。

しかし指名手配犯には変わりない。

一つの国でうかうかとしてはいられない。

「・・・明日にはこの街を出たいですねぇ。」

買い出しは後からにして、まずは三人に今後の方針を話そう。

新聞を片手に到着した宿はどちらかというとホテルのような面持ちだった。

中に入る。

人はあまりいない。

三人の姿が無いので、受付の人に辞書を引きながら聞いてみるけれど、知らないらしい。

仕方ないので外に出る。

浮浪者のように彷徨っていると、聞き覚えのある声が聞こえた。

「あんたらいい加減にしなさいよ!!うっさいのよこの臆病者!!」

「・・・何してるんですあの子達は。」

呆れながら人気の無い道まで進んでいくと、大柄な男性に僕の連れが囲まれていた。

本当に何してんだ。

暮ちゃんが二人を庇う形で前に出て、ディエスちゃんは怯えるというよりも怒っているという形容詞が相応しい表情で大声で怒鳴っている。

アロト君は平常運転というか、弱いふりをして、黙して庇われている。

もはや処世術なのだろう。

彼等はそれでもにやにやとしながら、何かを話し掛けている。

暮ちゃんの片手には、護身用にと買っておいてあげた、小ぶりなナイフが握られていると同時に、その切先は確実に彼等の方向を向いているにもかかわらず、だ。

無表情で、静かに確実に腹を狙っているように見える。

ただ持っているだけ、力など感じず、握っているようにすら見えないというのに、ナイフは少しもぶれない。

持ち替えやすいようにしているのだろうか。

会話を聞いているとどうやら、彼等に三人の内の誰かがぶつかってしまったらしい。

それで怪我をしたから金を払えと。

脅したものの三人に言葉は通じない。

だから人気の無い場所まで連れて行った。

ゆっくりと話をする為に。

・・・。

「当たり屋じゃないですか。」

異世界にもあったのか、その犯罪。

とはいえこれで正当防衛は認められるだろうし、さっさと助けるか。

そう思い、足に力を込める。

そして跳躍する。

男の一人の頬目掛けて飛び蹴りをした。

勢いを殺しきれず倒れ込み、僕はその上に立っている。

人の上に立つというのは何ともまぁぐにぐにと気持ちが悪いものだ。

「もっと立ち心地が良い人になって下さいよぉ。で、君達は何をしているんです?」

「あ、遅かったじゃないの。」

「先生、申し訳無いのですが、宿の部屋を取ることがまだ出来ておらず・・・申し訳ありません。」

「別に良いですよぉ。こっちも遅れてしまったみたいですしぃ。」

手持ち無沙汰に近しい気分で、足元の顔をぐりぐりと踵で弄んでみる。

他の何人かがぎゃあぎゃあと、巣を荒らされた鴉のように騒ぎ始める。

もはや早口過ぎて聞き取れない。

怒号飛び交う中、僕は針を両手に構え、一人に飛び掛かる。

両肩に両足を置き、その耳に針を刺す。

「〜〜〜〜〜〜っ!!!!」

悲痛な叫び声が上がる。

襲い掛かってきた他の二人の男には、それぞれ瞳と舌にぶっ刺す。

痛みで悲鳴すらあげられないらしい。

「みっともないですねぇー。」

針はこの際回収しない。

こんな奴らに刺した針なんて使いたくない。

「おっと、そうでした・・・。」

ナイフに持ち替え、再び切り付ける。

手、足、細かく傷を付け、死なないようにはする。

本当は殺すのが道理なんだろうけれども、僕のアイデンティティとしてはそれが正しいのだろうけど、今日は人は殺したくはない。

随分騒いでいたので見られたら少々面倒というか、逃す可能性があるから控えたい。

最後に一番弱そうな、体格の恵まれていない男の腹、脇腹にナイフを刺す。

「えーっと・・・、『今日は、帰りますね。気を付けて、帰って下さいね。』」

所要時間は数十秒だった。

それだけ喋ると、僕は怪我をしていなさそうな三人の元へ行く。

「どうです?無事でしたかぁ?」

「概ね。先生は無事ですか?」

「僕は大丈夫ですよぅ。二人は?」

アロト君の雰囲気も頑強な、頑丈な人間特有のものになっている。

親戚さんが捕まってからは、二人共より一層、人間としての深みというか、渋み?違うな、何だろう、強さ?理不尽に対する反骨精神、屈服に対する拒否感が強くなった気がする。

