第9話「曲線の女」
焼け焦げた草の匂いと、土煙が漂う村の広場。
魔物の群れを撃退した歓声が静まり返る中、俺は目の前に立つ銀髪の女をじっと見つめていた。
彼女の右手首に刻まれた、流れるような曲線の紋章。それを見た瞬間、俺の左手首のΣの紋章が、呼応するように微かな熱を持った。
記憶はない。名前も知らない。だが、確信だけがある。
こいつは、俺と同じだ。かつて、俺のすぐ隣で、同じ何か巨大な目的のために働いていた『部品』の一部。そんな欠落した感覚だけが、ひび割れた頭の奥で静かに共鳴していた。
「……お前は、誰だ」
俺の問いかけに、女は深い紫色の瞳を細め、短く答えた。
「イネラ。それ以外のことは、私も覚えていないわ。ただ、あなたが持っているその直線ばかりの不格好な印を、よく知っているという感覚だけがある」
「俺はシグだ。それ以上の記憶はない」
名乗り合った後、俺は視線を別邸のある森の方角へと向けた。
「森の奥にあった『魔物誘導石』。あの周囲に残っていた曲線の魔法陣はお前の仕業だな。お前が、石の増殖と魔物を引き寄せる波紋を抑え込んでいた」
「……ええ。一週間前からね」
イネラは淡々と認めた。
神託の「三日後に滅亡する」という予言は、石の性質を考えれば、本来もっと早く実現していたはずだった。彼女が人知れず森の中に留まり、その力を抑え続けていたからこそ、俺が村の食料を数え直し、防衛陣形を組むための僅かな時間が生まれたのだ。
「お前の力はなんだ? 俺の力は『総和』。今ここにある複数の力を一つに合計するものだ」
「私の力は、その真逆ね。一人、あるいは一つの場所に生じた小さな変化を、時間の中で蓄積していく力。治癒であれ、土地の回復であれ、魔力の抑制であれ……時間をかければかけるほど、結果を大きく積み上げることができる」
俺は今ここにいる数十人を集める。イネラは一人の数十日を積み重ねる。
見事な対比だった。だからこそ、彼女の足元では、一度焼け焦げたはずの枯れ草が、数日分の「回復」の時間を一瞬で蓄積されたかのように蘇っていたのだ。
「助かったわ、イネラさん!」
ミラが明るい声を上げ、イネラに歩み寄ろうとした。
だが、イネラは冷たい視線をミラへ向け、明らかな拒絶の意思を示して一歩後退した。
「勘違いしないで。私はあなたたち人間を助けるために石を抑えていたわけじゃない。ただ、あの石が周囲の魔力を際限なく食い荒らしているのが、我慢ならなかっただけよ」
「え……?」
「あなたたちに関わる気はないわ。人間はどうせ、私のような力を見れば、自分たちの都合のいいように使い潰すだけ。神託という絶対的な答えがあるのに、そこから外れた異端を利用して、最後には不要な道具として捨てるのよ」
イネラの声には、深い絶望と不信感が張り付いていた。
彼女もまた、俺がさっき思い出した『嫌悪の声』と同じように、人間たちから何かを奪われ、否定された記憶の残滓を抱えているのだろう。傷つくことを恐れ、だからこそ最初から他人との関わりを断とうとしている。
「イネラ、私たちはそんなこと……」
「お前の言う通りだ、イネラ」
ミラの言葉を遮り、俺は静かに告げた。
イネラが僅かに目を見張る。
「人間は都合よく他人の力を消費する。神託の答えが間違っていても、自分が安全ならそれでいいと考える。お前の人間不信は正しい計算結果だ。否定はしない」
俺は村人たちを見渡し、再びイネラへと視線を戻した。
「だが、俺はこいつらに信用されたくて、あるいは感謝されたくて助けたわけじゃない。目の前に間違った数字があり、放っておけば破綻する問題があった。だから、自分の『仕事』として計算し、処理しただけだ」
「……仕事?」
「ああ。自分が使い潰されるかどうかなど、俺の計算式には入っていない」
イネラは絶句したように俺を見た。
他人に利用され消費されることを恐れ、拒絶する女。
自分の消費すら計算に入れず、ただ必要な結果のためだけに動く男。
互いに自分自身を大切にしていないという点では同じなのに、導き出した行動は正反対だった。
「あなた……自分が何を言っているか分かっているの? 自分を数えない計算なんて、いつか絶対に破綻するわ」
「破綻する前に、すべての問題を処理すれば済む話だ」
「呆れた。本当に、ただの不格好な直線ね」
イネラは深くため息をつきながらも、先ほどまでの刺々しい拒絶のオーラを少しだけ和らげた。完全に信用したわけではないだろうが、少なくとも俺という存在が、彼女に危害を加える類の人間ではないと理解したようだった。
俺たちが奇妙な妥協点に達した、その直後だった。
「た、助けてくれ……っ!」
村の入り口、王都へ続く街道の方角から、衣服を血と泥で汚した一人の男が転がり込んできた。
猟師の一人が慌てて駆け寄り、男を抱え起こす。男は行商人らしき身なりをしていたが、その顔には不気味な紫色の斑点がいくつも浮かび上がっていた。
「どうした! 魔物に襲われたのか!?」
「違う……病気だ。領都で、恐ろしい疫病が流行っている。神殿の即効薬を飲んでも、治るどころかバタバタと人が死んでいくんだ……っ!」
男の言葉に、村人たちの顔色が一気に青ざめた。
領都。この地域の中心であり、巨大な神託の地方塔がある街だ。
「それだけじゃねえ。領都の神殿から、恐ろしい騎士の部隊が出発したのを見た……。双剣を持った、異端審問官の女だ」
男は荒い息を吐きながら、俺とイネラの姿を見て震え上がった。
「『神託にない力で、魔物を操り村を支配した二人の異端者がいる。直ちに拘束し、処刑せよ』って……!」
俺とイネラは顔を見合わせた。
神官ガルドが王都へ報告に向かった結果だろう。村を救った行為は、魔物を操ったという都合の良い罪状にすり替えられ、完全な『異端』として神殿の討伐対象に指定されたのだ。
「……どうやら、俺たちの計算を気に入らない奴らが、直接数字を消しに来るらしい」
「最悪ね。だから人間と関わりたくなかったのよ」
イネラが忌々しげに舌打ちをする。
村での仕事は終わった。だが、俺たちの存在そのものを否定しようとする巨大な制度が、明確な敵意を持って動き出していた。




