フィアが工房を出た朝
春が来た。
雪が溶け、石畳の隙間から草が顔を出し、市場の色が戻ってきた頃、フィアは工房の扉を閉めた。
いつもと違う閉め方だった。
鍵を二度確認して、扉に手を当てて、小さく「行ってきます」と言った。誰もいない工房に向かって。
背中の鞄は小さい。工具が少しと、着替えと、食料と、首から下げた革袋の中の紙。それだけだった。
マルは隣の家に預けた。前日の夜、隣のおばさんに「少し旅に出る」と告げたとき、おばさんは「いつ帰る」と聞いた。フィアは「わからない」と答えた。おばさんは「マルはうちで預かる」とだけ言った。それ以上聞かなかった。
秀はフィアの後ろをついて歩いた。
「もう一つの目」も、こちら側に来ていた。いつもより気配が近い。緊張しているのか、期待しているのか、両方だろうと秀は思った。
フィアが向かった方向は、東だった。
ラメールの外壁の門を出て、東街道を歩き始めた。
一時間ほど歩いたところで、フィアは革袋から紙を取り出した。広げて、道と照らし合わせて、また折りたたんだ。
方向は合っている、と判断したようだった。
「もう一つの目」の気配が、秀に向かって何かを伝えようとしていた。言葉にはならないが、その揺れ方が
「知っている」と言っているように感じた。
(フィアがどこへ向かうか、お前は知ってるのか)
返ってきたのは、肯定と、それから何か複雑なもの。
(そうか。俺には教えられないのか)
気配が、申し訳なさそうに揺れた。
秀は笑った。笑う口はないが、笑った気がした。
(いい。一緒に見ていよう)
フィアの背中が、春の街道の先に続いていく。