それを隠せるアロト君も、それをたった少しの時間で暴力的に、強引に相手に伝えることの出来るディエスちゃんも、一種の才能だとは思うけれど。

「無事。あんたおっそい。」

「まぁまぁ良いじゃねぇかよ。ってかお前強くね?すげぇ早いじゃねぇか。」

「わぁい褒められましたー。」

「うわ気持ち悪ぃ。」

先程叩きのめした男達は這う這うの体で逃げたらしい。

あれは中々治らないだろう。

針が刺さったままだけど、悪いのは自分達なのだから誰かに僕らのことを訴えることは出来ないだろう。

そこまで頭が悪くなければの話だけど。

暮ちゃんはナイフをしまう。

「たくましいですねぇ。しかし大きな声を出すんですねぇ。驚きましたよぉ。」

「あんたを呼ぶためよ。何言ってるか分からないんだし、力で何とかしてもらうしかなかったからね。」

「後で教えてあげますよぅ。」

僕は道に放り投げた教本や辞書を拾う。

表紙に付着した砂を払う。

その後宿は近くのものを取り、二部屋取ろうとしたけれど、結局大きな一部屋を取ることになった。

「危ないでしょ。どうすんのよ誰かが来たら。」

「そうだそうだ!俺達は別に強くないし。同じ部屋の方が安全だろ。」

という理由で。

部屋には大きめなベッドが二つ置いてあった。

「じゃあ僕は暮ちゃんと寝ますねぇ?」

「分かりました。」

「おぉう・・・迷い無く・・・文句は無いけどさぁ・・・。」

ディエスちゃんとアロト君、僕と暮ちゃんでそれぞれベットを使うことにし、バスルームを使って夕食を取った。

味は普通だった。

この世界は食事が不味いということは無い。

転移者が来るから生活基盤を整える一環としてなのか何なのか知らないが、悪いことではない。

どうしても不味ければ僕が作ろうかと思っていたので、ありがたい。

夜が更け、人工的な灯りのみが照らす時間になる。

街中は静かになっていくが、それは皆が眠っている訳ではなく、人に見えない所で活動しているだけなのだ。

燻るように、悪事を働くように、極めて消極的に小さく、怯えるように、昼よりもずっと深い関わりや安寧が流れている。

暮ちゃんやディエスちゃんがベットで一足先に眠り始め、起きているのは僕とアロト君だけになった。

僕は辞書を暗記したので、文法を学び続けている。

アロト君は荷物を整理したり、部屋の掃除をしたりしているがどうにも様子がおかしい。

言葉を教えてあげようか、と誘ってもすげなく断られた。

ちらちらと窓の外を見て、随分落ち着きが無い。

聞いた方が良いのか、そっとした方が良いのか。

こういう時、気が付かないふりをしてあげるのが優しさかもしれない、と考えつき、僕は本を閉じた。

「アロト君、どうしたんです?さっきから。何かありましたぁ?」

どうにも僕は普通に優しくすることが出来ない人間のようだった。

アロト君の視線が泳ぎ、何も無い所や壁にばかり向けられる。

「・・・あのぅ?いい加減僕も実力行使をしたり、しなかったり。」

「外、人居るよな。」

「外?」

窓にはカーテンがかけられている。

僕は迷わず開ける。

しゃ、と部品が滑る音がする。

窓から見える景色は一貫して暗い。

夜目が効く方でなければ、まず間違い無く、初めに認識するのは闇そのものだろう。

しかし僕の目に映ったのは、宿の周りを囲うように立っている人影。

二人、三人では効かない。

十人、下手をすればそれ以上だ。

「・・・本当ですねぇ。気が付いていたんですか?」

「まぁ、俺の技能だよ。気配とか、そういうのが分かる。」

「便利だなぁ。」

恐らくフロントにもいるのだろう。

思い当たる節は昼間の騒動。

仲間を傷付けられた応報か、恥を塗られた報復か。

どちらにしたって碌なものじゃない。

「じゃ、僕行ってくるんでぇ。アロト君は二人を見ていて下さいねぇ。起こしてしまってはことですし。」

「は?あの人数相手に何しようってんだよ?てか殺すのか?」

「殺しますよぉ。当たり前でしょう?あんなに殺気立たれちゃ眠れるものも眠れませんしぃ。そう簡単に諦めてはくれなさそうですしねぇ。」

「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿野郎。昼間逃したのは何の為だよ。衛兵とか、あのむかつく秘密警察女とかに目を付けられない為だろ?それを倍にしてどうするんだよ。クラシ、は寝てるし・・・よし、俺が刺す。」

「あの子のアイデンティティになっている・・・しかし確かにそれもそうですねぇ・・・。」

しかし簡単には引いてくれないだろう。

ここで生半可な方法を取っても恐らく人数が更に増えていくだけだ。

無論あちらも人数には限りがあり、いずれ飽和し、これ以上は増えられないという許容量、限界値には到達するのだろうが、それまで僕が非戦闘員の三人を守り切れるという保証も無い。

