第5話「数字なんて役に立たない」
リタの熱が下がり、広場には安堵の空気が広がっていた。
だが、根本的な問題は何も解決していない。村の備蓄はダミーと廃棄品を除けば、もってあと数日。横領の証拠である轍を見つけたとはいえ、奪われた食料を取り戻すには時間がかかる。
村人たちが再び不安げに顔を見合わせる中、俺の耳に小さな声が届いた。
「どうせ、いくら数えたって無駄なんだよ」
広場の隅で、先ほどまで怯えていた少年が膝を抱えて呟いていた。
「数は神託が決めるんだ。神官様が『春まで足りる』って言ったのに、今は足りない。だったら、俺たちが泥棒を数えたって、明日にはまた変わるかもしれないじゃないか。数字なんて……役に立たない」
少年の言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中に再び、冷たくひび割れた声が響いた。
『こんなもの、私の人生で絶対に使うことはない』
『面倒くさい。消えてしまえばいいのに』
深い緑色の黒板と、俺を否定し、忌み嫌う顔のない大衆。
彼らは俺を恐れたわけではない。ただ、理解しようとせず、見ることすら面倒だと切り捨てたのだ。だから俺は、彼らの前から姿を消した。俺は誰にも望まれず、何の役にも立たない存在だからだ。
……本当にそうか?
痛む頭を押さえながら、俺は大きく息を吐き出した。
「役に立たないだと?」
俺は少年の前まで歩み寄り、その目を見下ろした。
「計算を放棄して、他人に答えを委ねた結果が今のこの村だ。数字が役に立たないんじゃない。お前たちが、自分の目で見て数えることをやめたから、奪われたことにすら気づけなかったんだ」
「だって……俺たちには、神託みたいな力はないし……」
「嫌われることと、役に立たないことは同じではない」
俺は少年にそう言い放ち、ドルフ村長をはじめとする村人たちを振り返った。
「奪われた麦を取り戻すには、最低でも三日はかかる。だが、今のままではその前に飢え死にだ。お前たち、各家庭に少しは余分な食料を隠し持っているだろう。豆でも、干し肉でも、少しずつでいい。今すぐここへ持ち寄れ」
「し、しかし……それは冬を越すための、最後の……」
「ここで出し惜しみをして全滅するか、すべてを数え直して生き残るか、自分で選べ」
冷徹な要求だったが、先ほど俺がリタの命を救い、痛みを引き受けた事実が彼らの背中を押した。
一人、また一人と、村人たちは自宅へと走り、隠し持っていた袋や壺を抱えて戻ってきた。
少しカビの生えた干し肉、底に少しだけ残った豆、硬いパンの欠片。どれも一つ一つは取るに足らない、今日一日の飢えさえ凌げるかわからない「小さな余剰」だ。
「これで……全部です。俺たちが持っている、本当の全部だ」
ドルフが震える声で告げる。
俺は持ち寄られた食料の山に意識を向けた。
俺の『総和』は、同じ目的に属する数字を合計できる。
彼らが自発的に差し出した、生き延びるための熱量。そのすべてを、ただの事実として計算式に組み込む。
「……三日分だ」
俺は正確な計算結果を口にした。
「無駄遣いしなければ、村の全員が三日間食い繋げるだけの熱量はある。これで、奪われた麦を取り戻すための猶予ができた」
その言葉に、村人たちは安堵の息を漏らし、互いの手を取り合った。
絶望に染まっていた広場に、微かな希望の光が差した瞬間だった。
ふと、ミラが思い出したように声を上げた。
「そういえば、隣のフェル村でも、最近似たようなことがあったって聞いたわ」
「似たようなこと?」
「うん。枯れて使い物にならなくなった畑の土を、数日かけて蘇らせた女の人がいるんだって。銀色に光る長い髪の……。その人も、神託にはない不思議な力を使ってたらしいわ」
銀髪の女。枯れた土を蘇らせる力。
それがどんな力かはわからないが、少なくとも、俺の『総和』と同じように、神託という絶対的な計算機から弾き出された『異端』であることだけは確からしかった。
左手首のΣの紋章が、仲間の存在を感知したかのように微かな熱を帯びる。
「……行くぞ、村長。まずは領主の別邸だ」
俺が歩き出そうとした、その時だった。
「おや、随分と活気があるじゃないか。これなら、私の心配は杞憂だったようだな」
広場の入り口に、武装した十数人の兵士を引き連れた男が立っていた。
豪奢な外套を羽織り、薄ら笑いを浮かべるその男を見て、ドルフの顔色が一瞬にして蒼白になる。
「ヴァ、ヴァルド様……! なぜ、このような時期に……」
「なに、少し『不測の事態』が起きそうでね。備えは多いに越したことはない」
徴税官ヴァルドは、村人たちが広場の中央に積み上げたばかりの食料の山――三日分の命を繋ぐ希望――を一瞥し、冷酷に笑った。
「その食料、すべて今すぐ没収させてもらう。……女神の御名においてな」




