第45話「一は、ゼロではない」
王都の空を覆っていた禍々しい暗雲が晴れ、白み始めた朝焼けの光が、崩壊した神託塔の前広場を優しく照らし出していた。
無限聖人アインが、その身を莫大な魔力の出口として空の彼方へ消え去ってから数日。王都は今、かつてないほどの活気と、そして泥臭い喧騒に包まれていた。
アインがもたらした「無限の食料」や「無限の魔石」は、彼が消滅したことで完全に機能を停止し、ただの石ころや土の塊へと還っていった。奇跡の恩恵を失った市民たちは、絶望と混乱に陥った。食料倉庫では奪い合いが起き、答えを失った恐怖から座り込む者もいた。
それでも王都全体が暴動に呑まれなかったのは、奇跡ではない。目覚める際に互いの名を呼び、選択を取り戻した人々が、その繋がりを切らずに救護と配給の輪を作ったからだ。瓦礫を退け、怪我人を手当てし、わずかに残った備蓄の食料を分け合う。誰がどの作業を担うのか、どこから手をつけるべきか。広場のあちこちで、怒声や言い争いが絶え間なく響いている。
それは、神託という絶対の答えを与えられていた時代には決して存在しなかった「ノイズ」だ。だが、そのノイズこそが、彼らがアインの麻酔から目を覚まし、自分自身の頭で考え、痛みを感じながらも自らの足で歩き始めた何よりの証拠だった。
広場の中央にそびえ立つ神託塔の機能は停止し、その足元にある巨大な神託碑も、今は青い光を失ってただ沈黙している。
「……本当に、この神託碑を壊さなくてよかったのですか?」
神託碑を見上げていた俺の背後から、凛とした声がかけられた。
振り返ると、王女セレナが、泥で汚れたドレスのまま静かに立っていた。その隣には、双剣を腰に帯びたイクア、そしてフェル村の村民たちの救護を終えたミラとゼロの姿もある。
俺は神託碑の冷たい石の表面を撫でながら、小さく首を横に振った。
「ああ。神託の計算能力そのものは、気象の予測や大規模な水利計算など、人間が生きていく上で有用な道具だ。これを完全に破壊してしまえば、民衆はまた別の『間違えない絶対の権威』を求めてパニックになるだけだ」
「道具として、正しく使うということですね」
「そうだ。問題は、計算機そのものではなく、計算の前提となる条件を隠蔽していたことにある」
俺はセレナへ向き直り、言葉を続けた。
「これからは、神官が入力した『条件』と『対象範囲』だけでなく、答えが出た日時、神託の原文、許容される誤差、誰がどう解釈して実行へ移したかまで、この神託碑に公開する。古い答えの使い回しも、基準値の勝手な一律化も、弱者を結果の記録から消す真似も、二度とさせない」
「ええ、約束します」
セレナは力強く頷き、王族としての確かな決意を込めた瞳で神託碑を見据えた。
「神官たちは特権階級ではなく、計算の前提と原文を確認する検証補助職へ改めます。実行後の被害は別の記録官が追跡し、結果まで公開する。そして神託の答えを鵜呑みにせず、解釈して実行へ移す最終決断には、人間の責任者による『署名』を必須とする制度を作ります」
「責任を、人間が負うのか」
「はい。次期女王となる私が、その最初の署名者となります。もう、間違える責任を神に押し付けたりはしません」
彼女の覚悟に、俺は微かに口角を上げた。
正しい情報を公開し、人が自ら選んで責任を負う。領都で俺が目指し、一度は無限の欲の前に打ち砕かれたその前提が、今、この国の新たな制度として確かに根付こうとしていた。
「隠蔽や条件の誤魔化しは、私が許さん」
イクアが一歩前に出て、鋭い視線を神託塔へと向けた。
「神殿の異端審問官としてのバッジは捨てたが、セレナ殿からの要請で、新たな『監査院長』の任に就くことになった。天秤の左右に不正がないか、私のこの目で厳しく監視させてもらう」
「頼もしい限りだ。イクアなら、どんな小さな不正も見逃さないだろうからな」
「私は、辺境の村と王都を繋ぐ記録役になることになったの」
ミラが、少し照れくさそうに笑いながら口を開いた。
「フェル村みたいな小さな場所の声や被害が、神託の計算の『対象外』にされないように。私が全部書き留めて、王都に届ける役目。……シグが、一人も切り捨てないって教えてくれたから」
「大役だな。ミラなら立派にやり遂げるさ」
