第44話「無限には、誰の顔もない」
神託塔の前広場を震わせていた耳障りな轟音は、アインの肉体が崩壊する音だった。
一万人の民衆の意志と、四人の仲間の能力が噛み合った純白の閃光。それが無限の結界を貫き、アインの法衣を焼き焦がした直後、彼の内側に蓄積されていた莫大な魔力が許容量を超えて暴走を始めたのだ。
「ぐ、あぁぁぁぁぁっ……!!」
アインの整った顔立ちが、高熱に炙られた蝋細工のようにグニャリと溶け落ちる。
人間の形を保てなくなった彼の肉体から、目も眩むような黄金の魔力が際限なく溢れ出し、周囲の空間そのものを歪めるほどの巨大な質量となって膨張していく。
意思を持った人間ではなく、ただひたすらに増殖し、すべてを飲み込んで拡張し続けるだけの光の怪物。
それが、他者の選択を奪い、己の生存のためだけに機能し続けようとした『無限』という概念の、成れの果ての姿だった。
『無駄だ、シグマァァッ!!』
形を失った黄金の光の奔流から、幾重にも重なったアインの絶叫が響き渡る。
『一万だろうが十万だろうが、有限の数字など無限の海の前ではゼロに等しい! その程度の束で、私の拡張を止められると思うな!』
事実、俺が左腕から放ち続けている純白の光線は、膨張する黄金の光の海に徐々に押し込まれ始めていた。
単純な「量」の勝負に持ち込まれれば、絶対に勝ち目はない。どれほど強大な有限の数字であっても、無限を前にすれば必ず飲み込まれる。それが絶対の真理だ。
俺の全身の筋肉が悲鳴を上げ、皮膚から血が噴き出す。総和線を通じて、遠く離れたイネラやゼロ、イクアたちの荒い呼吸が伝わってくる。彼らもまた、限界を超えて力を振り絞っていた。
「……ああ、量の勝負なら、有限は無限に勝てない。計算するまでもない事実だ」
俺は血を吐きながらも、決して左腕を引くことなく、眩い黄金の海を見据えて静かに告げた。
「だが、お前は根本的な計算間違いをしている、アイン。俺が束ねたのは、ただの均質な魔力の塊じゃない」
俺は、総和の力をさらに鋭く研ぎ澄ませた。
俺の左手首から放たれている純白の光は、一見すると一本の太い光線に見える。だが、俺という演算器の知覚を通して見れば、それは決して「一つの色に溶け合った光」ではなかった。
それは、一万と一色の、全く異なる色と形をした極細の糸の束だ。
猟師の無骨な意志、老婆の震える祈り、孤児の泥臭い生存欲。イネラの静かな怒り、ゼロの恐怖を乗り越えた勇気、イクアの苛烈な覚悟。
俺は、彼らの力を「一万」という均質化された数字にまとめ上げなかった。誰が何を選び、どんな思いでこの力を差し出したのか。その個人差を、ノイズを、彼らの『顔』を、俺は一つも消去することなく、そのままの形で束ねていた。
「お前の『無限神託』は、個人の違いを消し去り、全員を平均化して同じ答えを与えるための仕組みだ」
俺の束ねた一万の光の糸が、アインの無限の海へと深く突き刺さる。
「ならば、この一万通りのバラバラの意志を、お前の計算式はどう処理する?」
その瞬間だった。
際限なく拡張を続けていたアインの黄金の光が、突如として激しく明滅し、乱れた脈のように不規則な動きを見せ始めた。
『な……なんだ、これは……!? 魔力の波長が、統一されていない!?』
光の怪物と化したアインが、混乱に満ちた声を上げる。
当然だ。無限神託の式が俺の一万人の力を飲み込み、相殺しようとした瞬間に、致命的な矛盾が生まれたのだ。
アインの世界式は、異なる価値観や矛盾する願いを平均化しようとする。しかし、俺が束ねた力は平均化を拒絶し、一万通りの異なる意思として同時に答えを求めた。
無限には、量はあるが『誰の顔』もない。
だが、有限の総和には、一万人分の明確な顔と意志がある。
個人の違いを扱えない無限神託は、一万の矛盾した願いを前に停止し、自己崩壊の連鎖を始めた。
『馬鹿な……私の完璧な計算が……こんなノイズの集合体に、破綻させられるというのか……ッ!』
黄金の光の海が、内側から引き裂かれるように次々とひび割れていく。
アインは、自身の存在が無限の拡張という現象に完全に呑み込まれ、自我が崩壊していくのを悟ったのだろう。光の奔流が、苦痛に悶えるように大きく波打った。
「世界式が崩壊すれば、お前はただの暴走した魔力の塊になる。このままではお前自身も、お前が救おうとしたこの国も吹き飛ぶぞ」
俺が静かに事実を突きつけると、ひび割れた光の中から、かろうじて人間の顔の輪郭を取り戻したアインが、血走った目で俺を睨み下ろした。
彼は追い詰められてなお、己の敗北を、そして俺の思想を認めようとはしなかった。
『……理解されることが生きることだと? 他人の意志を尊重しろだと? 笑わせるな、シグマ。私はお前のその泥臭く不完全な世界を、絶対に認めはしない』
アインの声には、かつての純白の空間で俺に見せた、忘れられることへの底知れない恐怖が滲んでいた。
だが、同時にそこには、神殿の最高位として君臨し続けた男の、意地と誇りがあった。
『私は誰の理解も要らない。誰に選ばれることも望まない。……ただ、自分の終わりだけは、自分で決める! 自我を失ったただの怪物に成り下がるくらいなら……私自身の手で、この無限を終わらせてやる!』
アインは、四方に拡散しようとしていた無限の暴走エネルギーを、強引に自らの内側へと引き戻した。
彼は、自らの肉体を巨大な魔力の『出口(排気口)』として機能させ、王都を吹き飛ばすはずだった致死量の魔力を、空の高みへと一気に放出させたのだ。
「アイン……」
夜明け前の空を、黄金の光の柱が突き抜けていく。
それは、彼が最後に選んだ、彼なりの世界への責任の取り方だった。
光の柱の中で、アインの姿が徐々に薄れていく。俺を許す言葉も、これまでの行いに対する謝罪も、感謝の言葉すらも、彼は一切口にしなかった。ただ、最後まで自分の選択を貫いたという苛烈な瞳だけを残して、無限聖人は朝焼けの空へと完全に溶けて消え去った。
王都を包んでいた黄金の光が、細かい粒子となって降り注ぎ、やがて消滅する。
広場に満ちていた不気味なほどの静寂が破られた。
アインの無限神託による強制接続が断ち切られ、自我を取り戻した数万人の民衆たちが、自分が手に持っていた瓦礫を落とし、戸惑うように周囲を見回し始めた。
怪我の痛みにうめき声を上げる者、隣にいる家族の顔を見て泣き崩れる者。
そこには、間違いと痛みに満ちた、だが確かな人間の営みがあった。
俺はゆっくりと息を吐き出し、左腕を下ろした。総和線を伝わってくる仲間たちの生存と安堵の数値を確認し、瓦礫の山を振り返る。
王都の中心で、何百年もの間、人々に絶対の答えを与え続けてきた白亜の神託塔。
その塔の表面を覆っていた青い魔力の輝きは完全に失われ、ただの冷たい石の建造物となって、朝日に照らされながら静まり返っていた。




