第10話「治るまで三日かかる聖女」
異端審問官の討伐部隊と真っ向から衝突すれば、フェル村の連中まで反逆の罪に巻き込まれる。
それを避けるため、俺とイネラは夜の内に村を離れた。向かったのは、討伐部隊の出発地点であり、疫病の震源地である領都だ。近隣の村から送られてくる患者搬送の荷馬車に紛れ込むことで、俺たちは検問を抜け、灰色の石壁に囲まれた巨大な街へと潜入することに成功していた。
「……ひどい有様ね」
顔を布で覆ったイネラが、荷馬車の隙間から広場を見渡して呟いた。
街の中央には、天を突くような巨大な『地方塔』がそびえ立っている。その足元にある神殿の広場は、凄まじい数の重病人で溢れかえっていた。
誰もが異常な高熱にうなされ、ひどい咳と血混じりの痰を吐き出している。神殿の入り口では白衣の神官たちが特効薬の配給を行っていたが、数千人規模の長蛇の列は遅々として進まず、列の途中で力尽きて倒れる者も少なくない。
「おかあさん、くるしいよぉ……っ」
「もう少しだからね! 神官様のお薬をもらえば、すぐに治るから……!」
俺たちのすぐ近く、列の最後尾で、母親に抱きかかえられた五歳くらいの少年が、ひゅうひゅうと喉を鳴らして痙攣を始めた。顔は土気色になり、明らかに神殿の入り口まで順番が持つ状態ではない。
俺が助かる確率を計算し終えるより早く、隣にいたイネラが荷馬車から飛び降りていた。
「イネラ」
「……放っておけないわ。人間が嫌いでも、苦しんでいる子供を見捨てる理由は私にはないもの」
彼女は母親のそばに膝をつくと、布越しに少年の額へそっと手を当てた。
「な、何をする気ですか!?」
「静かに。少し、熱を散らします」
イネラの右手首にある、曲線状の紋章が淡い紫色の光を放つ。
彼女の能力『積算』。それは俺のように複数の力を空間的に集めるのではない。「一人の人間の体内に起きる、ごく僅かな回復という変化」を、時間の経過を圧縮して積み重ねる力だ。
淡い光が少年の身体を包み込む。だが、俺がかつて三人の力を束ねて放った『総和』のような、劇的で瞬発的な効果はない。細胞が自己治癒する微小な数値を、一つ一つ丁寧に足し合わせ、地道に積み上げていくような静かな魔法。
ただし、まだ起きていない回復を無から作ることはできない。対象の中で実際に進んでいる変化か、すでにその場所へ蓄えられた変化だけが扱える。生き物のように複雑な対象ほど一度に縮められる時間は短く、無理に早めれば術者と患者の双方が壊れる。
「あ……息が、少し楽になったみたい……」
数分の照射の末、少年の痙攣が治まり、呼吸が僅かに規則的になった。
母親が安堵の涙を浮かべる。だが、完全に治りきったわけではなく、少年の顔にはまだ熱の名残があった。
「このまま、あと三日。毎日数時間ずつ光を当て続ければ、後遺症もなく完全に熱を引き剥がすことができるわ」
イネラが額の汗を拭いながら告げた。積算は即効性が低い分、術者にも患者にも急激な負荷をかけずに自然な回復を促せる。
だが、その『三日』という数字を聞いた瞬間、背後から冷ややかな声が降ってきた。
「治るまで三日もかかる魔法だと? そんな無価値な力で、女神の聖域を汚すな」
振り返ると、銀の装飾が施された杖を持つ下級神官が、数人の兵士と共に立っていた。
「神官様! 順番が来る前に、あの子が……」
「安心しなさい。神託によって示された『特効薬』の増産が間に合った。重症者には優先して配給して回っているところだ」
神官はイネラを胡散臭そうに一瞥すると、持っていた青い液体の入った小瓶の蓋を開け、少年の口へと流し込んだ。
「さあ、ルミナ様の慈悲を受け取るがいい」
薬を飲み込んだ瞬間だった。
