第4話「一人分の治癒では足りない」
深い森へと続く重い荷車の轍。奪われた百二十袋の行方を示すその決定的な痕跡を確認した俺たちは、ひとまず村の大人たちを呼ぶために広場へと引き返した。
だが、村の中心へ足を踏み入れた途端、俺たちは張り詰めたような人だかりと悲鳴に出くわした。
「誰か! お願い、誰かリタを助けて! 熱が下がらないの、息も苦しそうで……っ!」
広場の中心で、母親らしき女性が七、八歳ほどの小さな少女を抱きかかえて泣き叫んでいた。粗末な布に包まれた少女――リタの顔は異常なほど赤く、浅く早い呼吸を繰り返している。
この数日間の配給不足で体力が落ちていたところに、夜の急激な冷え込みが重なったのだろう。放っておけば、数時間持たずに心臓が止まる。俺の頭の中の計算が、冷酷な残り時間を自動的に弾き出していた。
「村の神官様は王都へ報告に行って留守だ。誰か、治癒の加護を持ってる奴はいないのか!?」
ドルフ村長が叫ぶが、集まった村人たちは力なく顔を見合わせるだけだった。
やがて、三人の中年男女が沈痛な面持ちで前に出た。
「俺たち三人は治癒の加護を持っていますが……どれも、擦り傷を少し早く治す程度の『微弱』なものです」
「以前、神託碑でも『無価値』と判定された力だ。こんな重い熱病、俺たち三人がかりで魔力を全部注ぎ込んだところで、熱一つ下げられやしない……」
彼らは悔しそうに唇を噛み、己の手を見つめた。
ルミナリア王国では、個人の能力は神託によって絶対的な価値を定められる。神託に「無価値」と言われたからこそ、彼らは自分の小さな力が病魔に届かないことを最初から諦めてしまっているのだ。
俺は横領の証拠である轍の件を後回しにし、人だかりを掻き分けて倒れた少女のそばへ歩み寄った。
「神託が何と言ったかは知らないが、今ここにある力はそれだけなんだろう。だったら、使うしかない」
「だから、俺たちの力じゃ足りないんだ! 無駄に魔力を消費して、あの子を余計に苦しませるだけだ!」
「一人分で足りないなら、合わせればいい」
「……は?」
俺は左手首の袖をまくり、微弱な治癒の加護を持つ三人を見据えた。
「お前たちが別々に魔法をかけても、病魔の勢いには勝てない。だが、三人分の治癒の力を一つの塊として同時に叩き込めば、熱を下げる閾値を超える。……あの子を助けたいか?」
「そ、それは……助けたいに決まってる! けど、どうやって……」
「なら、俺に力を貸せ。お前たちの同意が必要だ」
戸惑いながらも、三人の瞳に『助けたい』という強い意思が宿る。
三人の明確な『同意』が成立した瞬間、俺の左手首にあるΣの紋章が焼け焦げるように脈動した。
――総和。
三人の手から放たれた微弱な淡い光が、空中で幾何学的な軌跡を描き、俺の左腕へと一気に吸い込まれる。
ばらばらだった三つの魔力。それらを同じ『治癒』という目的に属する数字として俺という演算器へ引き入れ、合算し、一つの巨大な力へと変換する。
俺の腕を媒介にして一つに束ねられた純白の光が、リタの小さな身体を眩く包み込んだ。
「ああっ……! リタの呼吸が……!」
母親が歓喜の声を上げる。
苦しげだった少女の胸の上下が穏やかになり、異常な赤みがスーッと引いていくのが見えた。微弱な力でも、束ねれば病魔を完全に圧倒できる。三人分の力が一つになった明白な結果だ。
だが、必要な仕事が終わった直後。
「――ッ、かは……!」
俺の口から、どす黒い血が吐き出された。
全身の血管が沸騰し、内臓がねじ切られるかのような激痛に襲われ、俺は泥の上に両膝をついた。視界が真っ赤に明滅し、地面が激しく揺れる。
「シグ!?」
ミラが悲鳴を上げて駆け寄ってくる。
当然の代償だった。微弱とはいえ、他人三人分の魔力を限界まで引き出し、一つの肉体で一気に演算・出力したのだ。三人が本来負うべき魔力枯渇の疲労、血管への負荷、そのすべての反動が『総和』され、俺一人に集中して叩き込まれた。
「どうして……っ、血なんか……! リタちゃんは治ったのに!」
俺の背中を支えるミラの手が震えている。
「……計算通りだ。三人の……負担を俺一つにまとめたから、あの子は治った……」
荒い息を吐きながら事実だけを答える俺に、ミラは泣きそうな顔で怒鳴った。
「馬鹿! それじゃあ、あなたはどうなるのよ! あなたは三人の力の合計と、あの子を治すための魔力負担は全部数えたのに……『自分の負担』は計算に入れなかったの!?」
「……俺の分?」
その問いだけが、痛みに霞む頭へ妙に長く残った。
三人の力と、治療に必要な量は数えた。だが、それを通す俺の肉体がどこまで耐えられるかは、最初から式に置いていない。
なぜ外したのか。考えようとすると、思考の奥に白い靄がかかった。今はまだ、その欠落を不自然だと認めることしかできなかった。
ズキリと、頭の奥で氷の刃を突き立てられたような鋭い痛みが走った。
不意に、視界が別の光景へと切り替わる。
深い緑色の黒板。宙を舞うチョークの粉。
そして、顔のない大勢の人間たちの声が、耳元で冷たく、ひどく疎ましく響く。
『見るだけで嫌になる』
『こんなもの、私の人生で絶対に使うことはない』
『面倒くさい。消えてしまえばいいのに』
誰の声だ? わからない。ただ、確かな『嫌悪』の感情だけが、ひび割れた記憶の中から無数に突き刺さってくる。
声を聞くたび、胸の奥から古い反射がせり上がる。嫌われても正解だけは出せ。役に立つ間は、痛みを申告するな。
それが誰に植えつけられた考えなのかも、自分が本当に納得していたのかも、まだ思い出せない。
「シグ……? しっかりして、シグ!」
肩を揺さぶるミラの必死な声で、俺は現実へ引き戻された。
荒い呼吸を整え、口元の血を左手の甲で拭い去る。
ミラの問いを胸の奥へ押し込め、俺はゆっくりと立ち上がった。違和感の正体を考えるより、今は先に数えるべき被害がある。
「俺のことは気にするな。……村長」
俺はドルフを振り返り、深い森の方角を指さした。
「怪我人を数え終わったなら、次は泥棒を数える番だ。あの轍の先へ行くぞ」




