第43話「総和の最後」
神託塔の前広場を埋め尽くす数万の民衆。俺は、目覚めた者たちと共にアインの無限の麻酔へ囚われた人々の間を進んだ。
総和線を枝分かれさせ、一人ずつ紋章の光で統制の殻へ亀裂を入れる。だが、それだけで目覚める者は少ない。家族や友人が名を呼び、本人しか知らない選択の記憶を問いかけ、長い沈黙を待つ。泣き崩れる者、痛みに耐えられず再び命令へ逃げ込む者もいた。
非効率で泥臭い、気の遠くなるような作業だ。だが、人間の意思を束ねるための過程を、俺は二度と省略しない。
一人が二人目の名を呼び、二人が四人へ手を伸ばす。問いかけは一括ではないが、総和線の枝は増えるたびに次の枝を生んだ。アインの黄金の糸も、目覚めた者を再接続しようと絶えず追ってくる。俺たちはその糸を払い、互いの名前を呼び続けた。
「あんたは……あの時、村を救ってくれた」
瓦礫の中から顔を上げたのは、崩落する橋から助け出し、共に魔物と戦ったフェル村の猟師だった。彼は俺の顔を認めると、その泥だらけの右手を俺の左手の上に重ねた。
「俺の力なんか微々たるもんだが、あの神官の操り人形になるよりはずっとマシだ。使ってくれ」
彼の胸から、明確な『同意』の意志が熱量となって俺の計算式へと流れ込む。
一人、また一人。広場には、俺たちがこの旅で関わってきた人々の姿があった。領都で薬害から生き延びた患者たち、鉱山で共に生き埋めになりかけた鉱夫たち、地下区画で不要とされ過酷な労働を強いられていた技能者たち。
彼らは痛みを伴う現実を直視し、自らの足で立つことを選び、俺の総和の式に次々と自らの意志の数字を足し込んでいった。
だが、すべてが順調だったわけではない。
「……嫌だ。私は、選びたくない」
一人の年老いた女性が、怯えたように首を横に振った。
「自分で考えても、間違えるだけだ。無限聖人様に従っていれば、飢えることも、病気に苦しむこともない……。私は、あの心地よい夢の中にいたいんだよ」
「分かった。なら、お前はそのままでいい」
俺は彼女を責めることなく、静かに紋章の光を引いた。
自分で考えず、答えを与えられる安寧を望むことも、また一つの選択だ。恐怖から逃げることを悪や臆病として裁く権利は、俺にはない。俺は彼女の意志を尊重し、総和の計算から外して次の者へ向かった。
拒否する者もいれば、同意する者もいる。
夜が白み始める頃、王都各地まで枝分かれした総和線には、一万人に迫る民衆の意志と魔力が、目視できるほどの強烈な黄金の奔流となって束ねられていた。
一万人の、生きたい、自分でありたいという確かな熱量。
俺は神託塔の前に立つアインへと向き直り、束ね上げた巨大な力の塊を、奴が展開している無限の防御壁へと真っ直ぐに叩きつけた。
ゴアァァァァァンッ!!
空間がひび割れ、凄まじい衝撃波が広場の瓦礫を吹き飛ばす。
俺の一万人の『総和』と、アインの『無限』が正面から激突し、互いの魔力が火花を散らして削り合う。
「くっ……!」
だが、俺は歯を食いしばり、顔を歪めた。
束ねた力は膨大だ。アインの絶対的な結界に深い亀裂を入れてはいる。だが、あと一歩、ほんのわずかに押し切れない。アインの無限の回復力が、俺たちの有限の束をジリジリと押し返し始めていたのだ。
「愚かな。一万人を集めようと、拒否した者もいる以上、お前の計算式は不完全だ」
アインが結界の向こう側で冷酷に嗤う。
「一は無限に勝てない。それが絶対の真理だ。お前の計算には、決定的に足りないものがある」
俺は額から血を流しながら、必死に脳内の計算式を再検証した。
同意した者の力は、すべて取りこぼさずに束ねたはずだ。ロスはない。各地方塔の機能も停止している。
何が足りない? 誰の数字を数え忘れている?
『あなたの計算には、あなたがいない』
不意に。
かつて領都の街路樹の下で、イネラから突きつけられた言葉が、脳裏に鮮明に蘇った。
俺はもう、自分の肉体が壊れる危険まで忘れてはいない。仲間へ相談することも覚えた。
それでも最後の式で、俺は自分を『皆を繋ぐ器』という役割としてしか置いていなかった。何をしたいか、これからも生きたいかを、自分自身には一度も尋ねていない。
人には選ばせたのに、自分だけは選ぶ者として数えていなかった。
だから、足りないのだ。
「……俺だ」
俺は痛む左腕を抑え、深く息を吸い込んだ。
「俺は、俺自身を数えていなかった」
自分は不要な概念の残り滓ではない。嫌われても、理解されなくても、俺もまた、この世界で生きたいと願う一人だ。俺自身の痛みを、俺自身の意志を、ただの計算機ではなく一人の人間として、この式に組み込む。
俺は、俺自身の存在を『1』として明確に認識し、総和の最後の項として足し込んだ。
カッ……!!
その瞬間、俺の左手首にある『Σ』の紋章が、これまでの比ではない、目を灼くような純白の閃光を放った。
計算式が、真の完成を見たのだ。
自己を犠牲にする不完全な束ではなく、自分も含めた完全な有限の総和。
その強烈な光は、俺の手首から『総和線』を通じて、王都の四方にいる仲間たちへと一瞬で伝播した。
『……シグ、あなたの意思、確かに受け取ったわ!』
北のイネラの声。彼女の『積算』が、一万人から届く不揃いな力を短い脈動ごとに受け止め、途切れない一続きの出力として積み上げていく。威力を無から増やしたのではない。ばらばらの瞬間に届く力を保存し、必要な順に放つことで、総和が一瞬で崩れるのを防いだ。
『俺も足す! アインの無限の防御だけを、消す!』
東のゼロの『零化』が、俺の力の先端に鋭い刃として付与され、アインの防御結界の最も分厚い部分を的確に消し飛ばす。
『シグマ、そのまま撃ち抜け! 私が左右の軌道を支える!』
西のイクアは、光束の左半分と右半分に生じる横向きの力を二対象として均衡させた。総量を増やさず、左右の逸れだけを打ち消し、巨大な束の軌道を保つ。
総和、積算、零化、均衡。
かつて世界を支えていた四つの概念が、俺という完全な演算器を通して、一つに噛み合ったのだ。
「おおおおぉぉぉぉッ!!」
俺は全身の魔力を振り絞り、四人の力と一万人の意志が融合した純白の光線を、アインの中央式へと撃ち放った。
「ば、馬鹿な……有限の分際で、私の無限を……ッ!」
アインが驚愕に顔を歪め、両手で防ごうとする。
だが、もはや防御は意味を成さなかった。ゼロが削り、イクアが軌道を整え、イネラが途切れさせず支えた一万と一人の明確な意志の刃は、アインの無限の結界を紙のように貫通した。
閃光がアインの純白の法衣を焼き焦がし、その肉体を直撃する。
「ぐ、あぁぁぁぁぁっ……!!」
アインの口から、おぞましい絶叫が迸った。
彼の中に蓄積されていた莫大な無限の魔力が、許容量を超えて暴走を始める。彼の整った顔立ちがグニャリと溶け、肉体がその形を保てなくなり、圧倒的なエネルギーの奔流そのものへと姿を変えていく。
人間の姿を捨て、ただ際限なく拡張し続けるだけの光の怪物。
それが、無限という概念の真の姿だった。