仕方がないので、閉じた本と辞書を開き、幾つかの言葉を確認する。

・・・よし。

「じゃあ、なるだけ殺さなければ良いんですよねぇ?分かりました、きちんと穏便に済ませますよぅ。」

窓を開ける。

窓は大きく、僕でも通り抜けられるサイズだ。

ここは二階。

問題無い。

「ちょっと行ってきまーす。」

「は!?」

アロト君の声も無視して、僕は飛び降りる。

足から、地面に、真っ直ぐに。

空気抵抗を体全体で感じながら、足に強い衝撃が与えられる。

二階から飛び降りても、人は実は大したダメージは受けない。

勿論怪我はするものの、運が良ければ捻挫くらいで済むのだ。

カルシウム不足なのか骨に嫌な違和感を覚えたが、すぐに無くなった。

僕は目の前の彼等にひらりと軽く手を振ると、一言、「『この鈍間共め。』」と言い放って駆け出した。

数秒して後ろから騒がしい声と、足音が聞こえる。

振り切らないように気を付けながら、街を駆け回る。

夜、寂しく、侘しく、静かで、喧騒はあれど忙しなさはなりを潜めるべき時間帯、そんな中で大人数がハイスピードの移動を、追跡と逃亡を続けている。

右に、左に、時には曲がらず、どやどやとした追跡劇。

アロト君は殺すなと言った。

しかしそういう領域はとうに超えている。

こうなってしまえば、もはや穏便に解決することは出来ない。

穏便にする気にならない。

僕は騒ぎが大きくなればなる程、危険度が上がれば上がる程それに逆らいたくなる。

話が通じるだけの狂人ということを忘れているのだろう。

何度目か分からなくなりそうなくらい曲がり角を曲がると、ついに人と出会った。

それは昼間、僕が多めにお金を渡した、新聞を売っていた少年だった。

両手に、牛乳とパンを抱えて、その腕は酷く細い。

今の今まで忘れていたけれど、少年は僕のことを覚えていたらしい。

目が合うとにこりとした、歓喜を抱擁した笑みを向けてきた。

僕はその少年をナイフで刺した。

血が噴き出る。

しかし僕は、少年に限界まで近付いて後ろを刺した。

だから返り血は浴びない。

前に食い入るように倒れ込む。

それを避け、床に伏したのを見て、そっとナイフを引き抜く。

ちょうどその時、昼間踏んだ男が僕に追い付いてきた。

かなり息が切れている。

丁度良い。

僕は彼にそっとナイフを持たせる。

血塗れのナイフ。

しかしここは街灯も碌にない。

血塗れであることに気が付かず、何故いきなり武器を手渡してきたのか理解できず、ただ僕の顔とナイフを交互に見つめる。

そしてそのナイフを上向きに持っているので、鮮血が垂れる。

それが手に付着する。

他の追って来ていた人達も追い付き、何かを話し始める。

その手には金属製の棒や明らかに他人に害を加えることを前提にされている武器の数々。

暴力的な人達だなぁ、と思いながら、近くの民家の一つのドアを叩きまくる。

何人かが止めようと飛び出したので、僕はまとめて蹴り飛ばす。

僕は人間相手ならめっぽう強いのだ。

伊達に街一つ潰していない。

住民が出て来る前に僕は大声で言う。

「『殺人ー!!殺人犯がいますー!!』」

何度も、何度も、大声で、住民が出て来ても言い続ける。

住民は老婆だった。

こちらに来たばかりの時に会ったお婆さんを彷彿とさせる。

勿論その人とは違う。

切れ目の老婆で、勘繰るような瞳をぎっと向け、奇妙な程曲がった腰と細い体躯。

妙に印象に残る老婆だった。

白髪を纏めていて、僕をじっと見た後、「どこでだい?」と尋ねてきた。

「・・・あれ、言葉通じてます?」