俺がそう言うと、俺の腰のあたりにドンッと小さな頭がぶつかってきた。
「俺はね! 学校に行くんだよ!」
ゼロが、満面の笑みで俺を見上げている。
「セレナ様が、魔法が使えなくても、逆に魔法を消しちゃう力があっても通える学校を作ってくれるんだって! そこでいっぱい勉強して、お肉を腹いっぱい食べるんだ!」
「そうか。お前の『ゼロ』は、これから何にでもなれる数字だ。……学校をうっかり零化して消し飛ばさないようにな」
「むっ、子ども扱いするなよ!」
ゼロが頬を膨らませるのを見て、周囲に温かな笑い声が響いた。
彼らはもう、俺が指示を出すまでもない。それぞれが自分自身の意志で、この間違いだらけの世界を立て直すための役割を、しっかりと選び取っていた。
「……で? 私たちはどうするの、シグ」
皆との会話が一段落したところで、ずっと俺の隣で静かに微笑んでいたイネラが、紫色の瞳を向けてきた。
俺は自分の左手首にある、完全な形となった『Σ』の真理紋を見下ろした。
俺たちの正体は、元の世界から引き寄せられた数学記号の概念だ。だが、今の俺たちには確かに血の通った肉体があり、痛みを感じ、腹も減れば、誰かと笑い合うこともできる。人間として生きる権利は、もう誰にも奪わせない。
「俺たちは、権力の中心には向かないからな。……まだ、王都の外には、神託の計算から零れ落ちてしまった小さな悲鳴や、拾い集めなきゃならない数字が落ちている気がするんだ」
「そう言うと思ったわ」
イネラは長い銀髪を風に揺らし、楽しげにくすりと笑った。
「ええ、付き合うわ。終わりのない旅になりそうだけれど、あなたがまた『自分自身』を計算式に入れ忘れて無理をしないか、私が隣でしっかり監視して、あなたの休息を積算してあげなきゃいけないもの」
「……頼りにしている」
俺が素直に頷くと、イネラは少しだけ頬を赤くして、俺の隣に並んで歩き出した。
セレナ、イクア、ミラ。そして彼らの背後で復興に汗を流す王都の人々へ向けて、俺たちは静かに手を挙げ、瓦礫の広場を後にした。
*
それから、いくらかの月日が流れた。
俺とイネラは王都を離れ、ルミナリア王国の各地を巡る旅を続けていた。その道中、俺たちはゼロが通い始めたという新しい学校の様子を見るために、とある地方都市へと立ち寄っていた。
雲一つない青空の下、広々とした校庭では、大勢の子どもたちが歓声を上げながら走り回っている。魔法の力比べをするわけでもなく、ただ泥だらけになってボールを追いかけるその群れの中に、ひと際元気な白髪の少年の姿を見つけ、俺とイネラは目を細めた。
平和な昼下がり。校庭の隅の木陰で休んでいた俺の服の裾を、ツンツンと引っ張る感覚があった。
見下ろすと、ゼロの友達だろうか。小さな男の子が、不思議そうな瞳で俺を見上げ、そして俺の左手首に刻まれた黒い紋章を指差した。
「ねえ、お兄ちゃん。その腕の変な印、なあに?」
無邪気な問いかけ。
俺はゆっくりとしゃがみ込み、その子と同じ目線になった。
かつて、人間社会の裏側で冷徹に事象を測り続け、誰にも理解されずに消え去ろうとしていた概念の記号。正しい結果のためなら他人の意思すら切り捨てようとした、傲慢な計算式の残骸。
だが、今の俺にとって、この『Σ』の文字は、もうただの冷たい数式ではない。
「これか。これは――小さなものを一つも忘れず集める印だ」
俺が穏やかに微笑んで答えると、男の子はパッと顔を輝かせた。
「そっか! なんか、かっこいい!」
男の子は満足そうに笑うと、再び友達の輪の中へと元気よく駆けていった。
その後ろ姿を、俺はいつまでも見守っていた。隣に立つイネラが、呆れたように、けれどひどく優しく微笑んで俺の肩に寄り添ってくる。
遠くで、ゼロが新しい友達と大声で笑い合っているのが聞こえる。
無限の奇跡は消え去り、泥臭く、間違いと痛みに満ちた有限の日常が続いていく。何か問題が起きるたびに、人々は迷い、ぶつかり合いながら、一つずつ答えを出していかなければならない。
けれど、もう恐れることはない。
彼らは自分で選び、その結果を引き受ける強さを持っている。そして俺もまた、彼らと共にその計算を続けていく。
今度は、俺自身も数え忘れなかった。




