第42話「足りない一項」
王都の四方の空から、漆黒の光柱が完全に消え去った。
イネラ、ゼロ、イクア、そしてミラたち。仲間たちがそれぞれの戦場で塔の機能を停止させたことで、民衆の命を削り取っていた『世界式』への物理的な吸い上げは止まった。
俺は瓦礫の山を踏み越え、王都の中心にそびえ立つ白亜の神託塔の根元へと辿り着いた。
そこには、無限神託の中心たる『無限聖人』アインが、眩いほどの黄金の魔力を全身から立ち昇らせて待ち構えていた。四つの地方塔という補助輪を失ってもなお、彼自身の持つ『無限拡張』の力は、周囲の空間を歪めるほどの圧倒的な質量を保っている。
だが、真に絶望的なのはアインの力そのものではなかった。
「……見ろ、シグマ。塔が止まっても、彼らはもう迷わない」
アインが優雅に手を広げた先。広場を埋め尽くす数万人の王国民たちは、魔力の吸い上げが止まった今もなお、焦点の合わない虚無の瞳で、機械のように瓦礫の撤去を続けていた。
彼らの意識は、すでにアインの意思と直結している。
恐怖も、飢えも、悲しみもない。誰かが倒れても誰も助けず、ただ与えられた「正解」の行動だけを無機質に繰り返す人形の群れ。
「この絶対の結界を破り、私を止めるには、もはや彼ら民衆自身の莫大な魔力と意志を束ねるしかない。……だが、君の力ではそれは不可能だ」
アインの言う通りだった。
俺の『総和』は、同じ目的に属する複数の力を合計する能力。そして橋で最初に使った時から、人の力だけは、目的を理解した本人が自ら預けなければ一つも束ねられない。言葉でなくてもいい。縄を握る、持ち場を選ぶ、魔法を掲げる。意思を行動で示した時だけ、同意として繋がる。
俺は左手首の完全な『Σ』の紋章を輝かせ、周囲の民衆の力を束ねようと試みた。
だが、紋章の光は空しく虚空を滑るだけだった。弾き出される計算結果は『不成立』。
今の彼らには「俺に力を貸す」という選択そのものができない。感情を奪われ、命令どおりに動くだけの手は、どれだけ働いていても同意として繋がらない。
総和の計算式が成立するための、最も重要な一項が欠落している。
「同意がない力は束ねられない。それが君の『足し算』の限界だ」
アインは黄金の魔力を揺らめかせ、幻影のように俺の目の前へと滑り出た。
底知れない瞳が、俺を覗き込む。
「だが、シグマ。君には彼らを繋ぐ『総和線』の応用技術がある。君がその気になれば、同意などという無駄な手順を省き、私のように彼らの意識へ強制的に接続し、力を奪い取ることができるはずだ」
「……」
「やれ。彼らから残った自我を強制的に引き剥がし、私を倒すための燃料として使え。私と同じように他者を最適化の道具として扱う覚悟がなければ、君はここで死に、この国は永遠に私の楽園となる」
悪魔の誘惑だった。
俺の総和線を暴力的に拡張すれば、確かに一時的な強制接続は可能かもしれない。同意のない力を強引に足し合わせ、アインの無限と相殺するだけの巨大なエネルギーの塊を捏造する。
全体を救うという正しい結果のために、彼らの意志を完全に無視して、ただの計算の『一項』として消費する。
かつて俺が、仲間たちを救うためだと思い込み、彼らの意思を確認せずに自動演算機構への接続を切断したように。
――ズキリ。
左手首の紋章が熱く脈打ち、あの純白の空間の、最後に欠落していた記憶が脳裏に蘇った。
俺が、アインの用意した永久接続の光の線を、手刀で両断したあの瞬間。
声を出すこともできず、光の粒となって消え去ろうとしていたイネラが、最後に俺に向けて放った、微かな、だが確かな思念。
それは、死への恐怖でも、俺への恨みでもなかった。
『……次に選ぶときは、私たちにも選ばせて』
その悲しげな願いの響きが、俺の胸の奥底を激しく締め付けた。
俺が犯した最大の罪。それは、彼らの命を奪ったことではなく、彼らが自分自身の運命を「選ぶ権利」を奪い取ったことだ。