「隣国のだろう?あたしはそこの出身だからね。で?その殺人犯はどこだい?」

「あっちですよぅ。」

野次馬根性の方々が何人も家から飛び出てきて、それは勇気や正義感に変わったらしい。

未だに状況が飲み込めず狼狽えるのを隙と見て取り押さえられ始めている。

ま、実際現行犯に見えるだろう。

指紋を調べるようなことはしないだろうし。

これで大丈夫だろう。

解決して、付け回されるようなことは無くなる筈。

この国の人は侮辱に弱いのか、あの程度の、挑発とも言えないような侮辱に乗って皆追っかけて来たらしい。

共犯と見做されるだろう。

僕は目撃者で、それ以上でもない、只の通行人だ。

さっさとこの場を離れるのが一番良い。

「じゃあ、そういう訳なのでぇ。夜分遅くに失礼しましたぁ。」

「はいはい。思ってもないことを言わなくても良いよ。」

「・・・はぁい。」

老婆はドアを閉めてしまったので、僕もゆっくりと帰ることにした。

急ぐ理由も無く、騒ぎがじわじわと広がるのを感じながら夜道を歩く。

あの少年を殺したのは近くに居たからで、特に選んだ訳でもない。

偶々この時間に出歩いていたからなのだ。

僕は人を殺そうという時誰かを選んだりしない。

何でかなんてあまり理由は無いけれど、どうとでも言い訳じみた言葉は並べられるけれど、やはりどうしても、「否定症候群」以上の問題がある気がする。

僕という人間はそういうものなのだ。

人間の区別などとうの昔に捨てた。

多分「殺さない」、つまり「選ばなかった」人間を決める程他人に興味を持てないのだろう。

だからあの少年も殺した。

子供は苦手だ。

昔ある出来事があったからなのだが、それにしたって不必要に邪険にしようとは思わない。

でも殺した。

そこにいたというだけで。

それが人間として非常識な、有り得ない行動ということはとうに理解している。

そうでなければ僕はそれを行動に移さない。

知っていなければ否定は出来ない。

例えばこの世界では子供を殺すのが合法、となれば僕は残虐な目に遭っている子供を一人残らず助けようとするだろう。

そういうことだ。

理解した上でそれを踏む。

だから厭われる、忌避される。

「・・・駄目ですねぇ。こんな、こんな、えらく後ろ向きな思考は。」

自分さえも否定する「否定症候群」。

薬剤が無い所為か若干制御が効かない気がする。

頭を振って余計な思考は消し去る。

結局どうでも良いことで、変わりはしない。

何ともペーソスに似た奇妙な気分で宿の部屋に戻ると、アロト君がドアの後ろに隠れていた。

ナイフよりもやや大振りな短剣を持って、僕に飛びかかってきた。

一歩右に移動して避け、倒れ掛かるのを片手で受け止める。

「・・・何してるんです?」

「あ、俺死んだか?」

「寝ぼけてますぅ?殺しませんよ。あ、何かあったら迎撃しようとしてくれたんですねぇ。」

「そうだよ。」

体勢を整えるのを見届けた後、僕は眠っている二人を見る。

両者共に穏やかな寝顔だ。

人とはきっと、眠っている間が一番美しいのだろう。

他人を敵視しない、害意も敵意も悪意も抱かない、世間の誰も殺さない、ただ他人の親切や道徳心の間に成り立つ状態。

二人の頭をそっと撫でてみる。なんてことは無い、只の気紛れ。

柔らかな髪の毛、その奥の温度。

「・・・ふふ。」

それが少し可笑しい。

僕のような人間が、普通のことをしていて、普通に人間に触れている。

それは酷い、笑えない冗談のようだ。

実際笑えない。

三秒後にはこの子達の首を絞めているかもしれないのだから。

「で、首尾はどうなんだよ?殺したのか?結局。」