少年の身体がビクンと大きく跳ねたかと思うと、異常だった顔の赤みが、まるで嘘のように一瞬にして引いていった。荒かった呼吸は平穏なものになり、少年はぱっちりと目を開けた。
「おかあさん、ぼく、もう苦しくないよ!」
「ああ、奇跡だわ! 神官様、女神様、ありがとうございます!」
周囲の患者たちからも、神殿を讃えるどよめきが上がる。
神官は得意げに頷き、地べたに座り込むイネラを見下ろした。
「見たか、これが神託の正しい答えだ。飲むだけで即座に病魔を払う薬があるというのに、三日もかける詐欺まがいの治癒など、人々の不安を煽るだけの偽物に過ぎん」
「私は、ただ……」
「さっさと失せろ、この役立たずの偽聖女め。疫病に乗じて小銭を稼ごうなどと、浅ましいにも程がある」
神官の言葉に扇動され、周囲の市民たちの視線が一気に冷酷なものへと変わる。「詐欺師」「偽物」「邪魔をするな」と、口々にイネラを非難する声が上がり始めた。
彼女は反論せず、深くフードを被り直すと、逃げるようにその場から離れた。
俺はため息をつき、騒ぎから離れて路地裏の影へと消えた彼女の後を追った。
◆
湿った路地裏の木箱に腰掛け、イネラは膝を抱えていた。
「……言ったでしょう。人間は、すぐに結果の出る『答え』しか欲しがらない。時間をかけて積み上げる力なんて、誰も見向きもしないし、信じないのよ」
自嘲するような彼女の声には、諦めと、過去に何度も同じように石を投げられてきた深い孤独が滲んでいた。
俺は彼女の前に立ち、静かに口を開いた。
「神殿の薬が結果を出したのは事実だ。だが、お前の力が無価値だとは、俺の計算式は判断していない」
「慰めならいらないわ。現に、あの神官の薬は一瞬で熱を下げたじゃない」
「能力の使い方が違うだけだ」
俺は壁に背中を預け、イネラの紫色の瞳を見下ろした。
「俺は、今ここにいる百人を集めて、一つの結果を出す。だがお前は、一人の中で続く百の小さな変化を、時間に沿って積み重ねる。俺の『総和』が空間と数の力なら、お前の『積算』は時間と継続の力だ」
イネラが、わずかに目を瞬かせる。
「即効性がないから偽物だというのは、前提となる定義を間違えている。時間をかけるからこそ、患者の肉体に急激な負担をかけず、根本から安全に治すことができる。お前の力は、決して無価値なんかじゃない」
俺は、自分がかつて「負担を計算に入れなかった」せいで血を吐いた事実を知っている。だからこそ、イネラの『積算』がどれほど理にかなった、優しい魔法であるかが計算できた。
イネラはしばらく呆然と俺を見つめていたが、やがてぷいっと顔を背けた。
「……計算、計算って。少しは感情を込めて慰められないの、あなたは」
「事実を言ったまでだ。それに――」
俺は路地裏から、再び広場で歓喜に沸く市民たちの姿へ視線を向けた。
「神殿の薬が『正しい答え』だという前提自体が、間違っているとしたらどうだ」
俺の視界には、広場で特効薬を飲んだばかりの数十人の患者の姿が映っていた。
俺の『総和』は、対象の持つ『損害の量』を感知できる。
神殿の薬を飲み、熱が下がり、笑顔で歩き出そうとしている彼ら。その体内にあるはずの『病魔による肉体への負担』の数値は、決してゼロになってはいなかった。
消えたのではなく、見えない形で身体の奥底に圧縮され、歪な合計値として蓄積されている。
「あれを見ろ」
俺が指さした先。
先ほど母親に抱えられていた五歳の少年の首筋に、どす黒い不気味な『紫斑』が、じわじわと浮かび上がり始めていた。少年に限らない。青い特効薬を飲んだすべての患者の皮膚に、同じように死の兆候のような紫の染みが広がっていく。
一瞬で熱を下げる代償として、彼らの肉体には、もっと致命的な何かが刻み込まれていたのだ。