正しい結果であれば、他人の意思などどうでもいい。そんな傲慢な計算は、アインの無限神託と何一つ変わらない。
「……断る」
俺は顔を上げ、アインの冷酷な瞳を真っ直ぐに見据えた。
「俺は二度と、他人の選択を奪わない」
「愚かな。ならばこの数万の動かぬ人形を前に、君はどうやって私に勝つというのだ?」
「人形じゃない。こいつらは人間だ。だから……一人ずつ、俺が確認する」
俺はアインから背を向け、虚無の瞳で瓦礫を運んでいる一人の初老の男の前に立った。
彼らはアインの麻酔で眠らされているだけだ。その奥底には、必ず彼ら自身の意志が残っている。
俺は左手首のΣの紋章を、男の胸元へとそっと押し当てた。
強制的な魔力の強奪ではない。これは、俺からのノックだ。
「おい、起きろ。答えだけを与えられる安全な檻の中で、ただ生きながらえるだけの機械になるか。それとも、間違える痛みを背負ってでも、自分の足で歩くか」
俺の魔力が、アインの統制の分厚い殻へ細い亀裂を入れる。
男の手から、運んでいた瓦礫がゴトリと滑り落ちた。だが、すぐには目覚めない。震える手で瓦礫を拾い直し、命令された作業へ戻ろうとする。
「名前は」
「……番号、七千二百……」
「番号じゃない。誰かに呼ばれていた名だ」
男は何度も口を開閉した。殻を割るだけでは足りない。中に残る本人が、自分の記憶を掴まなければ戻れない。
「最後に、自分で選んだことを思い出せ」
長い沈黙の末、男は掠れた声で、病気の妻へ自分のパンを半分残した朝のことを語った。効率的ではないと神託に止められても、自分でそうしたのだという。
ようやく焦点の合っていなかった瞳に、微かな光が戻る。
「自分で、選べ」
俺の言葉に、男の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
無限の麻酔が解け、失っていた感情と痛みが一気に逆流したのだ。それでも男は、誰に強制されるでもなく、震える両手で自身の胸を強く握り締め、力強く頷いた。
「俺は……俺の意思で、生きる……ッ!」
だが、男はすぐに俺へ力を差し出さなかった。周囲を見回し、怯えの残る目で尋ねる。
「目を覚ましたあと、妻の薬はどうなる。明日のパンは。無限聖人に逆らえば、また全部取り上げられるんじゃないのか」
記憶を取り戻すことと、現実に選べることは同じではない。領都で学んだはずの項を、俺は今度こそ落とさなかった。
「王家の非常用穀倉は開いてある。協力するかどうかに関係なく、七日分の食事と治療を受けられる。家族を人質にはさせない」
俺は総和線へ、セレナと事前に決めた備蓄場所を流した。目覚めた者たちが同じ告知を繰り返し、食料庫へ向かう道を示す。男は長く迷った末、妻を避難誘導の者へ託し、それから初めて自分の手を俺へ差し出した。
その瞬間。男の胸の奥底から立ち昇った『同意』の力が、確かな一項目の数字となって、俺の総和の計算式へと飛び込んできた。
たった一人の、微弱な意志の力。
アインの持つ無限の質量から見れば、海の水をスプーンで掬うような、あまりにもちっぽけで無力な数字だ。
「正気か、シグマ。一人ずつ神託を解除して意思を尋ねるだと? この広場にいる人間だけでも一万人を超えているのだぞ!」
アインが理解不能だとばかりに声を荒げる。
「ああ。一人を起こすのに、これだけ時間がかかる。だが、次は俺一人じゃない」
目覚めた男が、隣で瓦礫を運ぶ女の名を呼んだ。俺の紋章で殻に亀裂を入れ、彼が本人しか知らない記憶を問いかける。一本だった呼び声が、二本目へ枝分かれした。
「俺の力は『総和』だ。意思を一括で奪うことはできないが、一人ずつ生まれた選択を繋ぐことはできる」
俺は次の人間の前へ歩みを進め、再び紋章の光を灯した。
「一万人が相手なら、一万回尋ねる。俺たち全員でだ。小さなものを一つも忘れずに集める」
効率や最適化を捨てた、愚直なまでの問いかけ。
足りない一項を埋めるため、俺は広場を埋め尽くす民衆の海へと、ただ一人で足を踏み入れていった。