「一人。殺人の罪は擦り付けたので暫くは大人しいでしょう。僕らがこの街に居る間くらいは問題無いですよぅ。」

「なら良いんだよ。」

アロト君は溜息混じりに、「お前って何か、そういう所だよな。」と言ってきた。

「何か、人間っぽいかなって思ったら違うし。どう感じれば良いんだか。」

「僕を人間っぽいと少しでも表現出来る人はあまりいませんよぅ。「彼女」も僕を人だとは言わなかった。凄いですねぇ。」

「褒められている気がしない・・・。」

「先生」だって言わなかった。

僕のことを怪物のようだ、と表現した。

「そういえばさっき、面白そうな人がいましたよぉ。老婆なんですけどぉ、とっても鋭い人でぇ。」

「切れ味か?」

「僕の知り合い危険人物しかいないと思われてますぅ?言ってて悲しくなりません?」

「残念なことに、ちょっとなった。」

「でしょうねぇ。目つきが鋭いという意味です。」

「あぁ、成程な。」

納得してくれたらしい。

「じゃあ俺は寝るけど、お前はどうするんだよ?寝るのか?」

「僕はもう少し起きていますよぅ。目が冴えてしまって。」

「やっぱしお前でも、こんな夜更けにあんだけ大騒ぎしてればそうなるのか。」

「かもですねぇ。」

アロト君は欠伸をしながらディエスちゃんのベットに入った。

仲良しというか、家を出てから、ああやって二人で身を守り合い身を寄せ合い生きていたのだろう。

あれだけ走ったというのに疲労感が無い。

「自己再生」の効果だろうか。

ロングスリーパーなのか「否定症候群」のせいなのか、昔から睡眠時間が短かった。

毎回、泥の底を這うような、濁って沈澱した澱の中から這い出たような、そんな不快感を頭に覚えながら、毒づきたくなる衝動を振り払いながら起きる。

太宰治の「女生徒」にもあった話だが、僕もやはり朝が一番嫌いだ。

爽快な目覚めなんて生まれてこの方、一度も味わった事が無い。

だというのに、目覚めた直後は眠たい。

猛烈とも言える眠気を振り払いながら起きるのは、睡眠を嫌いながら睡眠を感覚的だとしても欲しなければならないのは、人生においてかなりの割合を占める苦痛だ。

暫く教本を見続けていたけれど、流石に飽きてきた。

絶対的な記憶力に、限りなく近しいものを持っているせいですぐに暇潰しにもならなくなってしまう。

仕方が無いので、部屋の明かりを完全に消してベットに潜り込む。

暮ちゃんは少しも反応しない。

その体は随分細く、僕よりも暖かい。

細いというのに不健康な痩せ方はしておらず、女子としてかなり理想的な肉付きをしているのではないだろうか。

さらりとした癖の無い髪の毛が僕の肌に時折触れる。

ベットは大きい。

しかし何故か暮ちゃんの方から僕に近寄り、擦り寄り、肢体を存分に使い、足を絡め、手を伸ばし、その胴体を僕の胴体にくっ付けてくるのだ。

人肌恋しいのかな。

引き剥がすのも何だか忍びないのでそのまま抵抗しないでいる。

別に達人とかでは無いので近くに人がいようと眠れる。

起きてその人が生きているかは別として、だ。

多分暮ちゃんなら大丈夫だろう。

ここに来るまでは一応人の使う道を通ってきたけれど、最短で向かうには森を抜ける必要性があるらしい。

そこには魔力をその心臓に帯びた、通常の獣よりも圧倒的に凶暴性、暴力性が高い獣、魔獣が出る、と聞いた。

何かしらの対策を練った方が良いかもしれない。

そう思いながら思考を停止させていく。

起きたらシャワーでも浴びよう、と思いながら僕は眠りについた。

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